映画『悲しみの天使』(『寄宿舎』)原作
『特別な友情』覚え書き

鷺澤伸介
(初稿 2018.1.5)
(最終改訂 2019.12.31)

★ロジェ・ペルフィット(1907-2000)の小説『特別な友情』(ジャン・ヴィニュー出版社刊)についての覚え書きです。

『特別な友情』注釈(不完全版)

この作品は、カトリックの男子寄宿学校が舞台になっていることと、主人公のジョルジュ・ド・サールが文学者を夢見るたいへんな秀才であることから、本文をきちんと理解するためにはキリスト教や文学(フランス文学とは限らない)についての広範な教養が必要となります。
……恥をしのんで告白しますと、この小説、全文どうにか訳してはみたものの、実はよく分からないまま日本語に移しただけという箇所がいくつも存在します(コレージュやリセなどフランスの学制の現代との違い、聖人その他にまつわる多くの宗教的エピソード、免償のシステム、「テスピアのアムール」という塑像の実体等々……)。本文中に注釈を付けなかったのは、「これはちょっと自分の手に余る」と感じられたことが原因です。ここでは、本文理解のための注釈として調べがついているものを書き出してみますが、不完全版となることをご了承ください。なお、Wikipediaなどで簡単に調べられるものは除きます。
○ランスロの『ギリシャ語語根』のそれ(p.6)……文法学者クロード・ランスロ(1615-1695)の『ギリシャ語語根の庭』を指している。
○今朝から聖体拝領ができるよう新学期前に告解をしていたのだ(p.28)……罪を犯した者は告解をしてからでないと聖体拝領ができない。
○君が馬で、僕がヒバリだって言ってるようなもんだな(p.68)……ヒバリのパテには馬肉を混ぜるらしく、馬肉の方が量が多いことから、不均衡があることをいう。
○たとえあなた方の罪が深紅のように赤かったとしても……(p.81)……イザヤ書1-18。
○僕は回心する(p.86)……原文「je suis converti」。VHSで見た映画の字幕は「転向」となっていたが、原作のリュシアンはこの後免償にのめり込んでいくので、形容詞converti(動詞convertirの過去分詞)は「転向」ではなく「回心」と訳す方がよいと思う。(回心……キリスト教で、宗教的思想や態度の明らかな変化を伴った信仰的成長。キリストによる罪のゆるしと、洗礼とによって起こる心の大きな転換:日本国語大辞典)。同様に、映画の賛美歌を歌うシーンでリュシアンがジョルジュに渡す手紙の文面「Prier beaucoup pour la conversion de Georges」の字幕も、「転向者ジョルジュのために祈りを」ではなく、「ジョルジュの回心のために深い祈りを」とした方がよい。
○キリストの下婢(p.92)……修道女などが自分についていう。ここではテレーズのこと。
○サマリヤの女だっていいさ(p.102)……「我が最愛の君よ」の詩は、エドモン・ロスタンの戯曲『サマリヤの女』第一幕第五場で、主人公のフォティーヌがイエスに向かって歌うもの。
○それがまさに君の娘が唖になった理由だ(p.111)……モリエールの『いやいやながら医者にされ』第二幕第四場の、主人公スガナレルのセリフ。相手を煙に巻くような説明の後でこのセリフがくるので、そういう場面で使うらしい。
○エナン~ミニョン(p.115)……「エナン」は15世紀の婦人用尖形帽のこと、「ミニョン」は女性的な物腰、服装を好んだアンリ三世の寵臣のこと。フランソワ一世の在位は1515~47年であるのに対し、エナンは1400年代、アンリ三世の在位は1574~89年なので、アルマジロ先生の「遅すぎ」「早すぎ」は、「エナンはこの時代には遅すぎます」「ミニョンはこの時代には早すぎます」という意図での評言であろう。
○アカデミーの厳格な会合が四旬節中日に開かれた。それはジョルジュには、主として追悼の辞の読解とルイ十四世時代の宗教に専念している仲間に対し、かなり不作法に思われた。(p.185)……四旬節は復活祭前の、日曜日を除いた四十日間を指し、その第一日目は「灰の水曜日」となる。四旬節中は節制して過ごすが、四旬節中日(四旬節の第三週目の木曜日)だけは例外で、この日は節制を忘れて謝肉祭のような一日となる。よって、この部分は、「厳格な会合」に対して節制のたがが外れる四旬節中日は、ジョルジュには「不作法」に感じられた、ということであろう。
○ジュリーの花輪(p.185)……62のマドリガルを含む写本。ランブイエのサロンでモントジエ公爵が贈ったもの。
○ポレクサンドル(p.186)……マラン・ル・ロワ・ド・ゴンベルヴィルの同名作品の主人公か。
○その思考の上を砂売りおじさんが通って行った(p.198)……「砂売りおじさん」は、目に砂を振りかけて眠らせるおとぎ話の人物。「砂売りのおじさんが通ったよ」で「さあもうおねむだね、ねんねしようね」の意。
○騎士の徹宵(p.237)……騎士の叙任式の前夜のこと。叙任式で騎士になる者は、礼拝堂で武器を祭壇に安置し終夜祈禱を捧げた。「(重大事の)前夜」の意でも使われる。
○《意図の導き》(p.241)……パスカルの『プロヴァンシャル』の中に出てくる用語らしい。
○彼は寓話作家の詩句を繰り返した(p.245)……「寓話作家」はラ・フォンテーヌのこと。「私は大らかな夜を……」は彼の『アドニス』という長詩の一節。
○ミサの平和のキス(p.251)……baisers de paixで「(ミサの時などに行われる)平和の接吻」のこと。
○アルパゴン(p.260)……モリエールの戯曲『守銭奴』の主人公の名前。
○サウロがダマスコへの途上でそうなったように(p.275)……使徒行伝9-4。
○カトゥルスがユウェンティウスの蜜のような目に三十万回以上もキスするつもりだったという短いエピグラム(p.281)……カトゥルス『歌集』48。
○ド・トレンヌ神父(p.287)……この神父は、原文ではすべてde Trennesと表記されており、また「『ド』が、彼らの間に絆のようなものを作り出している」とあるのだから、訳す場合も「ド」は略さない方がよいと思われる。
○子供たちの唇は薔薇のように開く……(p.299)……ミュッセの詩劇『杯と唇』第三幕最後のフランクのセリフの中にある。
○バヤール(p.302)……「怖れを知らぬ理想の騎士」の異名を持つ(1476-1524)。
○雪は黒いというギリシャの詭弁(p.303)……アナクサゴラス「雪は凍った水である。水は黒い。ゆえに雪は黒い」。
○使徒の言葉のように、純粋な者にはすべてのものが純粋なのです(p.303)……テトスへの手紙1-15。よって、使徒とはパウロのことである。
○《愛は火と炎のランプ》~《緋のように赤い罪》(p.313)……前者は雅歌8-6、後者はイザヤ書1-18。
○『兄弟とともに暮らすことは何と素晴らしく甘美なことだろう!』(p.316)……詩篇133-1。
○我が父の家には、住まいがたくさんあります(p.317)……ヨハネ福音書14-2。
○まるでアルテニスの青い部屋のように(p.324)……Arthéniceは、ランブイエ侯爵夫人の名前Catherineのアナグラム。アルテ『ミ』スではない。ランブイエ館には「青い部屋」と呼ばれる部屋があり、そこが文学者たちのサロンとなっていた。
○詩篇の中の『王はあなたのうるわしさに夢中である』という文句のようにね(p.341)……詩篇45-11。
○オルムズドとアーリマン(p.352)……ゾロアスター教の主神と悪神。前者は善と光明の神、後者は悪と暗黒の神。
○『少数の選ばれし者へ』(p.372)……ジャン=バティスト・マシヨンの著作。
○『人間の権利』(p.380)……トマス・ペインの著作。
○ヒッポの司教(p.387)……ヒッポとは、アウグスティヌスが司祭となった北アフリカの都市。
○カンブレの白鳥(p.392)……フランソワ・ド・サリニャック・ド・ラ・モット・フェヌロン(1651-1715)のこと。ギュイヨン夫人がフランスに伝導した「静寂主義」(キエティスム)に共感を寄せたため、モーの鷲ことボシュエと対立した。
○抗議しようとしているメロップみたいだった(p.392)……メロップはヴォルテールの同名の戯曲の主人公。
○来たる収穫にケレスの優待を祈るアルウァレスに感嘆した(p.396)……アルウァレスは、古代ローマで、農耕と大地の女神デア・ディーア(ケレスと同一視される穀物の女神)に仕えた12人の神官団のこと。
○『訴訟狂』(p.403)……ラシーヌの戯曲。
○『リチャード獅子心王』(p.420)……ミシェル=ジャン・スデーヌ(1719-1797)に同名の戯曲あり。グレトリがオペラ化している。ただ、この戯曲には、セリフ付きの役としての「小姓」は登場しないようなので、ここでの『リチャード獅子心王』がスデーヌのものかどうかはよく分からない。なお、この王の名前は、フランス語読みなら「リシャール」だが、イングランド王なので英語読みにしておいた。
○「しるしのようにそなたの心に、しるしのようにそなたの腕に、私を置いてください」(p.429)……雅歌8-6。
○かの塩柱のようにも思われた(p.441)……聖書のソドムとゴモラの物語で、ロトの妻が塩柱になったというエピソード(創世記19-26)によるものだろう。
○エトセトラ・パントゥフル(p.446)……直訳すると「その他スリッパ」だが、パントゥフルは「その他もろもろ」という場合にエトセトラに続けて使う、意味のない単語らしい。
○食堂の説教台で(p.446)……原文は「en chaire au réfectoire et en os」で、「et en os(骨の)」という謎の語句がくっついている。これはたぶん、「en chair et en os(本人自ら、生身の)」というイディオムのchair(肉)がchaire(説教台)と同じ発音であることから、リュシアンがシャレでくっつけたものだろう。
○前例にかたどり、前例に似せて起こったもので(p.447)……創世記の「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」のパロディ。
○カプアの歓びの中では眠りに落ちるかもしれない(p.447)……「カプアの歓びの中で眠りに就く」は、有益な時間を無駄にして軟弱化すること。 ハンニバルがカプアを冬の宿営地とし、住民に歓待されたことで、軍隊が平和ボケになったという伝承に基づく。
○神様の恩恵に浴した状態以外で拝領したことはありません(p.448)……罪を犯していない状態のときにしか聖体拝領をしたことはない、の意。
○あなたが次席賞を取るにしても(p.453)……「次席」は単独第二位のことではなく、主席グループの下のグループのこと。
○ガロのように神の仕事をやり直そうとしていた(p.466)……「ガロ」は、ラ・フォンテーヌ『寓話』第二集九巻第四話『どんぐりとかぼちゃ』の登場人物。
○『黄金詩集』の著者の代わりに(p.466)……『黄金詩集』はアナトール・フランスの詩集。
○炎の剣の代わりに(p.472)……「炎の剣」は、アダムとイヴを楽園に入れないため天使が持つ剣。
○「くそ」、あるいは「ちくしょうめ」(p.498)……vertubleu・vertuchouという罵倒語は、「vertu Dieu」=「神の徳」をもじった表現。
○アルマナ(p.503)……絵や逸話入りの暦、あるいは年鑑。ここでは後者を指すか?
○パンズーの巫女(p.510)……「パニュルジュ」(p.506)同様、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の登場人物。
○国民の祝日(p.514)……七月十四日の革命記念日のこと。
○最後の言葉はほとんど時宜にかなっていないと思った(p.542)……「お許しを! お許しを! 父上(モン・ペレ)……」は、「お許しを! お許しを! 神父様(モン・ペレ)……」の意味にも取れるので、それが時宜にかなっていないと感じたのである。
○形色(p.588)……パンとぶどう酒のこと。

映画『悲しみの天使』(寄宿舎)のこと

映画と原作との違いは、たくさんありすぎて数えきれませんが、めぼしいところを列挙してみると、次のようになります。
×映画冒頭から登場する目が不自由な音楽教師は、原作では外部から来る初老の女性教師である(会話にしか出てこないので定かではないが、目が不自由ということはなさそう)。
×その関連。映画では、アレクサンドルの方がジョルジュよりもピアノが上手であるように描かれている。映画のジョルジュは二声のインヴェンションさえたどたどしい程度の実力だったが、原作でのジョルジュはショパンが弾けるくらいの腕前であり、一方のアレクサンドルはピアノが弾けるのかどうかさえ定かではない。原作では、アレクサンドルにできてジョルジュにできないのは、水泳くらいである。
×映画のジョルジュは2学年(15歳)、アレクサンドルは4学年(13歳)らしいが(日本とは逆に、数字が小さいほど上級生)、原作ではそれぞれ1学年下である。
×映画のブラジャンは、原作のように病気でリタイアすることはない。
×フットボールでケガをしたアンドレの血を拭ったのは、映画ではリュシアンのハンカチだが、原作ではジョルジュのハンカチである。
×ジョルジュがローゾン神父にアンドレの手紙を密告し、神父から「それが友を糾弾せねばならぬほどの重大な罪なのかどうか、考えなさい」とやんわりたしなめられるシーンは、原作にはない。
×映画のジョルジュは、アンドレの手紙を何の葛藤もなく学長の手紙束の中に紛れさせているが、原作では、学長との面会時にそれを見せるかどうかかなり悩んだ揚げ句、学長室隣の控え室にあるタルチシオ像の台座の下にそれを差し込んで隠そうと思った矢先に、不注意にもそれを落とし、事を発覚させてしまった。……映画でも原作でも、アンドレを放校に追い込んだのはジョルジュなのだが、映画での彼の、クラスメイトを破滅させることに何のためらいも見せないクソ真面目さというか冷酷さは、映画鑑賞者の彼に対する共感を削いでしまうように思える。原作での彼は、アンドレと違って完全な「敵」であったド・トレンヌ神父さえ、クビになることが決まってからは庇っていた。もちろん、ド・トレンヌ神父の罪を明らかにしすぎると、自分とリュシアンも含め、神父の部屋に行ったことのある生徒全員が追及を受けるおそれがあるということも理由の一つなのだが、それよりも、p.381に見られるように、そもそもジョルジュは神父が〈治療刑〉のようなあまりにもひどい目に遭うのは望んでいなかった。基本的に優しい子なのである。
×帰省列車内でゲームをしたり、アレクサンドルの目にゴミが入るのをジョルジュが診てやったりするシーンは、原作にはない。
×映画のド・トレンヌ神父は美術教師のようだが、原作の彼は臨時舎監と聖務だけで、教科指導は担当していないようだ。
×映画では、主人公二人が逢瀬中にローゾン神父に踏み込まれたのは学校の納屋であったが、原作では、大規模散歩の目的地となっている大邸宅(2学年のある生徒の自宅)敷地内にある庭師の小屋であった。
×映画のアレクサンドルは列車から飛び降りて死ぬが、原作では服毒死である。いずれにしても、「自殺は教会による埋葬から排除される」(p.589)ため、事故死として扱われたのであろう。
×映画は最後まで悲劇の色合いが濃いが、原作はジョルジュがアレクサンドルの死を昇華するところで終わっている。
最後に、映画について、個人的な感想を少々書いておきたいと思います。
初めて見たときに驚いたのは、主人公の二人がタバコを吸うシーンでした。
子供が堂々とタバコを吸っているので、もしかしたら日本でDVDが再版されないのはこのシーンが問題なのではないかと勘ぐってしまったりもするのですが、フランスは喫煙の年齢制限がなく、ましてこれはずいぶん昔の映画ですから、目くじらを立てるようなものではないでしょう(フランス映画に詳しい人は、どうやら「別に珍しくもない、ほかの映画にも見られることだ」と感じるらしいので、この映画の特徴というわけでもありません)。
それから、驚いたと言うより違和感を覚えたのが、ジョルジュ役のフランシス・ラコンブラードが、とても14、5歳には見えないことでした。
映画撮影時、彼は21歳か22歳だったようですので、無理もありません。
彼の知的で謙虚そうな雰囲気にはとても好感が持てるものの、ジョルジュ役としてはどう見てもミス・キャストであると言わざるを得ません。
とはいえ、アレクサンドル役のディディエ・オードパンがとにかくかわいいので、ほかの配役のことはどうでもよくなってしまうのも事実なのですけれどもね(笑)。
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