ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:H.フォン・カラヤン
ドイツ・グラモフォン社
フランス国立放送管弦楽団
指揮:P.ブーレーズ
国際レコード組合
モスクワ国立交響楽
団[*]
指揮:R.クラフト
グラモフォン・スタジオ合同組合
1. 序奏
5-6小節で、書いてあるアチェレランドがリタルダンドに代わってしまっている。3以降での第一テンポと第二テンポの区別は、もしあるにしても、私には感知し得ぬほどのものだ。13の5小節前の三連符は遅すぎる。演奏は全体的にかなり口当たりがよく、よく溶け合い、音が持続される。フレーズは、コントラストをなすべき箇所でも重なり合っている。
ファゴットは楽に演奏しているけれども、あまりにヴィブラートつやつやでサクソフォーンっぽい。最初の小節の二番目のフェルマータは長すぎる。8へのディミニュエンドはうまくいっているが、9のオーボエはスタッカートで演奏するべきだし、11の前のトランペットも同様である。ファゴット独奏が戻ってくるときのテンポは速すぎるし、書いてあるテンポ・プリモを無視している。
開始部はさい先が悪い。テンポ・プリモは無気力だし、クラリネットが入ってくる箇所は漫然としている。だが、ピウ・モッソのテンポは良く、7の前のヴァイオリンのトリル、13の前のクラリネットの三連符、それに9のオーボエのアーティキュレーションもほかの演奏よりも良い。この録音されたコンサートでのオーケストラのバランスは、スタジオで制作され、多くの編集を経たことが明白なほかの二つの演奏にはかなわないが、その不利はある程度までは、これがコンサートであるという感触――開始部での、かなりかすかな拍手と、それに続く耳をつんざく鼻すすりと痰切りの合唱――によって相殺されている。
2. 春のきざし
26のオーボエの音型はスタッカートで演奏されるべきだ。28から30の部分は、この演奏では滑らかすぎる。31のホルンとコントラ・ファゴットは弱い。これらのシンコペーションの音は(すべてのシンコペーションの音がそうであるように)アクセントを必要とする。はっきりした発音は34の重い歩みを軽くするだろう。
ここは速すぎる上に粗い。特に15。20の2小節前、同じく21の2小節前では、弦のアクセントがあやふやだ。22の前のチューバはピッチがあいまい。23から28はテンポが定まらない。29の前のトランペットのクレッシェンドは不要で、強める必要はない。31では、ホルンとコントラ・ファゴットのいっそうの強調と聴覚上の存在感が望ましい。33では、テンポのコントロールが必要だ。
テンポは三種の演奏の中ではベストで、31から37にかけていちばん一定に保たれている。22の前のチューバのオクターヴはほかの録音よりよほど音程が合っているし、25のホルン独奏もずっと明確に際立っている。31のピッチカートは、今なら違った記譜をするだろうが、どうすればよいかわからない。
3. 誘拐の儀式
テンポが速いが、せき込むように聞こえることがあることを除けば良い。私としては、小節線の引き直しによって事を容易にしているのではないかと怪しんでいるのだが、問題はない。重大な誤りは、終わりの方の2/4と6/8の小節が均等化していることだ。小節ではなく、八分音符が等価なのだ。
カラヤンよりずっと遅く、44の前ではさらに遅い。48の9小節前は、2/4の小節が長すぎる。2/4の小節のすべての四分音符が同断である。
ほかの録音よりも概して明確だが、44のホルンは遠すぎて、洞穴から響いてくるように聞こえる。
4. 春のロンド
最初の方のバス・クラリネットとそれへピッチカートの重複は、弱すぎる。54の6小節前では、トランペットがオーケストラのバランスを粗暴に乱している。54のメトロノーム160は、「誘拐の儀式」のメトロノーム132よりも遅くなっている。
49と57の前のリタルダンドは、不快な誤りだ。私は、50の3小節後のヴィオラの四分音符をもっと分離することを好むし、53をソステヌートで音を埋めるのは絶対に良くない。55では第1拍が雑だ。
ここにはブーレーズとは正反対の誤りがある。四分音符間を分離しすぎているのだ。53では正しい長さになっている。
5. 対立する部族の儀式
テンポが最初の小節でよろめくが、さらに憂慮すべき失敗は、スタッカートの切れのよい発音の不足である。61の3小節前の音符の上の剣型記号は、誇張された鋭さを要求しており、それはこのセクションを通じて適用される。その後の八分音符は歯切れよく、見事に演奏されている。66やその他あちこちで、ホルンのバランスが崩れている。
3/2の小節の金管の和音が短すぎ、61はアンサンブルが雑だ。65やその他で、ホルンが虚弱で、バス・ドラムとチューバが強い。
57の1番チューバが音を引きずってしまい、59の2小節前のダイナミックスが不安定だ。61から62の部分は奇妙で、この演奏では不適切に抒情的になっている。だが、64の前のトロンボーンのトリルには満足(ロシアではバルブ楽器を使っていた)。66のチューバの獣的な猥褻さも同様。リズムには生気がない。
6. 賢者の行列
70-71のトランペットは音量が突出しており、少なくとも(私が意図した)雑然たる群衆以上のものになっている。
68のオーボエがマイクに近すぎるため、ステージ中央が枝葉によって占拠されている。70から71では、リズムのポリフォニーとオーケストラのバランスがすばらしく明晰だ。
70のポリフォニーはじゅうぶん明晰だが、バランスはブーレーズの録音の方がずっと良い。
7. 賢人
弦楽器の和音はバランスが取れていない。高音の楽器がマイクロフォンに近すぎる。
これは二倍以上速い。もし速い指揮のためのオリンピックの試合があったなら……いや、このパッセージを書いていた時、私はまだ《サロメ》の首斬りの音楽を聴いてはいなかったのだ。
テンポは適切だが、弦楽器の和音はバランスが取れていない。今なら、私はここに「スフォルツァンド」と書くだろう。
8. 大地の踊り
根拠のないアチェレランドが音楽の形成を弱めている。最後の和音は修羅の巷である。
75のバス・クラリネットが「オン・マイク」で直接的すぎる。78のバスとチューバは、あまりにも遥か「彼方」だ。こう言ったら危険かもしれないが、メトロノーム168よりも速いテンポは異常ではないのである。これはプレスティッシモの踊りなのであって、何と言ってもアレグロではないのだ。この楽章ではバーンスタインのテンポが正しい。
三つの録音中、最も良く最もエキサイティングなテンポだ。75の主声部がヴィオラになっているが、そうあるべきである。弦楽器が、ほかの二つの演奏よりもクリアーだ。
9. 序奏
最初はコオロギを聞くようだ。自然の雰囲気を加えようとでもいうのか?次の避暑のことを考えてでもいることが眠たいテンポの原因なのだろうか?84のバスはほかの弦楽器よりも弱い。85のホルンのピアノは、86のトランペットのピアノと比較するとフォルテである。89、90……
これは速すぎる。84の後の第2トランペットは控え目すぎだ。91の前の独奏チェロ奏者は、まるでサン=サーンスに共感しているかのように急降下している。
84の開始部分の弦のバランスも二本のトランペットのバランスもベストだが、貧弱なチェロの入りが85の楽句を台無しにしている。
10. 若い娘たちの神秘的な集い
……91のテンポ・チェンジは、やっているとしても、この演奏では微々たるものだ。99と100のバランスは完璧だが、音量が大きすぎる。指揮者はたぶん、理想としては自分の分身であるべきレコーディング・エンジニアの犠牲者なのだ。103の2小節目の最初のテンポはふらついている。
97の前にリタルダンドを加えることは、97から始まる静かな拍動を破壊する。99のホルンのバランスはお粗末で、101の前のフェルマータはうまく釣り合いが取れていない。が、より重大な欠点は、102のアチェレランドは103の2小節目に持っていくべきなのに、ここでのように、それを通り過ぎ、さらにはもっと遅いテンポに横滑りすることを強いられていることである!
97のテンポは速すぎる。100での第1チェロの早計な飛び出しは、この曲がソビエトではまだいかに知られていないかを示している。実際この録音は、この50年間でモスクワのオーケストラによる二番目の演奏として記憶されている。102のアチェレランドはうまく処理されているし、103のオーケストラの大出血もそうだ。
11. 選ばれた者の賛美
テンポは良いのだが、音は鋭く針のようであるべきだ。117の前のモルト・アラルガンドは、ここでは5つの均等な拍となってしまい、誤った演奏になっている。
カラヤンの演奏の方が安定しており、ここでは118の1小節目のリズムが歪んでいる。しゃっくりが起こり、弱拍が強拍になっている。
テンポが正確である。
12. 祖先の呼び出し
これは遅すぎる!拍動は前の部分と同じで、前の八分音符とここの四分音符は連結する車輪のように等価であるべきなのだ。
テンポは完璧で、アーティキュレーションもよいのだが……
バスの「E」が不明瞭なため、ここだけでなく一様に、私はこの演奏のためにパートの修正をした。Fシャープ(上げ弓)、E(下げ弓)、Dシャープの三連符を作ったのだ。今後は、私はそれぞれの音群の最初の音のみにティンパニを叩かせることにするだろう。だが、「この」演奏へのこれらの変更の結果は、不当で不首尾なスピードのロスとなっている。
13. 祖先の儀式的行為
メトロノーム的に正しいか否かはともかく、ここのフーチ・クー
チ[*]のテンポは遅すぎる。
138で、音楽はディズニーの死んでいく恐竜よりも鈍感だ。
136の2小節目は、三連符をくっつけるのではなく分離しなければならない。
139では、バス・トランペットが弱すぎ、イングリッシュ・ホルンが強すぎる。
140のクラリネットのイントネーションが悪い。
142の3小節前のルバートは不要で、活気を失わせてしまう。
……「ここ」は速すぎるし、オスティナートの強拍が大きすぎる。特に第1ホルンと第1ヴァイオリン。132でのトランペットは、あまりにためらいがちに、また自信を奮い起こそうと遅くしすぎているため、正しい場所にいることに確信が持てていないように思える。ちなみに、私はこのパッセージをレガートで演奏することを好まない。たとえそのように印刷されていたとしても、だ。
131で、おかしな打楽器の「ハプニング」が聞こえる。誰かが何かを落としたのか?それとも別の箇所を練習しているのか?132のトランペットのアーティキュレーションは立派だが、134のトランペットとトロンボーンは、ホルンに対して音が大きすぎる。バス・トランペットとG管フルートの間のバランスは良い。ついでに言えば、この小さな対話は、それに続くクラリネットのメリスマともども、ベストの動きだ。その残りの部分は、映画のサファリ・ミュージックのモデルになって久しいが、このスコアの中でいちばん長持ちしなかった。欠点がその模倣の容易さだと考えれば、慰めとなるかもしれないが。
14. いけにえの踊り
のろいテンポが、この地点まで生き残っていたテンションすべてにとどめを刺してしまう。189のバランスは歪んでいる。ほかの無法者たちの中でも、第1トランペットが、D管トランペットに対してやかまし過ぎるのだ。
最初のテンポは、速いけれど良い。その後、
157と
159は不似合いな速さで、カラヤンのスロー・テンポと同様、それによってテンションが四散してしまっている。ちなみに、どちらの演奏も、アクセント
()に少しも注意を払っていない。アチェレランドがあまりにも早く、
165で始まっている。
190の3小節前のテンポは引きずっている。
154の2小節前のように、オーケストラが揃っていない箇所がある。
ティンパニストが148近くのどこかで数え間違いをしている。オーケストラと関係なく、この節の先で終わってしまっている。再び、ソビエトの音楽家がこのスコアに不慣れなことを示す類のミスである。テンポは良く、乱雑であるにもかかわらず、アドレナリン興奮作用はほかの録音よりもずっと大きい。197の2小節目、最後のセクションへの旋回点とリズムの変化は、まさにこの演奏のターニング・ポイントのように感じられる。
概要
録音は全体に良く、演奏は全体に風変わりである。それ自身の方法で洗練されてはいるのだが――実際、あまりに洗練されすぎていて、本物と言うよりは、飼い慣らされた野
獣[*]といったところである。主たる欠陥は、ソステヌート・スタイルにある。音の長さが、ここではほとんどヴァーグナーやブラームスにおけるのと同じなのである。それが音楽のエネルギーを削ぎ、リズミカルな発音の箇所では音を出すことを困難にさせている。しかし、おそらく、私はこの音楽が、この演奏者たちの文化には相容れないと述べることから始めるべきだったのだろう。シェーンベルクは、「ネクタイとシルクハットだけを着けている野蛮な黒人の支配者たち」を想像させたと言って、この曲が中央ヨーロッパの伝統に対する襲撃であると認識した(1925年に、私が彼の「12音技法」を行き止まり――ザックガッセ――だと宣言したと言われると、彼はだじゃれでこう返した。「エス・ギープト・カイネ・ザッケレ・ガッセ・アルス・『ザクレ』」……「《祭典》よりも行き止まりの路地などあるものか」)。とにかく、私は、フォン・カラヤン氏の伝統の語法では、《祭典》が満足に演奏され得るものかどうか疑問に思う。だが私は、彼が彼の背が立たない深みにはまっていると言いたいのではない。むしろ、彼は私の浅み――すなわち単純な実体性と具体性の中にいる。《春の祭典》には、心理探究のための領域がないだけなのだが。
第一に、録音について。《祭典》の広大なダイナミック・レンジが、メゾ・フォルテを標準とする録音で去勢されている。エコー・チェンバーのフランネルの中にそれぞれの音がほぼくるまれているのだ。それはレコード産業の最も不快な虚偽陳述の一つである。騒音それ自体は「交感的言語」であり、音量は一つの要素である。そして、音楽の中には音のレベルの中庸化などほんのささいなダメージに過ぎないものがある一方、それは《祭典》からはその重要性の一つを奪ってしまうことになる。それが、今なお、録音でこの作品を聴いてきた者に、生演奏がショックを与える理由の一部なのである。第二に、演奏について。私が巨匠ブーレーズの高い標準から期待していたのよりも良くはない。フォン・カラヤン氏の「文化」がブーレーズにはまったく欠乏していることが、ここでは生得の利点であるから、この音楽はブーレーズの「メイン・ディッシュ」であるとも思われるかもしれないが。粗雑さ――驚かされるが重要ではない――だけでなく、たいへんまずいテンポがいくつかある。アーティキュレーションは概して見事で、ドイツ・グラモフォン社の演奏のよい中和剤である。
これがコンサートの録音テープに過ぎないのと同様、演奏についてもエンジニアリングについても、編集された二つの録音との比較に耐え得るものではない。だが、音楽は、フランスの録音ではフランス風に、ドイツではドイツ風に響くという次第だから、ロシア人はロシア風に響かせるもので、それはまったく正しいことである(音楽的語彙におけるこうした国有化とは何を指して言っているのかを説明するだけのスペースはない)。それに、もしロシアのオーケストラが《祭典》に不慣れだとすると、それは保守的な社会主義者の聴衆にとって、急進的革命家のスローガンのように響いたに違いない。いずれにせよ、それは、少なくとも《祭典》が指揮者のショウ・ピースとなっていて、また運が良ければ一回だけリハーサルを受けられるような我々の大都市のスモッグに満ちた大気以上に、大気を満たすのに役立つ。
三つの演奏のいずれも、保存されるのに十分良いとは言えない。