アドルノとレボヴィッツのシベリウス批判 日本語訳

テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント
Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund
ルネ・レボヴィッツ
René Leibowitz
鷺澤伸介:訳
(初稿 2021.5.25)
(最終改訂 2021.5.28)

ドイツの哲学者アドルノによる、シベリウスに対する辛辣な批判として有名な「シベリウス注解」(原題:Glosse über Sibelius、原文:ドイツ語)と、フランスの作曲家・指揮者のルネ・レボヴィッツによる、やはりシベリウスを批判したエッセイ『シベリウス 世界最悪の作曲家』(原題:SIBELIUS le plus mauvais compositeur DU MONDE、原文:フランス語)を翻訳しました。
(表記揺れ:ルネ・レイボヴィッツ、ルネ・レーボヴィッツ、ルネ・ライボヴィッツ、ルネ・レボヴィツ)

底本

シベリウス注解 [*]

テオドール・アドルノ
ドイツやオーストリアの音楽圏で育った者は、シベリウスの名前をあまり口にしない。その者が彼のことを、シンディングと地理的に、ディーリアスと音声的に思い違いしていないとしたら[*]、人畜無害なサロン用小品《悲しいワルツ》の作曲者として記憶に残っているか、あるいは《大洋の乙女》や《トゥオネラの白鳥》のような埋め草的曲目──やや漠然とした外観の、思い出すことが難しい、比較的短い標題音楽──でかつてコンサートで遭遇したか、といったところであろう。
イギリスに来ると、おまけにアメリカでもそうなのだが、その名前は際限なく増大し始める。それは自動車の銘柄と同じくらい人口に膾炙しているのだ。ラジオとコンサートではフィンランドからの楽音が響いている。トスカニーニのプログラムはシベリウスに開かれている。譜例が埋め込まれた長いエッセイが刊行され、そこで彼は、現代の最も重要な作曲家として、真の交響曲作家として、永遠の非現代的存在として、そしてまさにベートーヴェン的人物として、称えられている。シベリウス協会が設立され、彼の名声に寄与し、同時に彼の作品のレコード録音を売り込むことに取り組んでいる。
人は好奇心を抱き、いくつかの主要作品、例えば第4や第5交響曲を聴く。彼は前もってスコアを研究する。それらは内容に乏しく、愚鈍なものに見えるので、彼は、秘密は耳で聴くことでしか明かされ得ないのだと考える。しかし、聴いた音が見た印象を変えることはない。
それはこんなふうに見える。「主題」として、何かまったく非造形的で通俗的な音の連なりが並べられている。たいていはきちんと和声付けさえされておらず、その代わりオルゲルプンクトや、動かない和声や、その他、五線が論理的な和声進行を回避するために提供するにすぎないものを伴った、ユニゾンとなっている。これらの音の連なりには、例えば赤ん坊がテーブルから転げ落ちて背骨を負傷するように、ごく早いうちから不幸が降りかかる。正しく進むことができない。立ち往生する。思いがけない場所でリズム運動が急に途切れる。進行が理解できなくなる。その後、単純な音の連なりが戻ってくる。ずらされ、歪められているけれども、一歩も進んではいない。こうした部分は、擁護者たちにベートーヴェン的だと認められている。些細なもの、つまらないものから、一つの世界が生み出される。でも、それは私たちが生きている世界にふさわしいものです。荒削りで、謎めいて、使い古され、矛盾を孕み、ありふれていて、不透明。ここでもまた擁護者たちは、これこそがまさに、型にはまることをよしとしない表現形式創造の巨匠の、比類のなさを証明しているのです、と言う。しかし、その比較不可能な表現形式を信用することなどできるものではない。そこでは明らかに、四声部の書法が測定できないのである。学校課題よりも優れているとは思えない。彼は学生みたいな素材を使用しながら、規則を扱う方法を知らないだけなのだ。それは孤立無援の独創性である。独自性を失わないために作曲の授業を受けることを恐れるこうしたアマチュア・タイプにおいては、その独自性自体、以前にあったものの破壊された残りかす以外の何ものでもないのである。
作曲家としてのシベリウスに対して費やすべき言葉は、そのようなアマチュアに対するのと同じくらいわずかしかないだろう。彼は、祖国の音楽的な植民地化については大きな功績があったかもしれない。ドイツの作曲研究の後、自分が一曲のコラールを作りおおせることもきちんとした対位法を書くこともできないという事実を十分自覚しつつ、当然の劣等感を抱いて国に戻ったことは、容易に想像できる。学校教師の批判的な目の前から隠れるため、千の湖の国に身を潜めたということだ。自分の失敗が成功として、無能さが必要なものとして判断されたことに気づいて、おそらく本人以上に驚いた者はいなかったであろう。結局のところ、彼はおそらく自分でもそれを信じ、目下のところ第八交響曲を、まるでそれが第九ででもあるかのように何年にもわたって温めているのである。
興味深いのはその効果だ。一人の作者が、世界的な名声と、いかに操作されているにせよ古典的な様式とを獲得して、その技術的水準は完全に時代遅れなだけでなく──それはまさに彼の功績と見なされるからなのだが──、彼自身の水準にもまったく届かないことがはっきりしていて、建築材料から大きな建築物に至るまで、因習的な手法をあやふやな、というかへたくそな使い方で利用している、などということは、どうすれば可能になるのだろうシベリウスの成功は、音楽意識の錯乱の兆候だ。大いなる新音楽の不協和音にその表現を見いだした地震は、小さな時代遅れの音楽をも無傷のままにはしなかった。それはひびを入れられ、歪められた。しかし、人々は、不協和音からは逃げる一方で、誤った三和音には救いを求めた。誤った三和音。ストラヴィンスキーがそれを徹底的に作曲し尽くした。彼は、誤った音を付け加えることで、正しいものがどのように誤ったものになるのかを実例で説明した。シベリウスの場合は、純粋なものですらすでに誤って響く。彼は心ならずもストラヴィンスキーなのである。才能はわずかしかないのだが。
彼の信奉者は、そういうことは知ろうとしない。彼らの歌にはリフレインが響いている。「すべてが自然、すべてが自然」と。偉大なるパーン(牧神)が、また要求に応じて血と土[*]が、たちまちのうちに現れる。月並みさは自然で飾らないものと見なされ、また獣じみた荒々しさは無意識の創造の音と見なされる。
この手の基本概念は、批判をかわす。自然のムードが畏敬に満ちた沈黙に結びつけられるのは、大勢を占める信念だ。しかし、自然のムードという概念が、現実の中で問われないままにされるべきでないのなら、それは芸術作品においてもしかりだろう。交響曲は千の湖ではない。たとえそれらに千の穴があるとしても。
自然のムードを表現するために、音楽は技術的な規範を作り出した。印象派のそれである。19世紀フランス絵画に続き、ドビュッシーは、可視世界の表情と無表情、露光と陰影、色彩と薄暗さを、詩的な言葉が後塵を拝するような楽音の中に取り込む方法を開発した。その方法はシベリウスとは無縁のものだ。Car nous voulons la Nuance encor(我々はもっとニュアンスを求めるから)[*]──これは、光沢のない、硬直した、偶発的なオーケストラの色彩への嘲笑のように聞こえる。それはen plein air(野外の)音楽ではない。乱雑な学校の教室で演奏され、そこでは休憩時間に青少年たちがインク壺をひっくり返すことによって自分の天才性を立証するのである。パレットはない。インクだけがすべてなのだ。
彼にはそれも功績とされる。北欧的な奥深さは、一方では確かに無意識の自然と親密な関係を持つはずであるが、また一方では軽々しく自然の魅力を喜ぶはずはない。それは暗闇の中での不機嫌な乱交なのだ。インポテンツ[*]の禁欲は、創造者の自制として祝福される。彼が自然と関係を持っているとしても、それはプラトニックなものにすぎない。彼の王国はこの世のものとは思えない。それは感情の王国である。ひとたびそこに到達すれば、その先すべての説明から解放される。音楽事象そのものにおいて、もし感情の内容がその基盤と同じくらい確定できないのであれば、それが音楽事象の奥深さと見なされるだろう。
が、彼はそうではない。感情は確定できる。もちろん、感情にふさわしく、形而上学的・実存的内容によってではない。感情は、シベリウスのスコアと同じくらいわずかしかそれを持たない。しかし、そのことによって、スコアの中では何が起こるか。それは陳腐と不条理の配置構成である。一つ一つはどれも月並みで慣れ親しんだものに聞こえる。動機は流通している調性的素材からの断片である。かなり頻繁に耳にするものなので、人はそれらを理解していると思う。ところが、それらは無意味な文脈でもたらされるのだ。あたかもガソリンスタンド、ランチ、死、グレタ[*]、鋤(すき)の刃といった言葉を、動詞や不変化詞とともに手当たり次第につなぎ合わせているかのように。平凡極まりない細部から生じる不可解な全体は、謎めいた深淵の幻影を作り出す。人は絶えることなく理解できることを喜び、また実際には理解していないことを、それに気づきながらも、やましさを感じることなく喜ぶのである。あるいは、現代の音楽意識の特徴的性質となっている完全なる無理解は、シベリウスの語彙が生み出した分かりやすさの外観に、そのイデオロギーを持っている。
進歩的な新しい音楽への抵抗、中傷を伴う陰険な敵意の中には、習慣的・普遍的な嫌悪だけでなく、古い手法ではやはりもう満足なことはできないのではないかという特有の懸念も聞き取れる。それは「使い尽くされた」わけではないのだろう。数学的には確かに、調性の和音にはまだ数え切れないほどの組み合わせが許されているのだから。しかし、それらは見せかけ、偽物になっている。それらはもはや輝かせるものなど何もなくなった世界の美化に利用され、そして、技術的方法のいちばん奥の細胞に至るまで、既存のものに批判的な攻撃を加えることがない音楽では、もはや書かれるための需要などないのではないか。人は、シベリウスによってこの懸念を逃れたいと望んでいる。これが彼の成功の秘密である。伝統的な後期ロマン派の音楽[*]の真に腐敗した手法が、不十分な処理操作を通じて彼の作品中で形を取る不合理性が、堕落からそれらをすくい上げているように見える。根本的に時代遅れであっても、完全に新しい作曲をすることは可能なのだということ。シベリウスに目を向け、そのことを叫び始めた大勢順応主義の勝利である。彼の成功は、世界がその苦悩と矛盾から解放され、「更新」が可能になり、それでいて所有しているものは維持できるようになるということへの憧れと同等である。しかし、そんな更新願望に何の意味があるのか、またシベリウスの独創性に何の価値があるのかは、その無意味さによって暴露されてしまう。それは単に技術的なものだけではない。無意味な文が、単に「技術的に」無意味ではないのと同じである。それは馬鹿げたもののように聞こえる。古くて衰退した方法で新しいことを表現する試み自体が馬鹿げているからである。表現されるものなど何もない。
土着のフィンランド人にとっては、それはまるで、音楽の文化的ボリシェヴィズムへの反動を形成したあらゆる異議が正当化されたようなものだ。反動主義者が、新しい音楽などというものは、古い音楽の素材に対する自在な処理が十分にできないために存在しているのだ、と想像するならば、それは古いものに頼っているほかならぬシベリウスにこそ当てはまる。彼の音楽は、ある意味、ここ最近では唯一の「腐食分解性」のものだ。しかし、有害なものの解体という意味ではなく、人類が調律された音階の扱いにおいて大きな苦労の末に獲得した、自然掌握的音楽成果すべてに対するキャリバン的な破壊[*]という意味である。もしシベリウスが良いというのなら、バッハからシェーンベルクに至るまで枯れることなく続いてきた、関係の豊穣さ、アーティキュレーション、多種多様さの統一、統一における多様性としての音楽的品質の尺度は、不要になってしまうだろう。これらは皆、シベリウスによって自然に売り渡されるが、それは自然ではない自然、親の住居のぼろぼろな写真なのである。彼は、芸術音楽の大きな損耗に彼なりの貢献をしたが、そこでは工業化された軽音楽が容易に彼を凌駕する。だというのに、そのような破壊は、彼の交響曲の中では創造に変装しているのだ。その効果は危険である。
1938年

シベリウス 世界最悪の作曲家 [*]

ルネ・レボヴィッツ
フランスで教育を受けた音楽愛好家や音楽家は、シベリウスのことをあまり知らない。海外(ドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダ、イタリア)の音楽機関に通ってみたとしても、この音楽家についての重要なことは何も教えてもらえないだろう。名前は知っているかもしれないし、フィンランド人であることとともに《悲しいワルツ》の作者であることも知っているかもしれないし、その人畜無害なサロン音楽の代表例を聴いたことがあるかもしれない。ところが、イギリスやアメリカの音楽活動に従事すると、我々の国ではめったに口にされないシベリウスという名前が、有名な自動車やタバコや歯磨き粉の銘柄とほぼ同じくらい頻繁に現れることに気づくことになる。批評家たちは熱狂的賛辞でそれを持ち上げる。トスカニーニは「ベートーヴェン以来の最大の交響曲作曲家」であると主張しているし、彼の作品の録音と普及という目標を自らに課す「シベリウス協会」さえ存在するのだ。
あなたは驚きと好奇心とに心を奪われ、どうやら同時代音楽の極めて重大なものの出現を捕捉し損ねたようだという気持ちになる。それで、最も重要な作品群の中から選ばれたスコアを参照する(例えば第5交響曲のような)。すると、驚きの方は増大し、好奇心の方は減少する。スコアは、ほとんど考えられないほど、見るからにお粗末さと貧困さを露呈した様相を呈しているのだ。それでも、シベリウスの崇拝者たちはあなたを安心させるだろう。「まあ耳にする機会をお待ちなさい、そうすれば分かるから……」。残念ながら、聴覚は視覚が知覚したものを裏切ることはないのである。
そこでは、だいたい次のようなことが起こっている。いくつかの中身のない曖昧な音型、平凡で卑俗な音型が「主題」の役割を担っている。その進行は不器用で、和声は不正確で、貧弱で、図式的である。その流れは突然中断される。作曲者は可能であった何らかの結果をそれらから引き出すことを考えもしない──何があっても。それからそれらの主題は、でたらめに、先行したものと後に続くものとの関連性もなく再現される。こねくり回され、歪められ、それらが最初に出現したときよりもはるかに不器用に、不快に。
リズムの単調さ、真正のポリフォニーの完全なる欠如、進行の画一性、要するにこのすべてから発散される退屈さに、人はたちまちのうちに眠りに誘われる。曲中でどのように、なぜそれが起こったのかを言うことができない状態で、楽章が終わったため不意に目が覚めることになるというのに。これは第1楽章にすぎなかったのだが、そのほかの楽章で読者が概略をつかむためには、上記のことを読み直すだけでよい。
不安があなたを捉え、「崇拝者」に疑惑を伝えるのはそのときだ。例によって、分かっていないのはあなただということになる。あなたにとっては間違っているように見える和声……でも、それがまさしくシベリウスの独創性を形成するものなのです。展開の欠如……でも、それこそが彼の力量であり、彼を「学校の上」に位置づけるものなのです。リズムとメロディの貧困さ……でも、それがシベリウスの美点で、ベートーヴェンのように最も「単純な」素材を最大限に活用できるのです、等々……。
しかしながら、そのどこからも、あまり正しい音は出てこない。楽節を作る能力がなさそうな人物の交響作品で、それが美点であると言われても、信じることは難しい。学校で落ちこぼれであったに違いない者が、そのように学校上空を「滑翔」できるということにも納得がいかないし、その独創性とやらも、無知、無能力、インポテンツによるものではないのかと、いささか警戒することになる。
しかし、それならばあの驚異的な成功は?
おそらく、シベリウスがそれに真っ先に驚いたことだろう。いずれにしても、シベリウスに古くさい手法で新しい音楽を作る可能性を見る聴衆の保守主義によれば、その成功を説明することは可能である。そのような企ての有効性が立証できるのならば、どれほどの安らぎが、どれほど満足な平穏が得られることだろう。「ほら、だから言ったじゃありませんか、このあらゆる不協和音……。そんなものがなくたって、まだまだいい音楽を作ることはできるんですよ」
しかし、シベリウスの唯一の功績は、そのような「哲学」に対するあらゆるコンプレックスから、我々を解放してくれたことなのである。彼は、大家然としたやり方で、かつては正格であった古くさい手法が現在では誤りになっていることを我々に示してくれたからである。
そしてまた、彼はその手法を使用することによって、世界最悪の作曲家になることほど簡単なことはないということをも、我々に示してくれたのである。

【注釈】
◎著名な哲学者と音楽家によって書かれた、シベリウス音楽に対する「酷評」として非常に有名な二つのエッセイ。おそらく本邦初訳wと思われる。――両方とも十年留保の対象内と見なして翻訳を掲載しますが、過去に翻訳が公表されたことがあったかどうかをご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えいただければ幸いです。
[*]ベリウス注解……筆者のテオドール・アドルノ(1903-1969)は、ドイツの哲学者・社会学者・音楽評論家・作曲家。最初は作曲家を目指してアルバン・ベルクの弟子となり、その後は哲学者・音楽評論家として世界的に有名になる。我が国でもすでに多くの著書が翻訳されていて、哲学方面でも音楽方面でもその名はよく知られている。
この文章の初出は『社会研究雑誌』1938年第Ⅶ年3号で、ベングト・ヴォン・トルネ(1891-1967)の著書『シベリウス:ア・クローズ・アップ』(1937)への「書評」として掲載されたが、読めば分かるとおり、ほとんど書評にはなっていない。初出時には書評かつ雑誌掲載だったこともあって注目されなかったらしく、むしろこの文章の焼き直し的なレボヴィッツのエッセイの方が先に世に知られたようである。30年後に現在のタイトルを付けて『即興曲──第二新編音楽論集』(1968、ペーパーバック全集17巻に入っているのもこれ)に再録されたのを機に、広く読まれるようになった。以下、アドルノのこの文章を、原則として『即興曲』刊行前は「書評」、刊行後は「注解」と呼ぶことにする。
【補注】トルネの著書("Sibelius: A Close-Up" Bengt von Törne 1937)は「伝記」ではなく、「シベリウスの思い出を語ったエッセイ」とでも言うべきものである。筆者の作曲作品に見るべきものがあることをたまたま知ったカヤヌスの口利きで、音大を卒業したばかりの筆者を、弟子を取らないシベリウスが特別に弟子にしてくれた思い出から始まって、その後はレッスン中に語られたシベリウスの言葉の紹介が中心となる。シベリウスが弟子を取らない理由や、細かいオーケストレーションの話(第3交響曲以降でチューバを使わなくなったのはなぜか、開放弦入りのダブルストップの勧め、マーラーのように実力のありすぎるオーケストラを想定して書かないこと等)や、ほかの作曲家(「管弦楽法の二大天才」モーツァルトとメンデルスゾーン、その他ベートーヴェン、ヴァーグナー、ブルックナー、ブラームス、ドビュッシーら)に対するシベリウスの見解などは、たいへん興味深い。この内容の本からこのような攻撃的な書評が書かれるのはかなり奇異な感じがするが、アドルノはトルネの本を、シベリウスについての自説を述べるためのだしに使っただけなのかもしれない。ただ、筆者が交響曲についての自説を述べた第Ⅵ章の中に、短いがマーラーを批判している部分があり(「シベリウスが」批判したのではなく、「トルネが」批判したのである)、そこがアドルノの気に障ったことも考えられる。この本には日付がほとんど出てこないため、トルネがシベリウスの弟子であった期間ははっきりしないのだが、音楽事典やWikipediaスオミによると、1916年から翌年にかけての短い間だったようである。最初の課題は「《ヴァルトシュタイン・ソナタ》第1楽章のオーケストレーション」(いきなり難題!)で、その後もトルネが教わったのはほとんどがオーケストレーションであった。……ただし、この本には不正確な部分がけっこうあって、当のシベリウス自身がそのことに不満を漏らしていたとのことなので、トルネの記述を全面的にうのみにするのはやめた方がよさそうである。どうやらトルネは、自著の出版に際し、その主人公たる師に原稿を見せて了承をもらう労を取らなかったらしい。
なお、前年の『社会研究雑誌』1937年第Ⅵ年2号に掲載されたレオ・レーヴェンタールの「クヌート・ハムスン 権威主義的イデオロギーの前史のために」という論文にアドルノが注を付けており、それは「書評」の前哨戦のような内容になっている。次の引用の後半がそれである。
しかし、その繰り返しは、小説の構造そのものにも入り込んでいる。それは再三再四いつも同じなのである。初期においては、知ったかぶり人間や主人公たちがボヘミアンっぽい特徴を持ち、普通の人間がぎょっとするようなことが常に正確に表現され、『飢え』『神秘』『新しい土地』『編集長リンゲ』などの物語の要素から、本質的な変化なしに新しい物語を組み立てることができる。『井戸端の女たち』『放浪者たち』『世界周遊者アウグスト』『ずっと後に』(←【訳注】『しかし人生は続く』のことらしい)『輪が閉じる』といった後期の小説は、満ち足りた農民とさらに欲しがる農民、無宿者とその土地に根ざした者、ニシン漁、激情と正しくない愛、といった同じテーマを繰り返し扱っている。偉大なるブルジョワ文学は、全体として、小説でも戯曲でも、バルザック、いやゲーテから自然主義に至るまで、個人の運命への関心が反映されており、それはブルジョワの環境で展開されるかそこで破滅するかで、文化の質的・量的な財産全体が動員されることによって個人個人の運命の背景と材料を描き出す。それに対し、こちらの文学では、上記のように自分の人生と運命を持った少数の人間たちについて伝えられてはいるのだが、実のところ、語り手ハムスンの世界は極度に貧困なのである。彼が自分の一連の作品の中でいくつか語っているにもかかわらず、最も重要な小説主人公たちについての決定的な相互関係や非常に多くの詳細を引き出すことは、実際には困難である。読者や批評家によって、文化的在庫の乏しさや彼に造形された人間たちの影の薄さが、格別の貞潔、成熟した苦み、生への敬虔な畏れ、そして「叙事詩的な偉大さ」の象徴として理解されるとしたら、そのような作家への賛辞は、疲労した諦観、社会的敗北主義を表しているのである。1)
(レーヴェンタール「クヌート・ハムスン 権威主義的イデオロギーの前史のために」第Ⅳ節の末尾)
1)同じ傾向は、その性質上、効果においてハムスンと同属であるジャン・シベリウスの交響曲の、技術的な厳密さにおいても認め得る。それについては、曖昧で、しかも色彩に関する手段において未熟な「パーン(牧神)的」自然のムードだけでなく、作曲の方法自体も考えるべきである。その交響曲は、音楽的な展開を知らない。それ自体は平凡な動機素材の、手当たり次第で予期せぬ反復が、層状に重なっていくのである。そのとき生じる見せかけの独創性は、ただ単に、抽象的な時の経過によるもの以外の脈絡が保証されることなく動機が寄り合わされる、という無意味さに根ざしていると見なし得る。技術的な不器用さの産物である謎めいた感じは、ありもしない深淵を装う。構造上不可解な反復は、自然の永遠のリズムを主張し、それは交響曲の時間意識の欠如によっても表現される。不明瞭な音で移行する旋律的単一体の無効性は、ハムスン派個々人が全自然に引き渡す人間軽視に適合する。さらに、シベリウスはハムスン同様、全自然が、原始的な抗議的主観性によって注視されるのではなく、伝統的なブルジョワ芸術の凍結された在庫品から準備されるという点で、印象主義的傾向とは異なる。
ヘクトーア・ロットヴァイラー(【訳注】アドルノのペンネーム)
(以上『社会研究雑誌』1937年第Ⅵ年2号より)
「書評」が書かれた1938年からアメリカに移住していたアドルノは(「書評」はニューヨークで書かれた)、1941年の暮れ、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙日曜版で音楽批評を担当していた7歳年長の作曲家ヴァージル・トムソンに、この文章の英訳を部分的にでも取り上げてほしいという手紙を書いた。トムソンもシベリウスの音楽が好きではないことが知られていたからであろう(トムソンについては、この下のハロルド・E・ジョンソン『ジャン・シベリウス』第18章も参照)。しかし、トムソンは7か月も経ってから、以下の手紙を書いてアドルノの依頼を断った。
1942年7月29日
親愛なるアドルノ様

今季未返信の手紙を入れた机を整理したところ、あなたのシベリウスの記事について自分が何もしていなかったことに気づきました。記事は返送させていただきますが、その理由として、一つには、私たちの日曜日の音楽スペースがかなり削減されたため、それについてあまり多くのことをする余地がどうしてもなさそうなこと、また一つには、私がそれをあまり好きになれないことが挙げられます。記事の中には良い考えや良い言い回しもありますが、あまりにも憤慨しすぎています。この論調では、シベリウスに対してよりも、あなた自身に対する敵意の方がより多く醸成されかねません。
敬具
(『ヴァージル・トムソン書簡選集』1988より)
このとき、もしトムソンがアドルノの依頼を受け入れてアメリカの新聞にこの文章が載っていたならば、戦時中から波紋を呼んだかもしれない。しかし、実際のところは、英・米・独でもフィンランドでも、アドルノの「書評」は1960年代になるまで顧みられなかったようである。第二次大戦を翌年に控えた1938年という年で、ドイツ語の哲学雑誌の巻末に近い方に掲載された書評では、研究者の目に留まりにくかったということであろうか(しかも、書評は40以上も掲載されているため、一つ一つは埋もれがちになっている)。『即興曲』が出る3年前の1965年に、ロバート・レイトンが自著『シベリウス』の中で、ごく簡単に、出典を明示することさえせずに触れているが、これがこの記事が他書に登場する最も古い例の一つであろう。
ほとんど触れられなかったことだが、今世紀初頭にシベリウスの国際的キャリアの基礎が築かれていたドイツでの無視が影を落としていた。彼にとって、ドイツは音楽界の中心だった。しかし、彼の主義主張は、イギリスとアメリカではクーセヴィツキー(ちなみに、遅い帰依者である)、ビーチャムのような偉大な指揮者だけでなく、ニューマン、グレイ、ランバート、オリン・ダウンズなどの有力者の擁護も享受したというのに、ドイツでは擁護者を欠いていたのである。フルトヴェングラーやクレンペラーが時々彼の作品を指揮したけれど、ドイツの音楽風土は決して外交的ではなく、戦後でさえ、彼の音楽はアドルノのような人物の悪意を呼び起こした。本人は後者を賛辞として解釈していたかもしれないが、ドイツにおける無視は敏感な問題だったに違いない。
【訳注】a late convertを「遅い帰依者」としたが、これは、クーセヴィツキーがシベリウスに傾倒したのが1920年代と、カヤヌスあたりに比べると比較的遅かったことを言っているらしい。とはいえ、ビーチャムやカラヤンは1930年代だからさらに遅いのだが。それと、「本人は後者を賛辞として解釈していたかもしれない」とあるが、シベリウスがこのアドルノの文章に何かコメントをしたという記録はないようで、読んだことがあったのかどうかさえ定かではない。
……………………
第二次世界大戦後のドイツにおいて、シベリウスは、ハンス・ロスバウトやヘルベルト・フォン・カラヤンなどの指揮者たちからは目立った擁護を得ていたものの、永続的なレパートリーの中に揺るぎない地位を勝ち取るのには手間取った。このシベリウスに対する抵抗感は、一つには、彼がヴァーグナーの交響的同等物のようなものとして紹介された戦時中の過剰な露出が原因であったかもしれない。その抵抗感が、戦時中オクスフォードに避難していたテオドール・ヴィーゼングルント・アドルノのような人物によって拍車をかけられたのは確かである。アドルノは、イギリスでマーラーがシベリウスの影に隠れていたことに憤慨していた(トーマス・マンはアメリカで、これほど激しくはなかったが、同じような反応をした)。カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーに就任したとき、最初のコンサートを、ベートーヴェンの7番とともに、当時は考えられなかった(シベリウスの)第4交響曲で構成することを条件の一つとしたが、これなどはシベリウスの低い地位を物語っている。しかし、戦後のドイツは長いことヨーロッパの伝統の中心であったため、いずれもヴィルヘルム二世時代のドイツでは頻繁に演奏されていたシベリウス、エルガー、ディーリアスのような異端者たち、またルーセル、ニールセン、ヴォーン=ウィリアムズのような作曲家たちが再び取り上げられるようになるまでには、時間がかかった。
【訳注】カラヤン&ベルリン・フィルのプログラムに第4が初めて現れたのは1965年で、彼が終身指揮者に就任してかなり経ってからである。1955年の就任後初めてのベルリン・フィルとのコンサートのプログラムは、《ドン・ファン》《レオノーレ第3番》《チャイコフスキー第5》であった。ちなみに、カラヤンはシベリウスの交響曲中第3だけは振らなかったので、ベルリン・フィルが第3を演奏したのは、2010年にイギリス人首席指揮者であるラトルが取り上げたときが初めてだったという。ドイツでのシベリウスの受容は、現在でも英・米並みとはいかないようだ。
(ロバート・レイトン『シベリウス』1965より)
1968年の『即興曲』再録時にやっと「シベリウス注解」というタイトルが付けられた本論は、当書籍の刊行後、英・米やフィンランドの音楽学者たちからかなり強い反発を食らったらしい。中にはアドルノ並に強い調子で「注解」を非難するものもあったようだが、近年はアドルノに対する怒りも憎悪もすでに落ち着いており、「注解」の内容をすべて否定するのではなく、どこが正しくてどこが間違っているのか、どこが成功していてどこが失敗しているのかなどを冷静に分析する論文も出ているという。──シベリウスにもアドルノにもファンが多い日本ではどうだったかというと、翻訳が出なかったこともあって、シベリウスの伝記などで簡単に触れられることはあっても、今日まで大きな物議を醸すことはなかったようである(英語の翻訳も2011年まで出なかったらしいが)。
なお、アドルノが『音楽社会学序説』(1962)の「Ⅹ民族」の章でシベリウスに触れた部分──「彼は全ヨーロッパの作曲技法がかちえたものを受け入れず、彼の交響楽法においては無意味で平凡なものが非論理的でまったくわけのわからぬものと結びつけられているのではないか。美的に形の整っていないものが自然の声だと見誤られている」(平凡社ライブラリー版より、この章は渡辺健・訳)──は、ある程度この「注解」の要約として使えそうである。
[*]ンディングと地理的に、ディーリアスと音声的に思い違いしていないとしたら……シンディングはノルウェーの作曲家(1856-1941)。ディーリアス(Delius)とシベリウス(Sibelius)の綴りは「elius」が共通で、「lius」の部分は(英語なら)同じ発音になる。
[*]と土……「種族とそれを培った土地の結合を強調するナチの人種主義的政策の指導理念」(独和大辞典)。ナチスの台頭や、フィンランドのソビエト、ドイツとの関係など、1938年の時代背景を考慮すべき表現であろう。シベリウスがナチス・ドイツからは好意的に受け入れられていたことはよく知られている(1935年にはゲーテ科学芸術勲章を授与されている)。しかし、シベリウス自身は、ハムスンのようにことさらナチスを支持するような行動は取らなかった。対ソビエトという祖国の立場上、ドイツを怒らせるような真似もしなかったが、ナチスに対しての共感を抱くこともなかったように見える。よって、シベリウスの音楽に、「パーン(笛を吹く森林・原野・牧羊の神)」が現れることはあっても、「血と土」が現れることはないのではなかろうか。ただ、アドルノは「je nach Bedarf(要求に応じて)」と書いているので、「血と土」の方は、大衆や為政者がそうあってほしいと願えば現れる、ということを意図したのかもしれない。この書きぶりから判断するに、アドルノは、シベリウス自身がナチスに受け入れられるがままになっていることよりも、その音楽が大衆扇動に使われやすい性質のものであることを警戒しているようにも思われる。アドルノは、シベリウスの音楽を批判していると同時に、「シベリウスの音楽を賛美する大衆」をも批判しているのである。
[*]Car nous voulons la Nuance encor(我々はもっとニュアンスを求めるから)……ヴァレリーの詩《詩法》より。「何よりもまず音楽を」で始まるあれである。
[*]ンポテンツ……Impotenzという語は、普通に「不能」と訳してもよいのだが、このアドルノの文章ではPromiskuität(乱交)、Askese(禁欲)といった語と一緒に出てくるため、明らかに「男性の性的不能」の意(もちろん「創造力の欠如」の暗喩)で用いられている。よって、カタカナ書きの方がその意味がはっきりするだろうと考え、ここでもこの下のレボヴィッツの文章でもそのまま「インポテンツ」としておいた。このような、いくらか下世話な表現が混じっていることも、トムソンが新聞掲載を断った理由の一つになったかもしれない。――プフィッツナーの著書に『Die neue Ästhetik der musikalischen Impotenz; Ein Verwesungssymptom?(音楽的不能の新美学:腐敗の徴候?)』(1920)があるが、この題名にも「インポテンツ」が入っている。この中のシューマン《トロイメライ》に触れた部分について、ベルクが、感情的・印象批評的すぎ、美しさの理由を分析・説明していないという点でがっかりするような文章で、力量ある作曲家が書いたとは思えない、と噛みついた書物であるが、そのベルクの論文の題にも「Die musikalische Impotenz der „neuen Ästhetik“ Hans Pfitzners(ハンス・プフィッツナーの『新美学』の音楽的不能)」と、こちらはプフィッツナーへの皮肉を込めて「インポテンツ」が使われている。
[*]レタ……1930年代という時代から見て、グレタ・ガルボ(1905-1990)のことか彼女については、《悲しいワルツ》が好きだったとか、第6のコンサート会場で見かけたとかいうエピソードが残っている。
[*]統的な後期ロマン派の音楽……原文traditionell-nachromantischen Musik。Wikipediaドイチュの"Nachromantik"の項によると、ナーハロマンティク(訳すと「ロマン派以後」か?)は19世紀末から1930年頃の音楽を指し、後期ロマン派のほか、新古典主義、印象主義、表現主義なども含まれるとのこと。ドイツ語の「後期ロマン派」は"Spätromantik"が普通のようだが、ここではtraditionellが付いているので、「後期ロマン派」と同義であろうと判断した。
[*]ャリバン的な破壊……「キャリバン」は、シェイクスピア『テンペスト』に出てくる怪物(のような人間?)のことだろう。主人公プロスペローにだまされて奴隷のように使われ、そのため彼を憎み殺そうとするが、失敗する。シベリウスの作品に《テンペストへの劇音楽》があることから出てきた表現なのかどうかは分からない。
[*]ベリウス 世界最悪の作曲家……筆者のルネ・レボヴィッツ(1913-1972)は、フランスの作曲家・指揮者・音楽理論家。シェーンベルクらの新ヴィーン楽派とその技法の紹介者として世界的に有名。我が国でも著書『現代音楽への道』『シェーンベルクとその楽派』『シェーンベルク』などが昭和期に翻訳されており、広く読まれた。
本エッセイは、1955年12月にシベリウス90歳の誕生日を記念して(?)刊行されたもの。短いが、これで全文である。本文の前に、「この時宜にかなった短評は、フィンランドの作曲家90歳の誕生日に刊行され、白いベラム紙で40部、古風なオランダ紙で11部印刷され、出版社によって1から51までの番号が振られた。印刷は、1955年12月8日、リエージュの国立廃兵印刷局にて行われた。ブランボリオン第37」という記載がある。つまり、本書は例のディナモ出版社ブランボリオン叢書の一冊(第37号)であり、同シリーズの他書同様わずか51部しか刷られなかったということで、そのため現在では現物の閲覧がやや困難となっている。──Brimborionsは「がらくた、瑣末事」の意。訳者はこういう叢書があったことを『エリック・サティ文集』(1996、白水社)で初めて知ったのだが、この少数部印刷の叢書は、30年ほどの間に200冊くらい発行されたらしい(同じ号数の別書が複数あるようで、全部で何冊あるのか、訳者には正確なところは分からない)。書籍と言うより四六判ほどの大きさのパンフレットのようなものばかりで、第1号はラヴェルの『モーリス・ラヴェルの自伝的素描』(1943)であった。レボヴィッツのものは、ほかに『アーノルト・シェーンベルク、現代音楽のシシュポス』(第10号、1950)、『ショパンの秘密』(第11号、1950)がある。
レボヴィッツは、有名になったこの冊子のほか、同じ1955年に雑誌『レクスプレス』にもシベリウスを批判する記事を提供したらしい。そちらについては掲載号が不明で本文が参照できず訳者は未確認なのだが、1959年というかなり早い時期にその両方に触れた英語の伝記があるので、それを翻訳引用しておきたい。シベリウスの伝記の中では良くも悪くも有名なハロルド・E・ジョンソンの『ジャン・シベリウス』がそれで、この本の18章「シベリウスの評価」では、レボヴィッツを含む著名人たちのシベリウス批判を集めており、この章を読むと、アドルノとレボヴィッツばかり槍玉に挙げるのは少々不公平なのではないかという気もしてくる。ただし、この本にはアドルノは出てこない。アドルノの「書評」は、1959年ではまだ埋もれたままだったのだろうが、あるいはジョンソンはそれを読んだことがあり、18章のドイツ人のシベリウス評に反映させた可能性もなくはない。以下、少々長くなるが、18章を全文引用しておく。
第18章 シベリウスの評価
「伝記、研究、分析ノートには事欠かないが、それらは皆、ヴァーグナーに関する先駆的な諸書と同じくらい無批判である。シベリウスの場合においては、学術的な強い反発がぜひとも必要である」 ロバート・ローレンツ
シベリウスの交響曲作家としての国際的な評価は、ほぼ例外なく英語圏の人々──特にアメリカとイギリス──の人気に基づいている。この現象を説明するため、さまざまな説が唱えられてきた。例えばセシル・グレイは、イタリア、フランス、ドイツでは自国の芸術が常に優遇措置を享受しており、その結果としてシベリウスは精神的な関税障壁によって締め出されていると指摘する。この見解は確かにある程度は正しいのであろう。
イタリアは、わずかな言葉で画面から消すことができそうだ。何世紀にもわたってほとんど自分たちのオペラ牧草地だけで食ってきたため、イタリア人がシベリウスに対して軽い好奇心以上の関心を示すことはほとんど期待できない。まことに当然のことながら、彼らにとっては交響曲は異質なものであり、魅力のないものでさえあった。
伝統的にlointain(遠方)への情熱を持つフランス人は、フィンランドのようなとても遠い地域に由来する音楽には興味を示すと思われたが、実際はそうではなかった。精神的な関税障壁という概念は、ブラームスとシベリウスの交響曲に対するフランス人の嫌悪感を説明するのには役立つかもしれないが、彼らのヴァーグナーへの憧れを考えると、それは完全に消えてしまう。シベリウスはかつて、もし知られるようになる「適切な機会」が与えられていたなら、自分の交響曲はフランスで大きな前進を遂げただろうと言った。1900年には早くもフランス人はその機会を得たが、彼らはそれを拒否した。ルネ・レボヴィッツは『シベリウス、世界最悪の作曲家』という愉快な題名を持った記事の中で、第5交響曲を検証し、その作曲家の「独創性」は彼の「無知、無能力、インポテンツ」に起因すると結論づけた。もう一つの「シベリウス、永遠の老人」という記事で、レボヴィッツは、彼の作品全体が20世紀音楽における「非常に重い重荷」であると断定した。クレランドンはフィガロ紙に「職人であればけっこうだ」と書いた。「天才かってまさか」。ナディア・ブーランジェは、かつて意見を求められたとき、こう答えた。「ああ、シベリウスかわいそうなかわいそうなシベリウス悲惨なケースね!」。それが何を意味しているにせよ、実に実にフランス的であることは誰も否定しないだろう。
【訳注】レボヴィッツのもう一つの記事のタイトルは、この本では"Sibelius, the Eternal Old Man"と英訳されているが、原題は"Sibelius, l'éternel vieillard"であるらしい。「クレランドン」は、ベルナール・ガヴォティのペンネーム。
キャリアの初期、シベリウスはドイツに極めて大きな期待を寄せていた。当初、ドイツ人は、自分たちがフィンランド的な響きの音詩だと思っていたものに心からの興味を示し、リヒャルト・シュトラウスのような強敵が少なくとも一度は彼のヴァイオリン協奏曲を指揮した。シベリウスがブライトコプフ・ウント・ヘルテル社の積極的な支持を受けていた事実を考え合わせると、彼のドイツ制覇は確実なものだったと思われるに違いない。「実際は、ほぼすべての作曲家がほかの表現形式の方を向いていた時代に交響曲の作曲を貫徹したせいで、たいへんな苦労を味わいました」と、シベリウスは70歳のときに回想している。「私の頑固さは多くの批評家や指揮者の側では悩みの種で、考え方が変わり始めたのは本当につい最近のことなのです」
これらの発言は、ドイツでの苦い敗北を念頭に置いてなされたものである。しかしながら、交響曲が冷遇されたのは、ドイツ人がすでに大量に持っていたものとよく似ていたからではなく、彼らが考える交響曲のあり方とはかなり異質であったからであると理解するべきだろう。彼らにとって、シベリウスの交響曲は、ずぶの素人が自分の理解力をはるかに超えた形式で書こうとしている、不器用な手探り作品のように聞こえたのである。今日でさえ、ドイツの音楽家や音楽学者の多くは、シベリウスの音楽をまったく取るに足りないものと見なしている。アメリカやイギリスでの彼の人気は、彼らには理解できないたくさんのアングロ・サクソン的気質のうちの一つによるものだと考えられている。
アメリカ人とイギリス人は、彼ら自身の深く根付いた音楽的伝統がないため、世界の音楽市場で自由に取引をし、自国のコンサートホールを海外からのあらゆる輸入品に開放していた。ありとあらゆるものが平然と受け入れられた──ヴェルディとヴァーグナー、ブラームスとチャイコフスキー、ドビュッシーとリヒャルト・シュトラウス。音楽的嗜好についての彼らの包容性は、20世紀の新しい○○主義すべてにとって理想的なモルモットであった。
「ここ外国では、あなた方はあらゆる色のカクテルを作っていますが」シベリウスは何度かのドイツ訪問のうちのあるとき、ブライトコプフ・ウント・ヘルテルにこう言ったと言われている、「今私は純粋な冷水を持ってきました」。シベリウスはこれよりも幸福な暗喩を生み出したことはなかった。○○主義が氾濫した後、このフィンランドの水が、アングロ・サクソン人たちの間の、受容的で、謝意的でさえあった耳へとたどり着いたのである。多くの人々が、それはほかとは違っていて、気取らず、何よりも誠実なものだと感じた。やや荒削りな──「原始的」とでも呼べそうな──響きが聞こえることもよくあったが、その性質がかえって誠実な作曲家としてのシベリウスの評価を高めるのに役立った。新しい音楽の多くは何度も聴いているうちに新鮮味が薄れていく傾向があるのに対し、シベリウスの交響曲はさらに良くなっていくように思われた。フィンランド政府とシベリウス協会が後援したレコードのおかげで、彼の音楽の多くは家庭で聴くことができた。
間もなく、フィンランドとその文化についての情報が渇望されるようになった。ワイナミョイネン、レンミンカイネン、ルオンノタル、トゥオネラ、ポホヨラ、タピオラといったエキゾチックな言葉は、カービーの『カレワラ』翻訳を読みたいという好奇心を刺激した。フィンランドとその国民についてはほとんど知られていなかった。フィンランド人は正直で勤勉な民族と見なされ、特にアメリカでは、彼らは戦争賠償を返済する唯一のヨーロッパ人であるという評判を得ていた。やがて、シベリウスの音楽はフィンランドの地形図と結びつき、荒涼とした、灰色の、厳粛な、冷たい、原始的な、などと表現されるようになった。ヴァイノ・アールトネンによる作曲家の胸像の写真が、その厳しさと光景の印象を強めたようだった。
ダウンズ、グレイ、ランバート、アーネスト・ニューマンといった権威者たちは、このフィンランドの音楽が、原始的で荒削りどころか、実際には複雑な構造を持ち、avant-garde(前衛的)でさえあるということを読者に気づかせた。彼らは、シベリウスはベートーヴェン以来の、音楽的に重要な新しい道を切り開く最初の作曲家であると主張した。
1939年、イギリスの文筆家ロバート・ローレンツは、誤解を解き、シベリウスの良いものと悪いものを分離するための「学術的な強い反発」の時が来たと感じた。少なくともアメリカにおいては、「強い反発」はすぐに始まった。それがどれほど学術的であったかについては議論の余地がある問題だが。
海外で指導を受けた現代アメリカの作曲家たちが、自分たちの音楽や先生の音楽に対するこの軽視を不快に思ったのは、まことにもっともなことである。アメリカに住んでいるヨーロッパ人の作曲家や学者たちは、当然シベリウスに対しての先入観を持ち込んでいた──彼らはシベリウスを好きではなかった。最初のうちは、反感や警戒心を持つ人々も、時が来るのをじっくり待つのもよかろうと思っていた。シベリウスなど一過性の流行にすぎないと信じていたからである。実に皮肉なことに、それは彼らと同じ見通しを共有していたフレデリック・ディーリアスがたどった運命だった。予想に反して、「流行」は並々ならぬ持続力を見せ、シベリウスに対する大衆のキャパシティは無限であるように思われた。やがて、反シベリウス・グループの自信は懐疑心に屈し、次にそれは怒りに変わっていった。
ナディア・ブーランジェの生徒たち──よくboulangerie(パン屋)の商品と呼ばれていた──が、その「悲惨なケース」に興味を示すとは思えなかった。自分の作品の中で意味のある現代的な音を出そうと懸命に奮闘していたアーロン・コープランドは、『私たちの新しい音楽』という本の中で私見を述べている。彼は、シベリウスに関するこうした「ナンセンス」は全部、イギリスやアメリカの一握りの評論家の誇張された解説のせいだと感じていた。コープランドの見解では、20世紀の耳には何の意味もない19世紀末の作曲家の実像を、彼らが覆い隠したのである。「シベリウスを偉大な現代作曲家に仕立て上げようとする試みなど、失敗するに決まっている」と彼は予測した。
【訳注】ナディアの姓ブーランジェ(boulanger)は「パン屋」の意。ただし、工場ではなく店内でパンを作って売る店を特にブーランジェリ(boulangerie)と呼び、ここでは正確に後者が使われている。
多芸多才な作曲家で評論家のヴァージル・トムソンは、boulangerie(パン屋)をsumma cum laude(最優秀)で卒業したことを自分で明かしたが、そのときシベリウスを「言語に絶する田舎者」と呼んだ。彼は、その作曲家の技法と思考法はチャイコフスキーに由来するものであり──これは第7交響曲に関することなのだ!──、その「鈍い茶色のオーケストラの色彩」は管弦楽の分野での彼の無知を証明していると感じていた。「世の中にシベリウスを心から愛する人が大勢いることは理解しているが」とトムソンは譲歩してから、「プロの教育を受けた音楽家の中では、そんな人に会ったことはない」と言った。トムソンは人生の大半をフランスで過ごしたということを付け加えておくべきだろう。
かつて作曲家で教師で興行主であったロシア生まれのニコラス・ナボコフは、サンクトペテルブルク、ベルリン、シュトゥットガルトで音楽教育を受けた。結果として、彼がシベリウスをたくさんいる「西洋音楽文化の半処女」の一人と見なし、彼の交響曲を「時代遅れの怪物」と特徴づけたことも、驚くことではない。ハンガリー生まれの評論家で音楽学者のポール・ヘンリー・ラングは、アメリカでシベリウスが神格化されていることに驚いたと書いている。ラングは、作曲家に有利な長所が、あまりにも長い旋律が延々と続くその音楽の「肥満と……膨張と冗長」によって相殺されている、と述べている。同じく評論家のポール・ローゼンフェルドの方は、シベリウスの旋律は短すぎると不満を言い、「詰め込みすぎて太ったフィンランドの吟遊詩人」と、なかなか辛辣な評価を下している。
B・H・ハギンは、レコードに興味がある人のためのガイドブックに、第4交響曲を、「金管のもったいぶった鼻音、不吉な太鼓連打、木管の荒々しい叫び、シベリウスが交響曲の楽章にわずかな主題の断片を詰め込んで水増しした、様式に癖のあるいんちきなモルタル」と書いた。レコード購入を考えている人は、ハギンの本の巻末近くに、シベリウスの主要作品が優秀さの基準に従ってリストアップされているのを見つけることができる。《トゥオネラの白鳥》は「良い」に含まれ、第2交響曲は「やや劣る」に、第4交響曲は「劣る」に、そして《エン・サガ》は「最悪」の楽曲に含まれている。
ほかの書き手たちは、シベリウス問題を、彼を完全に無視することで解決することにした。学校の生徒みたいなやり方で、彼を単純にのけ者にしたわけだ。1932年に出版されたラザール・サミンスキーの『現代の音楽』に、シベリウスの名前はない。7年後、大量の水がダムから溢れてしまっており、サミンスキーは改訂版でこの問題を処理せざるを得なくなった。「シベリウス、二次元の心」と題した新しい章で、彼は、民族的・地方的な天才として、初期の音詩の作曲者に敬意を表している。しかし、交響曲は、気まぐれで哀れなほど貧弱な、味気ない即興の例であると判じている。「統語的独創性」を欠いているがゆえに、シベリウスは、結局は歌のような交響曲になってしまうものを書いた、と。
評論家の第3グループは、直接攻撃とのけ者方式の両方を巧妙に避けた。彼らは、連座制告発型という興味深いヴァリエーションを用いたのだ。例えば彼らは、グリーグ、ボロディン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、スメタナなどを、それぞれの時代の立派な人物として描いた。しかし、シベリウスの音楽はこれらの作曲家の一部あるいは全部から派生したものだと彼らが言うとき、「ロマン派」や「国民楽派」のような公認のレッテルが、1900年以降に大半の音楽を作曲した人間に適用された場合は軽蔑的なものになる、ということを暗に示したのである。
かくして、多くの音楽史書や鑑賞手引き書において、このフィンランド人作曲家の名前が、「後期ロマン派」「ポスト・ロマン派」「新ロマン主義」「ロマン派の黄昏」などと題された章の中で二、三行の説明に格下げされるか、あるいは国民楽派に適用するのと同じ接頭辞を付けられているのが見いだされるか、ということになった。これらの書き手の中には、教科書的な分類体系に分かりやすく当てはまらない作曲家に適切な居場所を見つけようとし、その自らの試みに誠実に取り組む者もいたはずであるが、多くの者は、ロマン派と国民楽派を罪と見なす教条主義的な態度に同意した。
ローレンツの強い反発の呼びかけは、イギリスではわずかに遅れたが、それが現れたときには、アメリカのほとんどの攻撃よりもいくらか学術的なものになった。少なくとも、1947年に出版された『シベリウス論集』の中でラルフ・ウッドが書いた、種々雑多な管弦楽曲と劇場音楽の章については、それが当てはまる。個々の楽曲の美点についてのウッドの意見には同意できない人も多いだろうが、《叙情的なワルツ》やその多くの兄弟姉妹曲から、真の価値を持つ作品を分離しようとする彼の称賛すべき試みに異議を申し立てる人は、もしいたとしてもほんのわずかだろう。
シベリウス90歳の誕生日のとき、ロンドンでは強い反発の反響がわずかにあった。「このような音楽の普及を図る場合は、自制的でなければならない」とエリック・ブロムは注意する、「あえて言うが、シベリウスのいくつかの作品──確かに数は少ないが──の大規模な受容について、我々は危険なほど寛大になっている」。マーティン・クーパーはこう書いた。「(第3)交響曲とヴァイオリン協奏曲の演奏中、イギリスは、シベリウスの音楽を過大評価し、実際には大多数の作曲家のものよりもむらがあり、より自分自身の常套手段の奴隷になっている作曲家の管弦楽作品全体を、貪欲に飲み込んでしまったのではないかと疑わずにはいられなかった……シベリウス熱狂という草が生い茂った庭で思い切った除草作業を始めるのは、時期尚早ではない」。ネヴィル・カーダスは、古いジョークで自分の主張を説明した。ある女性がクリスマスにシベリウスの交響曲のレコードが欲しいかと尋ねられたとき、彼女は答えた。「でも私、もう持ってるわ」
【訳注】出典はブロンド・ジョークそちらは、誕生日に本をもらったときに、ブロンド女性がこのセリフを言う。
除草作業は1950年から続けられている。しかしながら、フィンランドの学者の中には、外国では逆のことが起こるだけで、今後は第3、第6交響曲や《内なる声》のようにめったに演奏されない作品が傑作としてもてはやされるようになると確信している人もいる。ある人は、その学者たちは願っているうちに本当にそうなると思い込んでしまったのではないかと疑っている。《クレルヴォ》のような初期の未発表原稿のいずれかが、作曲家の評価を高めることはなさそうだ。生前、シベリウスは、極めて優れた作品と、多くの大したことのない作品を出版したのである。
フィンランドの文化生活におけるシベリウスのユニークな地位は、あの小さな国での彼の継続的な人気を最大限に保証するものである。何世代もの学童たちが彼の歌曲や合唱曲で育ってきたが、それらは海外では比較的知られていないものである。シベリウスが6曲以上含まれないフィンランド歌曲集を見つけるのは、事実上不可能だ。コンサートでは、彼の交響曲が「クラシック」の核となり、ほかの作品はその周りに集められている。
時の流れは、いくつかの人気作品を儀礼用の曲に変えた。《春の歌》(Vårsång)は、5月1日頃に聴かれるコンサートでは常に考慮に入れられる。《フィンランディア》は、フィンランドの愛国心を高揚させるものとして、特別な機会のために慎重に予約されている。奇妙なことに、かつて有名だった《悲しいワルツ》は、競争途中で落伍してしまった。フィンランドに滞在していた2年の間、私がそれを聴いたのは、エストニアから発信されていたラジオ・コンサートで流れたときの一度だけだった。
生前のシベリウスは、30年間の音楽的沈黙の間、現代フィンランド音楽に多大な──否定的に言う人もいるかもしれないが──影響を与えた。若い作曲家たちは、輝かしい手本として、その「巨匠」について恭しく語った。が、内心では彼を目の上のたんこぶだと考える者も多かった。シベリウスの、国内外での自分の評判を気にする気持ちが、若い人たちの作品に積極的に興味を持つことを不可能にした。確かに多くの場合、彼は名誉な賞の委員に自分の偉大な名前が含まれることを許可したが、年金や旅費をそれに値する人物に保証してやるために自分の影響力を行使するという、ほかの人が自分にしてくれたことを自分ですることはなかった。
ある若い作曲家が、思い切って公の場でそのような意見を述べたところ、年長者たちから厳しく叱責され、巨匠が機嫌を損ねたことを知らされた。実際、その若手連中は幸せではなかった。彼らは、拙劣な模倣作曲家と呼ばれるリスクなしでは、シベリウスの作風として知られるようになったものを書くことができなかった。独自の表現方法を見つけようとする努力の一環として、彼らは海外に目を向けた。結果として、シベリウス以後のフィンランド音楽の多くは、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、そして──やや意外なところでは──ショスタコーヴィチやカバレフスキーの強い影響を示しているのである。
作曲家の死後間もなく、フィンランドで新しいシベリウス協会が設立された。広い地域線に沿って構成されており、メンバーの中には、著名な学者や音楽家たち、それにシベリウスの近親者一名がいる。宣言された多くの目標の中には、その作曲家の音楽の国内外での振興、シベリウス奨学金の奨励、彼の生家の復元、新しい記念碑の建設などがある。協会員の一人が教えてくれたのだが、さらに重要な長期目的の中には、ドイツ人とフランス人の間でのシベリウス音楽に対する理解と評価、彼らが過去に示した以上の理解と評価を引き出す試みが入ってくるだろう、とのことであった。その実に手ごわそうな課題がどのように取り組まれ、どんな結果をもたらすのか、興味深く見守ることにしたい。
このような、ごく最近になってからのプロパガンダは、十分理解はできるものの、それらは前ではなく後ろを向いたものだと感じられる人もいるかもしれない。協会の存在そのものが、シベリウスの芸術が普遍的なものになって久しいという主張と矛盾しているように見えかねない。畢竟、そのようなプロパガンダのための最も強力な媒介は、多くが半世紀以上も前から入手可能な、出版された楽譜なのである。
(ハロルド・E・ジョンソン『ジャン・シベリウス』1959より)
上のジョンソンの著書とも関係するが、本エッセイについて、エルンスト・タンツベルガーという、当時は珍しかったらしいドイツ人のシベリウス研究家がレボヴィッツにインタヴューを行い、その概要が彼の著書『ジャン・シベリウス:モノグラフ、作品カタログ付き』(1962)に収録されている。ごく短いものなので、参考までに訳出しておく。ただ、原文は次の文章すべてが同じパラグラフに連続して書かれていて読みづらいため、発言主の変わり目などに適宜改行を入れた。
【補注】原文はドイツ語だが、インタヴュー部分のみの英訳がトミ・マケラの『ジャン・シベリウス』(2011)に入っていて、2021年春現在、そのページはネット上でも見ることができた。→検索キーワード:Tomi Mäkelä Jean Sibelius Leibowitz Tanzberger
1961年の初め、レボヴィッツと本書の著者との間で、上記の記事(【訳注】レボヴィッツのエッセイを指す)で検討されている内容についての対話が行われた。このインタヴューは、世論の形成がどのように行われるか、シベリウスへの反対が述べられた「専門家の」意見の背後に実際は何が潜んでいるのかを明らかにしたという点で、かなり有益なものであった。この後に抜粋で掲載したそのインタヴューで、問題の記事についてレボヴィッツはだいたい次のような見解を述べている。
レボヴィッツ:シベリウスは、自分の内部では対処できない交響形式に挑みました。彼の主題は、良い〈展開部〉を確保するのに十分な価値も強度もありません。その主題の素材は使い古されたもので、新しいものではないのです。
著者:ベートーヴェンやブルックナーは常に新しい素材だけを持ち込んだわけではありませんし、現代の新音楽の作曲家も同じです。ベートーヴェンがハイドンとモーツァルトなしではほとんど考えられないのと同様、12音技法の作曲家もシェーンベルクとヴェーベルンなしでは考えられません。
レボヴィッツ:そうですね。でも私だって古い音楽と新しい音楽を区別しませんよ。私にとっては音楽しかありません。
著者:シベリウスの交響曲は、トスカニーニ、ビーチャム、ウッド、カラヤン、フルトヴェングラーなどの著名な指揮者たちによって演奏されたことはご存じですよね。ああした巨匠たちが価値のない音楽を取り上げたとは考えにくいのですが。
レボヴィッツ:私は、シベリウスの音楽に価値がないとは言っていません。
著者:いや、でも、それはあなたの記事から明らかですよ。
レボヴィッツ:シベリウスが世界最悪の作曲家であるという言葉は、ほとんど冗談として言ったにすぎません。あの当時、フランスでは、誰が最高の作曲家なのかというアンケートがありました。そのとき、シベリウスの名が挙げられたのです。その度を超した称賛に対し、私は──とにかく冗談として──彼が最悪だと言ったのです。
著者:あなたは──ジョンソンが伝えたように──、記事の中でシベリウスが無能で無知であると非難していましたね。
レボヴィッツ:そんなことはありません!
著者:レボヴィッツさん、あなたはシベリウスの作品を詳しくご存じなのですか?
レボヴィッツ:実を言いますと、第5交響曲とヴァイオリン協奏曲だけです。両作品とも自分で指揮したことがあります。ほかの交響曲では──聴いただけですが──《第4》と《第1》を知っています。そのほかのものは知りません。
著者:ヴァイオリン協奏曲はいかがでしたか?
レボヴィッツ:とても魅力的な箇所がありますし、交響曲にも美しい箇所があります。それでも、ブルックナー、マーラーとシベリウスとで二者択一するとしたら、私はブルックナーとマーラーの方に〈したい〉ですね。ついでに言えば、マーラーは演奏される機会が少なすぎると思います。──
(タンツベルガー『ジャン・シベリウス:モノグラフ、作品カタログ付き』1962より)
タンツベルガー自身はこのインタヴューに満足していたらしく、レボヴィッツ自身の言葉を聞いた後では、ジョンソンの本もそれについての出版社の売り文句も信用できなくなった、と書いている。「世論の形成がどのように行われるか、シベリウスへの反対が述べられた専門家の意見の背後に実際は何が潜んでいるのかを明らかにした」と書いていることから、もしかすると彼は、ジョンソンの著書がシベリウスへの批判意見を世界に広めてしまったが、あれほどひどいことを書いていたレボヴィッツでも、実際はここで本人が言っているとおり、そんなに悪意はなかったのだ、と言いたいのかもしれない(とはいえ、ここでレボヴィッツが言っていることは、手のひら返しとは言わないまでも、訳者にはかなり苦し紛れな言い逃れのように見えてしまうのだが……)。タンツベルガーの本は、ここ以外でもジョンソンの本にたびたび触れており、そのほぼすべての箇所で批判的なことを書いている。上記18章の引用からも分かるように、ジョンソンの本にはシベリウスの負の面がかなりたくさん書かれていて、どうやらタンツベルガーはそれがお気に召さなかったようである。「このインタヴューの結果は、我々を非常に内省的な気分にさせ、同時にジョンソンが挙げたすべての否定的批判に対して不信感を抱かせずにはおかない」と書いているのも、ジョンソンを否定するために無理矢理レボヴィッツの味方をした、といったところなのかもしれない。なお、タンツベルガーの本にはアドルノは出てこない。アドルノの「書評」は本国ドイツでも忘れられていたようである。
──題名について、参考までに。上記アドルノの「書評」(後の「シベリウス注解」)が載った『社会研究雑誌』の同じ号には、後に彼の『不協和音』に収められることになる論文「音楽におけるフェティッシュな(物神的な)性質と聴き方の退化」が巻頭掲載されている。その中に、「アーヴィング・バーリンやウォルター・ドナルドソン──〈世界最高の作曲家〉──のような作曲企業から、ガーシュイン、シベリウス、チャイコフスキーを経て、未完成まで、安らぎに満ちて広がっているあの音楽生活の世界は、物神のそれである」という記述がある。シベリウス論の内容の似通い方から見て、レボヴィッツがこの号を読んだことはほぼ確実なので、上記インタヴューでの題意の説明にもかかわらず、彼はこの巻頭論文の「世界最高の作曲家」という表現に影響されて、自分のシベリウス論に「世界最悪の作曲家」というタイトルを付けた可能性もあるように思う。
【補注】アドルノの原文では、「世界最高の作曲家」「未完成」の二箇所は、"the world's best composer" "the Unfinished"と、いずれも英語表記になっている。後者はシューベルトのロ短調交響曲を指していると思われる。
★シベリウスのことは、たぶん日本の多くのクラシック・ファンと同じくらいには普通に好きで、特に6番と7番の交響曲は自分にとってなくてはならない作品です(4番も好き、鉄琴でも鐘でもw。現在は「鉄琴が正解」ということになったようですね。あと、アニメ『かんなぎ』最終回での7番の使い方は素晴らしいと思います)。今回取り上げたアドルノの批評は、読みたいと思ってはいたのですが、日本語訳は見つからないし、原文で読もうにも不慣れなドイツ語だし、おまけに哲学者の難解な文章だし、といった理由から読めずにいたものです。しかし、原文がわりと簡単に入手できることが分かったため、それならまあ読んでみるかということで、2021年春、むちゃくちゃ重かった腰を上げた次第です(ドイツ語はつい敬遠したくなる)。内容はご覧のとおりで、なるほどこれでは「悪名高い」というレッテルを貼られても仕方がないのかなあと思いました。ただ、本国ドイツでは「まあアドルノの言うとおりだよね」という感じで受け入れられたらしく、悪名高くなったのは英・米・フィンランドあたりに限られるようです。日本はシベリウス受容に関しては間違いなく英米芬側でしょうから、「こりゃひどい!」と感じる人の方が多そうな気がします。私も、酷評であることは知っていたのに、訳しながら「ここまで言うか……」と驚いたくらいです。──なお、アドルノの作曲作品は、YouTubeでいくつか聴くことができました。若書きの作品でも素人くささは感じられず、なかなか魅力もあると思いますが、20世紀音楽としてシベリウス作品よりも価値があるのかどうかは私には判断できません。
★レボヴィッツ(レイボヴィッツ)については、私も彼の『シェーンベルクとその楽派』にはずいぶんお世話になった口ですので、私にとっては大恩ある音楽家の一人です。彼のシベリウス批判は、お読みになっていただければ分かるように、アドルノの文章の二番煎じ的フランス語短縮版とでもいったものです(ほとんど盗作に近い)。この二つはセットで語られることが多いようですから、並べて訳出しておきました。実際に読んでみて、レボヴィッツに対する印象が多少「悪い方に」変わったことは否めません(題名が、本人が言うようにたとえ冗談であったとしても)。シベリウスを批判するにしても、こんなに露骨にアドルノの真似をするのではなく、もっと自分の言葉で語ってほしかったところです。──レボヴィッツの作曲作品も、アドルノ同様YouTubeで容易に聴くことができますが、CDを買おうという気にさせてくれるような作品は今のところありません。
★今回取り上げたシベリウス批判は、2021年春現在、両方とも「英訳」をネット上で簡単に見ることができます(レボヴィッツの方は原文も併載──これが見つからなければ原文から訳せなかった)。英語が得意な方は、拙訳とともにそちらもご覧になるとよいかもしれません。英訳をお読みになる場合は、お手数ですが「Adorno "Gloss on Sibelius"」「René Leibowitz "Sibelius, the Worst Composer in the World"」などのキーワードで検索なさってみてください。
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