12音音楽の道 日本語訳

ルイージ・ダッラピッコラ
Luigi Dallapiccola
鷺澤伸介:訳
(初稿 2024.9.13)
(最終改訂 2024.9.13)

20世紀イタリアの作曲家ダッラピッコラ(1904-1975)による、自らが12音音楽の道に乗り出すまでを書いた自伝的エッセイ「12音音楽の道」(原題:Sulla strada della dodecafonia、原文:イタリア語)を翻訳しました。
(表記揺れ:ルイージ・ダラピッコラ、ルイージ・ダㇽラピッコラ、ルイジ・ダッラピッコラ、ルイジ・ダラピッコラ、ルイジ・ダㇽラピッコラ)

底本

12音音楽の道 [*]

ルイージ・ダッラピッコラ
前置きが必要である。私のこれは、12音音楽システムの研究ではなく、それを意図したものでもない。
このような前置きが、私の文章にかなり目立つ自伝的な性質を、十分に正当化してくれることを願っている。私の12音経験は、ルネ・レボヴィッツの極めて有益な本[*]が出版されるはるか以前に始まったのであるから、自伝的以外の性質にはなりようがないのである。繰り返すが、極めて有益な本なのだ。たとえそれら自体が否定的な面──能力も資格もまったくない連中を、厳密に成文化されているとはとうてい言えない問題の専門家として通用させてしまったという面──を負っているにしても、である。アーノルト・シェーンベルクが「12音技法」のレッスンを行ったことは一度もなかったこと、それほど前というわけでもない1936年にエルンスト・クレネクが書いていたこと(「ムジカ・ヴィーヴァ」、ブリュッセル-チューリヒ、第2号参照)──「12音技法に関わる問題を話したり扱ったりする人は誰であっても、今のところは、その人の個人的な経験に基づいてしか話すことも扱うこともできない」──は、記憶しておくのがよいだろう。
周知のように、一つの出会いが、人生全体、あるいは少なくとも方向性を決定してしまうことがある。私の方向性が決定されたのは、1924年4月1日夜、ピッツィ宮殿ビアンカ・ホールの演壇で、アーノルト・シェーンベルクが彼の《ピエロ・リュネール》を指揮するのを見たときである。その夜、音楽学校の学生たちは、ラテン的陽気さで演奏が始まる前からお決まりの笛を披露していたし、一部の聴衆は、足を踏み鳴らしたり騒いだり笑い声を上げたりしていた。しかし、その夜、ジャコモ・プッチーニは笑わなかった。彼はスコアのテキストを追いながら細心の注意を払って演奏に聴き入り、そしてコンサートの終わりにはシェーンベルクに紹介されることを求めた[*]のである。
25年後の1949年9月16日、アーノルト・シェーンベルクが私に宛てた手紙[*]の中で、その12音技法の創始者は、我が国の偉大で人気ある作曲家を次のような言葉でもう一度回想していた。「Auf Puccini's Besuch der Pierrot-Auffiihrung war ich immer stolz. Es war sicherlich ein Zeichen menschlicher Grósse, dass er zu mir gekommen ist - und eine grosse Freundlichkeit.[ピエロの公演にプッチーニが来てくれたことを、私はいつも誇りに思っていました。彼が私の所まで来てくれたことは、確かに人間の偉大さのしるしであり──大いなる好意であったのです]」
同じ手紙の中で、彼は私が握手をしに行かなかったことで私を責めていたが、それはまた別の話である。どんな肩書き、どんな名声または作品の経歴をもってすれば、あの巨匠に思い切ってお目通りを願えたというのだろう6年後のベルリンでも、私はそれをしなかったのである。
あの時期、ファシズムは、周知の結果を招いた「生命の人為的助成促進」とでも定義できそうなあのプロパガンダによる思い上がり教育を、まだ始めていなかったのだ。
当時、自分たちの音楽を演奏するためには、人は長い間、列に並んで待った。作品も名声もない若者たちが劇場委員会や演奏会協会の地位に就くことはなかった。音楽学校の学科の中で最も素朴なものを教えるためには、試験を受ける必要があった(それらが馬鹿馬鹿しいものであったことは事実だが、それでも消耗させられるものだった)。新聞の音楽批評を書くことで評論し、それを寄稿するような20歳の人間などいなかったのである。
確かに、ほかの多くの者と同様、私もまた重要な公演に対する自分の印象を書き留めてはいた。ただし自分の日記に、である。このようにしてこそ、音楽は純真に、また愛情をもって聴かれることができたのだ。翌日に自分の評価を人々の話のネタにしなければならないという心配もなく、「喜んで」読んでもらえる「記事」を組み上げるための核心を何としても見つけ出さねばならぬという強迫観念もなく、昨日言ったことを明日には否定しなければならないというおそれもなく、さらには自分たちとは違う考えを持っている「雇用主」を自分たちの評価で怒らせることへの懸念もなく。文化と芸術のリットリアリ[*]は、まだ設立されていなかった。芸術の道はひどく困難なものであると、誰もが確信していたのである。
アーノルト・シェーンベルクを見た夜、私は決断する必要があると感じた。言うまでもなく、自分が「無調」に進むかどうかは問題にすらならなかった。さしあたり、私は仕事を覚えることを決めた。[*]
普通、人が私のことを語るとき、12音技法を採用した音楽家として語る。私の立場の特異性を強調しようとした人もいなくはなかった。その特異性とはすなわち、ヴィーン楽派の巨匠たち(シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン)や彼らの弟子の誰かに接触したことがないにもかかわらず、私が12音技法を採用したということである。おそらく、私の世代でそのような立場にあったのは、私一人ではないのだろう。しかし、私には、これがかなり奇妙であろうことを認める用意はある。
「Etrange destin que celui de la musique atonale: voici qu'elle vient seulement de devenir actuelle, elle, qui ne le fut pas, à l'époque de sa naissance...[無調音楽の奇妙な運命。それはやっと現代的意義を持つに至ったばかりで、それが生まれたときにはそうではなかった……]」。ジゼル・ブルレは、彼女の研究書『Chances de la musique atonale[無調音楽の可能性]』(アレクサンドリア、1947)をこのように開始する。彼女は続ける。「L'atonalisme est maintenant bien actuel: trop tôt venu, il lui fallait attendre que surgisse chez les musiciens la conscience des problèmes auxquels il prétendait apporter une réponse.[無調主義は、今ではかなり現代的意義を持っている。あまりにも早い到達であったが、それは、それが解答を与えることを要求した諸問題への意識が音楽家たちに生じるのを待たなければならなかったのだ]」
現在では、ジゼル・ブルレに同意しようがするまいが(シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンが、自分たちが提起した問題を完全に認識していたことは明らかだ!)、それでもこの「trop tôt venu(あまりにも早い到達)」というフレーズが真実を含んでいることは認めなければならない。
少なくとも、シェーンベルクの大胆さが恐ろしく思えたに違いないほかの作曲家たちに関しては、また大衆に関しても、最も教養があり、最も注意深い大衆にとってさえ、それは真実を含んでいたのである。
なぜなら、「無調」という現象が初めて存在の兆候を見せた頃、ドビュッシーの芸術はなおも大輪の花を咲かせていたし、ストラヴィンスキーは、《祭典》でのセンセーショナル極まりない大失敗にもかかわらず、少なくとも「目で」音楽を聴き、その音楽を正しいと認めるバレエ通いの大衆を、たちまち魅了したからである。
ラヴェルのような人物が、ヴィーン楽派を前にしてあれほど好意的な態度を取ったこと[*]は、別の理由を求められなければならない。ラヴェルは、生来「過剰な幻想」を警戒しており──周知のように、それは容易に即興へと陥らせかねない──、解決しなければならない課題を愛していたのである。(《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》のようなケースが最も典型的な例である)。私は、(ラヴェルと懇意にしていた)D・E・アンゲルブレシュトが、かつての会話中私がたまたま口に出した考えにどれほどの熱意で同意してくれたかを、決して忘れることはないだろう。それはすなわち、たとえパウル・ヴィットゲンシュタインが依頼しなかったとしても、ラヴェルは《左手のためのピアノ協奏曲》を書くことになっただろう、というものだった。それはまさに、即興の可能性と危険性を可能な限り制限するためである。
数年前、私の友人である調性作曲家があるインタヴューの中で、作曲はただ自分の本能に従っているだけだ、と表明していた。彼は、原則としてどんなシステムにも反対であり、「システム」という語は、彼にはもはや「トリック」と同義であると思われたのだという。
今、たとえ私が、その作曲家がたびたび証明してくれた友情のために彼に感謝しているとしても、また私がしばしば彼の音楽の讃美者になるとしても、自分が同じレベルで彼の論理的感覚への讃美者になることはないと言わなければならない。
彼の見解では、「システム」という語は「トリック」であると大いにけっこうだ。だが、彼が調性システムに従って書いているというまさにその事実によって、彼もまた300年にわたって経験により体系化されたシステムのお世話になっているのである。それは体系化されたトリックを意味し、人は学校でそれを学んでいるために、また──私たちが生まれた日から──私たちの一部になっているために、無意識に使っているのである。(神が私たちに道徳律をお与えになったことには疑いの余地がないにしても、その無限の善意においてさえ、神が調性システムを我々に与えるようお取り計らいになったというのは、同じように確実であるとは言えない、ということが、すでにかなり冗談めいた形で言われてきた)。さらに、音楽が旋法システムから調性システムへと移行したとき、不確実性への危機感が生じたかもしれないが、それは、多くの聴衆や批評家が言うところの、我々の時代のかなり独特な特徴の一つである危機感と、おそらくあまり違いはないだろう。かなり混乱している時代であることは確かだが、そういう時代にあっては、ただ浅薄な精神のみが信条の欠落を咎め得るのである。
「早すぎる到達」であった無調主義は、確かに壊滅していた。少なくとも忘却のさとへと追放されたという意味においてはそうであった(戦後、直ちによみがえったそれを見た多くの批評家の驚愕にふさわしく)。先の戦争勃発に先立つ10年間、ヨーロッパで語り合われるものときたら、「新古典主義」しかなかったのだ。1930年頃のイタリアや外国の雑誌は、「ドイツが擁するただ一人の偉大な音楽家、パウル・ヒンデミット」と、平然と明言していたのである。そして、無調あるいは12音音楽の演奏は、政治的状況のためいっそう困難にされていた。アドルフ・ヒトラー(自尊心あるすべての独裁者と同様、彼もまた芸術の偉大なる鑑定家であった)の出現は、ドイツにおけるその種の音楽の公開演奏の終焉を示していた。イタリアでは、そのような正真正銘の禁止はなかった。せいぜい「唯美主義者たち」(もちろん批評家・作曲家だ)の中に、いわゆる「国際主義」の前衛作曲家、それは当時流布していた言葉では「反ファシスト」、より正確には「共産主義者」を意味していたのだが、いずれにせよそういう者たちを公然と非難する者がいたくらいである。そのような態度のどれほどが美学上の深刻な問題と関係があるのかは、私が判断することではない。さしあたり、批評にも批評の「システム」がある、と言っておけば十分だろう。我が国では、いわゆる無調の音楽は、ファシズム以前にはごくわずかしか演奏されず、ファシズム時代の間にもほとんど演奏されなかった。よって、注目されなかったという点では、何ら違いはなかったわけである。
無調や12音音楽に誰も言及しなかったちょうどその時期に、私はそれらの問題に大いに興味を惹かれ、熱中し始めていた。(私は、1937年のヴェネツィアの祭典[*]の批評において、私の立場の「非現代性」に注目してくれたグイド・G・ガッティに感謝している)。すでに、私の作曲活動の第一期(1934年から1939年まで、すなわち《四つの習作ディヴェルティメント》から《夜間飛行》までの期間)に、かなりおずおずとしたやり方であったことは否定できないが、12音音列がちらちらと顔を出していた。ある作品では純粋に色彩的な目的で使われ、別の作品ではもっぱら旋律的な目的で使われた。
その時期、私は指導者や援助者、少なくとも相談相手または狂信的ではない反対論者を必要としていた。それは私には見つけられなかった。
ストラヴィンスキーの「初演」は、どれも音楽的年中行事だった。ヒンデミットは時代の流行だった。バルトークは遅れて「発見された」ため、10年間、すなわち死を待たなければならなかった(いつだって時期には正確なのだ、発見者たちは!)。私が12音技法について助言を得るため誰かに問い合わせたときは、いつも決まって「それは終わった」という答えが返ってくるのが聞こえた。そんな現代的とは言えないものに没頭して時間を無駄にしないようにと、親切に助言してくれた人もいた。我が国では当時、「現代的」とはバロック音楽なのであり、ベルリーニの建築と同等のものを音楽で再現しようと考えられていたのである。(ああそれはあまりに多くの場合、ピアチェンティーニの建築に相当するものしか得られなかったのだ……)[*]
そういうわけで、気づくと私はほとんど孤独になっていた。オーストリアがヒトラー軍に侵略されるとともに、ヴィーン楽派の巨匠たちのスコアはますます入手困難になっていった。1925年頃に現れていたわずかな論文は利用できず、私がたまたま探し当てたものはあまりにも概略的であったため、何の助けにもならなかった。
時々、私は12音作品のいずれかの分析を試みた。それらのかなり多くは失敗に終わった。が、成功したものもあるにはあった。私は、ある作品に対して成功した分析システムが、ほかの作品では成功しないことに気づいた。得られた結果の少なさに落胆するどころか、私はフェルッチョ・ブゾーニの言葉に思いを馳せていた。「やっつけ仕事は避けること。作品ごとに原則を編み出そう」
戦争の勃発とともに、情報が出される可能性は直前の数年間よりもいっそう限定的となり、ついさっき示唆した孤独が次第に必然となっていった。
私は次のことを完全に理解している。すなわち、私が12音技法にたどり着いた「方法」は、今日ではそうとう無邪気に見えるだろう、ということである。今日、ヴィーン楽派の教科書は、何と誰でも入手できてしまうのだ。今日ではレボヴィッツの著書が、綿密に準備された分析と、「セリーの」展開に応じて勤勉に番号付けされた音を用いて、私が興味を惹かれたシステムを微細な部分に至るまで教えてくれている。しかし、1940年には、これらはまったく存在しなかったのである。12音音楽への道[*]に乗り出したい者は、もっぱら自分の力だけを当てにしなければならなかったのだ。(あれから何年も経ったが、私は、あのような多大な努力を「独力で」果たしたことを、幸福だと言うことができる。たとえたくさんのミスを犯したとしても、だ)
私は、しばらく前からすでに、12音音楽は、例えば大量の「不協和音」を含むせいで理解されにくいというわけでないことに気づいていた。そのことは、1935年にはもう私には明らかになっていた。プラハの第13回国際現代音楽協会フェスティヴァルでアントン・ヴェーベルンの《協奏曲 作品24》を聴くという幸運に恵まれたとき、そこに作曲家の極めて高度な戒律が見えた気がしたため、私は拍手喝采したのであった。「音楽」として理解したからではない。そのような音楽の理解しにくさが、別の場所、とりわけ新しい論法の中にあることは、当時、すでに私には明らかだった。
シェーンベルクの《変奏曲 作品31》を初めて聴いたのもそこだったのだが、その同じフェスティヴァルにおいて、私は音楽学校では教わったことのないものに気づくことができた。すなわち、古典的な音楽(私は「ソナタ形式」のことを言っているのだが、これは古典的な音楽の中ではおそらく最も高度な発展を達成したものである)と「セリー」音楽との最も顕著な相違の一つは、次のように表現することができるということである。古典的な音楽では、主題は極めて頻繁に旋律的な変形を施されるが、そのリズム・パターンは不変のまま残される。「セリー」音楽では、リズムとは関係なく、変形の役割を任されるのは音の「連結」なのである。私の、ジェイムズ・ジョイスとマルセル・プルーストという二人の偉大な作家への最初の出会いは、その時期に遡る。
そして、12音音楽についての論文がなく、入手することができずにいた多くの教科書もないという状況で、シェーンベルクとヴェーベルンの作品を聴いた後にぼんやりと予感したことの確証を私が得られたのは、この作家たちのおかげなのである。
ジェイムズ・ジョイスの作品、とりわけ『ユリシーズ』において、私はすぐにある種の類似音に印象づけられた。
すでに一度、数年前に(「イル・モンド(世界)」、フィレンツェ、第15号、1945年11月3日参照)、私はヴェーベルン作品のある種の「音楽的な暗示」について話し、『ユリシーズ』のある一節とそれらを比較する機会があった。ジョイスが、スティーヴン・ディーダルスの若い友人リンチの名前を利用している方法は、単なる言葉遊びとは何の関係もない。
売春宿の場面[*](『オデュッセイア』のキルケのエピソードに対応する)で、私は次のような一節を発見した。
« Stephen: Hm. (He strikes a match and proceeds to light the cigarette with enigmatic melancholy).
Lynch: (Watching him). You would have a better chance of lighting it if you held the match nearer.
Stephen: (Brings the match nearer his eye). Lynx eye ».
[スティーヴン:ふむ。(彼はマッチを擦って、謎めいた憂鬱な顔でタバコに火をつけようとする。)
リンチ:(彼を見て)マッチをもっと近づければ、火をつけやすくなるだろうよ。
スティーヴン:(マッチを目に近づけて)オオヤマネコリンクスの目だ。]
あるいは、同じシーンの別の例[*]
« Stephen: … Married.
Zoe: It was a commercia! traveller married her and took her away with him.
Florry: (Nods). Mr. Lambe from London.
Stephen: Lamb of London, who takest away the sins of our world.
Lynch: (Embracing Kitty on the sofa, chants deeply). Dona nobis pacem. »
[スティーヴン:……結婚した。
ゾエ:巡回販売員が彼女と結婚して連れて行ったわ。
フローリイ:(うなずく)。ロンドンのラムさんね。
スティーヴン:ロンドンの子羊ラム、我が世界の罪を取り除けり。
リンチ:(ソファでキティを抱き締め、低く唱える)。ドナ・ノービス・パーケム〈我らに平安を与えたまえ〉]。
ジョイスの言葉への愛は、音への愛(我々の時代の音楽を再び席捲している)に非常に近いものであり、原典への徹底した忠実さを遵守した有名なフランス語訳[*]の当該箇所でも、うまく維持されている。
« Stephen: … Mariée.
Zoé: C'est un voyageur de commerce qui l'a épousée et qui l'a emmenée avec lui.
Flora: (Appuie). C'est M. Lagneau, de Londres.
Stephen: Agneau de Londres, qui enlevez les pechés du pauvre monde.
Lynch: (Qui enlace Kitty sur le sopha, psalmodie). Dona nobis pacem. »)
[スティーヴン:……結婚した。
ゾエ:彼女と結婚して連れて行ったのは外交販売員よ。
フローラ:(支援する)。ラニョーさんね、ロンドンの。
スティーヴン:ロンドンの子羊アニョー、汝、哀れなる世界の罪を取り除く。
リンチ:(ソファでキティを抱き締め、唱える)。ドナ・ノービス・パーケム〈我らに平安を与えたまえ〉]。
しかし、ほかの箇所では忠実に類似音を表すことができず、翻訳家たち(周知のように原作者の助力を得た)は言葉への愛をそのまま維持するために全面的な詩的再考を余儀なくされている。かくて、我々は次のようなケースに直面する。音楽ホールのシーンから取られたもので、『オデュッセイア』のセイレンのエピソードに対応する。[*]
« He heard Joe Maas sing that one night. Ah, what M' Guckin! Yes. In his way. Choirboy style. Maas was the boy. Massboy ».
[ある晩、彼はジョー・マースがそれを歌うのを聞いた。ああ、何というマガッキンそう、彼のやり方だった。少年聖歌隊員のスタイルさ。マースはその隊員だったんだ。ミサマスの侍者の少年だよ][*]
ここは、フランス語訳では次のように再考されている。
« Il avait entendu Joe Coeur chanter ça un soir. Ah, oui, M' Guckin! Oui. Dans sa manière. Style d'enfant de choeur. Mais Coeur c'était l'as. L'as de coeur ».
[ある晩、彼はジョー・クールがそれを歌うのを聴いた。ああ、まったくもってマガッキンだったそう。彼のやり方なんだ。聖歌隊クールの少年のスタイルだ。いやクールはね、あの人はエースだったんだよ。ハートクールのエースさ][*]
こうして私は、音楽においても同様に、同一の音の連続がどの程度まで異なる意味を取ることができるのかを理解したと思った。
それに、ジョイスが時々同じ語を使い、それを最後の文字から書き始めて最初で終えていること気づき、衝撃を受けた。(音楽における「逆行」である)。昔の言葉の中には、反意語の語源が同じであるものがあったり(Dio[神]──il Demonio[悪魔]!、la luce[光]──l'oscurità[闇]!)、「逆行」で読んでも意味を持つ言葉もあったりすることを、その頃の私はまだ知らなかったのだ(後にウラディーミル・フォーゲルがそれを教えてくれた)。[*]
ジョイスの散文に対して行った観察は、私を勇気づけ、結局のところ、芸術の現在の問題は「ただ一つ」であることを私に示してくれた。ジョイスの中に注目した類似音が、12音音列の使用に際し、その「連結」に極めて慎重で丹念な作業が捧げられたに違いないことを悟らせてくれたとすれば、マルセル・プルーストとの接触の方は、12音システムの論法と新しい構築方法について、決定的な視点を得る可能性を示してくれたのである。
しかしながら、先に進む前に挿入括弧が必要である。
12音システムでは12の音が「等しく重要である」と、どこかの記事で読んだことがある(有能な人が書いたのか無能な人が書いたのか、私にはもう分からない)。
そのような文が定式化されることができた時点では、多くの問題が、解決からはほど遠い状態だったことは明らかだ。
たとえ──「量的」視点から──音が数の上では同じだとしても、ある重大な要素を決して見逃してはならないことは、私には明白であるように思われた。「瞬間」、すなわちその音が聞こえる小節内のポイントである。そこには介入する「時間」があるのであって、それが音楽の「第四の次元」のようなものを表す。言うまでもないことだが、小節の弱拍に来る音が強拍に来る同じ音と同じ重要性を持つことはあり得ないだろう(たとえ同じアクセントと同じ長さであっても、だ)。その音が、緩やかな動きではなく速い動きに属している場合にも、同じことが言えそうである。
古典的な音楽の中にもそうした違いが見られることを、私は熟知している。しかし、12音音楽でのそのような関係性は、それよりもどれほど稀薄でどれほど微妙なものであることか!
かくて、私は次のような結論に達した。12音システムにおいて、もし主音がもはや存在せず、もし──その結果──「属音-主音」の引力が排除すべきものであり、もしソナタ形式が同じ事実のために完全に崩壊したとしても、それでもやはり引力という力は存在したのだ、と。それはしばしば隠されるが、それでも絶えず存在している。すなわち「極性」[*](このような定義を、私よりも前にほかの人たちが使ったことがあるのか、それとも彼らが別の定義を見つけていたのかは分からない)であるが、これは特定の音たちの間に極めて洗練された関係があることを意味している。その関係は、今日では必ずしも容易に割り出せるわけではないが(かの「属音-主音」よりもはるかに不明瞭だからだ)、それでもやはり存在はするのである。
この「極性」の興味深い点は、主として、それがある作品から別の作品に移ると変化する(または変化し得る)ことにある。ある「セリー」は第1音と第12音の間に「極性」を示すかもしれない。別のものは第2音と第9音の間に……という具合である。ここで、私がついさっき示唆した「時間」という要素が、大いなる重要性を示すことになる。それにより、音列において、ほかの音程よりもより深く記憶に刻み込むことができるほど特徴的な音程が確定され得るのである。そうすれば、自分たちの話を理解してもらえる可能性がより高くなるだろう。(私は、理解しようとしない人や理解できない人のことを言っているのではないし、「いかに音楽を『書くべきではないか』を聴きに行く必要はない」という理由を付けて、ベルリオーズの《幻想交響曲》を聴きに行くことを拒否したルイジ・ケルビーニの無数の後継者のことを言っているのでもない)
では、ここでプルーストについての私の考究を手短に報告する。
『失われた時を求めて』のさまざまな登場人物の中で、私の選択はたまたまアルベルチーヌになったが、もしシャルリュス男爵やその他の登場人物を選んだとしても同じように例証できたことは確かである。
さしあたり、我々の登場人物の名前が初めて明かされた「花咲く乙女たちのかげに」の1冊目[*]から引用された一節を検討してみよう。
«— C'est l'onde d'une petite qui venait à mon cours, dans une classe bien au-dessous de moi, la fameuse Albertine. Elle sera sûrement très fast mais en attendant elle a une drôle de touche.
— Elle est étonnante ma fille, elle connaít tout le monde.
— Je ne la connais pas. Je la voyais seulement passer, on criait Albertine par-ci, Albertine par-là. »
[「それ、私の授業に来ていた女の子のおじさんだわ。私よりもかなり下のクラスだったあのアルベルチーヌの。あの子、間違いなくすごく『ファースト[*]』になるでしょうけれど、今は変な格好してる」
「驚くね、私の娘には。誰のことでもみんな知っている」
「知り合いってわけじゃないの。通りかかるのを見ただけ。あの子、あっちでもアルベルチーヌ、こっちでもアルベルチーヌって呼びかけられてたわ」]
確かに、(プルーストの読者なら誰でもよく知っていることだが)スワンの家、あるいはお好みならオデットの家でもかまわないが、そこでは、時々何らかの英語の表現で談話を飾ることがとても「粋」だと考えられていた。しかし、引用されたケースでは、形容詞「ファースト」の使用はまったく異なる方法で解釈されなければならない。ここでのジルベルトは、英語の形容詞を使うことが洗練されていると考えているから使っているわけではない。このような重要な登場人物が初めて名前を呼ばれるとき(この名前は105ページ後にやっと再登場する[*])、英語の形容詞を使用することで、「英語であるというまさにそのことのために」我々に特別な注意を払う努力を強いているのは、プルーストなのである。アルベルチーヌの名前がすぐに我々の注意を引くのは、英語の形容詞のおかげである。それゆえその名前は、形容詞「ファースト」、すでに悲劇的な運命のすべてを含んでいるように見える形容詞と、固く結びつけられているのである。
「Albertine par-ci, Albertine par-là...[あっちでもアルベルチーヌ、こっちでもアルベルチーヌ……]」。この名前の繰り返しは、繊細な技術的工夫であり、「記憶」への招待である。
アルベルチーヌが二度目に話題にされるとき、その名を呼ぶのはボンタン夫人である。
« Et ma nièce Albertine est comme moi. Vous ne savez pas ce qu'elle est effrontée cette petite ».
[それに姪のアルベルチーヌも私に似てまして。ご存じないでしょうが、厚かましいんですのよ、あの子]
ここで我々は、自分の記憶に結びつけられた形容詞「ファースト」によって、その登場人物、依然として幕の背後に隠されたままではあるが、その存在は疑いなく我々の中で生きている登場人物の、別の特徴について知らされる。
「花咲く乙女たちのかげに」の2冊目では、アルベルチーヌの名前が一度だけ見いだされる。しかし、今回は主人公にとって重要な考察と結びつけられているため、たとえドラマが絶えず幕の背後で展開し、目に見えないとしても、我々は特別な考慮をしなければならない。
これが当該の一節である。
« Il y eut une scène à la maison parce que je n'accompagnais pas mon père à un diner officiel où il devait y avoir les Bontemps, avec leur nièce Albertine, petite jeune fille, presque encore enfant. Les différentes périodes de notre vie se chevauchent ainsi l'une l'autre. On refuse dédaigneusement, à cause de ce qu'on aime et qui vous sera un jour si égal, de voir ce qui vous est égal aujourd'hui, qu'on aimera demain... ».
[私がある公的な晩餐会に行く父に同伴しなかったため、家ではいざこざがあった。そこにはボンタン夫妻も、まだほとんど子供の小さな少女、姪のアルベルチーヌと一緒に来るはずだった。私たちの人生のさまざまな時期は、このように互いに重なり合っている。人は、愛しているけれどいつの日かかなりどうでもよくなる人のため、今日はどうでもよいけれど明日は愛するようになる人と会うことを、にべもなく拒絶する……[*]
最後に、「花咲く乙女たちのかげに」の3冊目では、我々は、実際に舞台上でアルベルチーヌを目にするよりも前に、彼女に4回遭遇する。最初は「petite bande[小集団]」とともに、バルベックの海岸で。プルーストは、主人公にはまだ知られていないヒロインの肖像を、我々にほとんど伝えてくれる。それから間もなく、主人公は、シモネという名前が発言されるのを聞いて(« c'est une amie de la petite Simonet »[あれはシモネ嬢のお友達ですよ])、その名前が「petite bande[小集団]」の若い娘の一人のそれと一致するのだろうという正確な感覚を抱いた。彼はホテルに問い合わせ、新しくやって来た人々の中に実際に「Simonet et famille[シモネと家族]」という名前を見つける。彼は自転車に乗った少女に出会うが、それが本当にアルベルチーヌであるかどうかの確信は持てない。
そして、我々はここでついに、抒情的な一節、「リズム的・旋律的」定義にたどり着く。« Tout à coup y apparut, le suivant à pas rapides, la jeune cycliste de la petite bande avec sur ses cheveux noir son polo abaissé vers ses grosses joues, ses yeux gais et un peu insistants; et dans ce sentier fortuné miraculeusement rempli de douces promesses, je la vis sous les arbres adresser à Elstir un salut souriant d'amie, arc-en-ciel qui unit pour moi notre monde terraqué à des régions que j'avais jugées jusque-là inaccessibles ». [突然そこに姿を見せ、速い足取りでその道を進んでいるのは、あの小集団の自転車少女であった。黒い髪の上に、ふっくらした頬の辺りまでポロ帽を深々とかぶり、快活でやや食い入るような目をしている。そして、奇跡のように甘やかな兆しに満ちたこの幸福な小道で、木々の下から彼女がエルスチールににこやかで親しげな挨拶を送っているのが見えた。それは私にとって、私たちの水陸から成る世界と、私がそれまで近づき得ないと思い込んでいた領域とを結びつける、虹の架け橋なのであった]
アルベルチーヌの名前に8回目[*]に遭遇する箇所に至って、我々は初めて彼女を知り始めると言ってよい。
今、登場人物を紹介するこの独特な手法と、古典的な小説のそれとの比較を試みてみようか?
クリストーフォロ神父のことを少し考えてみよう。この高尚な例が誰にとっても十分であればよいのだが。マンゾーニが、自分の登場人物が初めて登場するときには[*]すでに、その特徴のすべてを読者に知らせることにいかに心を砕いているかが見て取れる。ところが、それでもまだ十分とは見なされていない。ここで彼は、その登場人物の家族に関する詳細、さらには宗教の形成において根本的に重要であった詳細さえも我々に伝えてくるのである。[*]
音楽では、これは「ソナタ形式」において起こることである。
その形式は、最初の部分(「提示部」と名づけられている)の間に早くも二つの主要主題が提示され、それらが相互に対照的であることを要求する。登場人物は、最初から明確に定義されている必要がある。《エロイカ交響曲》の第1主題を知らない人はいるだろうかあれはナポレオンなのか、それとも別の登場人物なのかいずれにしても主人公である。輪郭の明確さと意匠の精密さをもって定義された登場人物で、それは第1楽章全体を通じて変更されない。あるいは、モーツァルトの《ト短調交響曲》の第1主題を思い浮かべてみよう。あの奇跡的な主題のリズミカルな連結体は、色調と転調における多くのセンセーショナルな冒険にもかかわらず、その先も決して変化することはない。
こういうことを要求するのが「ソナタ形式」なのである。かつては極めて生命力に溢れた形式、今日ではしばらく前から完全に空洞化されている形式だ。奇妙なのは、あれほど「形式主義」に反対する話でもちきりだったまさにその場所から、たくさんの「交響曲」、すなわち存在するすべての音楽形式の中で最も空虚に書かれたたくさんの作曲作品が届けられそうなことだ[*]しかし、この問題について、私はこれ以上考察するつもりはない。本稿は論争的な文章ではないのである。フェルッチョ・ブゾーニが、その水晶のように透徹したやり方で、形式について、私には決定的と思われた言葉で口述したのは、1923年、ヴァイマルのバウハウスでの祭典期間中であった。
« Man kann auch heute Fugen schreiben, mit den überlieferten oder auch mit den modernen und atonalen Mitteln... doch wird einer sokhen Fuge immer ein antiquierter Charakter anhaften... Denn die Fuge ist eine "Form". Als solche ist sie zeitgebunden, "vergänglich". Dagegen ist die Polyphonie keine Form, sondern ein Prinzip und als solches zeitlos und so lange Musik geschaffen wird "unvergänglich”. »
[今日でも、伝統的、あるいは現代的な無調の手法でフーガを書くことはできるでしょう……しかし、そのようなフーガにはますます時代遅れな性格が付きまとうことでしょう……。なぜなら、フーガは「形式」だからです。そのようなものとして、それは時代に制約された「うつろいやすい」ものなのです。それに対し、ポリフォニーは、形式ではなく原理であり、そのようなものとして時代を超越しているのであり、音楽が創造される限り「不滅」であり続けるでしょう……][*]
12音の論理において大きな役割を担う「カノン」が、形式ではなくポリフォニーの「原理」の一部であることを強調する必要があるだろうか?(それに、ブゾーニが上に引用した定義を発表したとき、ことによるとパウル・ベッカーの「現代音楽の危機は『形式』の危機である」という主張を念頭に置いていたということもあったのではなかろうか?)
私は、古典音楽と「セリー」音楽との間の根本的な違い、すなわち論理的な違いに気づいてから、このすべてを考えた。
セリー音楽では、最初からリズム的・旋律的にしっかりと定義された登場人物に直面する代わりに、長い時間待つことがしばしば必要となるだろう。ちょうど、アルベルチーヌのリズム的・旋律的な定義「arc-en-ciel qui unit pour moi notre monde terraqué à des régions que j'avais jugées jusque-là inaccessibles[それは私にとって、私たちの水陸から成る世界と、私がそれまで近づき得ないと思い込んでいた領域とを結びつける、虹の架け橋なのであった]」を長い時間待たねばならなかったのと同じように。
我々は、セリーのリズム的・旋律的定義に到達するよりも前に、それが12の音から成るただ一つの和音、6音から成る二つの和音、4音から成る三つの和音、3音から成る四つの和音などに凝縮されていることに気づくかもしれない。あるいは、六つの二重音……最も基本的な可能性についてのみ話すためのものである。こうした組み合わせのそれぞれにおいて、音楽的談話がたどれる状況に聴衆を置くため、「極性」の感覚が生き生きと存在しなければならないことは言うまでもない。
私としては、ここでもう一度プルーストの名前を出す必要がある。私は、アルベルチーヌの代わりにシャルリュス男爵にこの分析を割り当てることもできると述べた。今ここで注目したいのは、この二人の登場人物はどちらも、その「旋律的・リズム的」定義をバルベックに見いだせるということだ。
従って、バルベックは単なる地理的実体ではない。それははるかに重要な何かなのだ。むしろ小説の構成の目的上、私がセリー音楽の「極性」と定義したものとよく似た何かなのである。
12音音楽は、言語なのか、それとも技法なのかこれはかなり頻繁に耳にする質問だ。(私なりの考えでは、それは「精神状態」でもある)。いずれにせよ、それは私には自然な発展のように思われるし、シェーンベルクの最近の「新しい論理」の定義は、おそらくいつの日か、3世紀以上も前にモンテヴェルディによって採用された「第二作法」の定義と同じくらい満足できるものになるだろう。
長い間、調性システムは、音楽家が表現したいとせき立てられているものに対して不十分であるという兆候を示していた。彼らが夢想する世界を実現できるよう、体系化された規則を探し求めた偉大な巨匠を見いだすためには、ヴァーグナーやドビュッシーにまで遡ればよい。この調性世界崩壊への動きはますます急速になり、ここに来て多調性、無調性、より多様な音階、四分音や六分音が相次いで発生し、ついには、現在のところ「作曲技法」の最も完全な解答である12音技法にまで到達している。それは構築するための基礎を提供するからである。個人的に、このような技法を採用したのは、今のところ、自分が表現しなければならないと感じていることを表現できる唯一のものであるためだ。
セリーの技法は、作曲家が音楽的談話の「統一性」を実現することを援助するための手段にすぎない。もし誰かが、「セリー」がそのような統一性を「保証する」と言うならば、彼は大きな誤りを犯していることになる。芸術においては、どんな技術的方法も何かを保証したことなど一度もなく、また作品の「統一性」は、旋律やリズムや和声と同様、内部的な事柄になるだろうからである。ここで、ヴァーグナーのライトモティーフの技法が音楽的談話の統一性を促進することもまた目的としていたこと、そして《タンホイザー》や《ローエングリン》においてはその技法は散発的にしか現れないにしても、《トリスタン》、すなわち「属音-主音」の関係(その談話の統一性を実現することを割り当てられた関係)が極度に弱まった作品においてはそれが完全な発達を遂げたことを思い起こしても、的外れにはならないだろう。
調性は、依然として存在しているし、おそらくこれからもなお長い間存在し続けることだろう。
私は、ある作品が厳格な12音なのかそうではないのかと尋ねられると、驚いてしまう。当初私は、シェーンベルクが調性作品である《室内交響曲第2番》を発表したかどで、誰かが彼を躊躇なく「裏切り者」と非難したことを、1946年のヴェネツィアの祭典[*]期間中に知って驚いたものだが、それと同じように。(しかし、ダンテは『神曲』を書いていた十数年の間もラテン語で書き続けたのではなかったか?)[*]
我々は再び時代の始まりにいる。12音作品ごとに新しい問題が提起され、その成功事例において新しい解決法が見いだされるところを経験しているのだ。成功事例において、ということを強調しておくが、それは周知のように、芸術において成功は極めて稀なことであるからだ。(3世紀にわたる調性音楽の間でさえ愚かな音楽があちこちで書かれてきたこと、その中には少なくとも一度は存命中の調性作曲家によって書かれたこともあるということことを、仮定していただければありがたい)。
我々はまた、この10年の間に、前に課された特定の規則の厳格さが、経験によりいくらか緩められたところも見ている。それに、数年前までは演奏も理解もできないと誰もが考えていた音楽が、今日ではもはやそれほど問題視されなくなっていることも経験しているのだ。
何にせよ、今世紀に生まれたシステム(どちらかと言うと似非システムだが)の中で、12音のそれほど人を動かす力を持つものはなかった。それと同じくらい多く戦われたシステムはほかになく、またそれと同じくらい辛辣に戦われたシステムもほかにない。ほかのシステムは一度忘却の郷に落ちてしまうと二度と復活することはないのだが、このシステムはまさにあの戦争と孤立の数年間に、あらゆる国で、それぞれ独自に復活したのである。今日では、さまざまな12音作品が、センセーショナルな成功とともに大衆に受け入れられている。最近のヴェネツィアの祭典における《ワルシャワの生き残り》の成功は、ことのほか重要であった。それについて一部のジャーナリストが、かなりグロテスクなやり方でその重要性を最小限に抑え込もうとしたにもかかわらず、である。
(奇妙なことだ。もし大衆が12音作品にブーイングの口笛を浴びせるとしたら、それは正しいことで、口笛を吹く人は常に完全な善意からこの上なく冷静にそれをする。彼が拍手を送るとしたら、例えばその日がたまたま作者の誕生日に当たったことを知っているから拍手する……ということは、彼は感情的な動機に影響されているわけだ!)[*]
そして、たとえ今日、あまりにも出来事に近すぎて12音音楽運動の歴史を書くことができないとしても、数十年のうちには、今日それを否定している人々にさえ、それが完全に正当化されるであろうことは確実である。
歴史的な正当化[*]は、非常に狭い音空間に「半音階の総体」が集中するよう、音楽史の中で何度も試みられてきたことを根拠としてなされるであろう。ハインリヒ・ヤロヴェッツは、モーツァルトの《ト短調交響曲》終楽章に10個の異なる音から成る音列を発見した[*](「ミュージュカル・クオータリー(音楽季刊誌)」1944年10月号参照)。ヘルマン・シェルヘンは、ベートーヴェンの「第九」終楽章に11の異なる音から成るパッセージを発見した[*](『音楽の本質』、ヴィンタートゥーア参照)。私は、ドメニコ・スカルラッティのあるソナタの中に9個の異なる音の列を発見し、──さらに特異なことには──その9個の音の中に6音音階を見いだした[*](「ポリフォニー」第4号、ブリュッセル、および「ラッセーニャ・ムジカーレ(音楽論評)」1950年4月号参照)。美学的な正当化は、芸術的成功、すなわち唯一の価値あるもの──将来、論争や個人的怨恨が尽きるとき、それをした人々に判決を下し得る唯一のもの──に基づいてなされるであろう。[*]
というのは、我々が芸術的成功に直面するとき、それは自動的に音楽──現在も未来も、流行しているものも時代遅れなものも知らないすべての音楽──に入り込んでくるものだからである。芸術的成功は、それ自身の美点によって、歴史に入り込んでくるのである。

【注釈】
◎12音技法を採用したことで知られる、20世紀イタリアの作曲家によって書かれた自伝的エッセイ。筆者がイタリア人ということもあり、シェーンベルクやその弟子などに直接教えを請うことができず、独力で12音技法に接近せざるを得なかった、その苦労の記録としてたいへん興味深い。
[*]12音音楽の道……初出はイタリアの「アウト・アウト aut aut 哲学と文化の雑誌」創刊号1951年1月(aut aut は「あれかこれか」「二者択一」くらいの意味)。同年秋にはデリック・クックによる英訳がイギリスの音楽雑誌「ミュージック・サーヴェイ Music Survey」Ⅳ-1号1951年10月(Music Survey は「音楽調査」くらいの意味)に載り、2年後にはアルゼンチンの雑誌「レトラ・イ・リネア Letra y Linea 現代文化、造形美術、文学、演劇、映画、音楽、批評の雑誌」1・2号1953年10・11月(Letra y Linea は「文字と線」くらいの意味)のためにスペイン語訳も作られた。その後、ダッラピッコラ自身が編んだ著作集『備忘録・回想・瞑想』(1970)に収録されるときに多少改稿され、筆者没後に出された増補版著作集『言葉と音楽』(1980)にもその『備忘録~』版が再掲されている。
本訳の底本は初出の「アウト・アウト」版とし、「ミュージック・サーヴェイ」英訳版、最終形である『言葉と音楽』収録版も参照したが、スペイン語訳は見ることができなかった。著作集収録時に書き換えられた部分のうち、大きな変更については、できるだけここで取り上げることにする。
【補注】「アウト・アウト」創刊号の巻頭記事は、トーマス・マンの「『ファウストゥス博士』についての手紙」で、ドイツ語原文とイタリア語訳が載っている。1951年7月の第4号にはレボヴィッツの「シューマンとブラームスとロマンティックな夢の逆説」という記事が掲載されており、これはフランス語原文のみ。イタリアの知識人は、ドイツ語は厳しいがフランス語なら理解できる、ということであろうか。
[*]ネ・レボヴィッツの極めて有益な本……『12音音楽とは何か?』(ディナモ社、1947)、および『12音音楽入門』(ラルシュ社、1949)の2冊を指す。
[*]シェーンベルクに紹介されることを求めた……書籍版では、プッチーニがシェーンベルクへの紹介を頼んだ相手が「アルフレード・カゼッラ」であったことが明記されている。また、書籍版では、この後に次のパラグラフが書き足されている。
二人の作曲家は、アーティスト部屋の隅で約10分間、会話を交わした。彼らが何を話したのか、誰も知らなかった[2]。しかし、話している彼らを見かけた人は皆、彼らが率直明朗な会話をしているという印象を持った。このときはまだ、相反する性向と理想を持つ二人の重要人物が、彼らの芸術への共通の愛の中に接点を見いだせた時代であった。
[2]この点については、「ラップロード・ムジカーレ L'Approdo musicale」第Ⅱ年第6号1959年4/6月所収、G.マロッティ「マエストロとの出会いと対話」参照。
(……雑誌名は「音楽目標」あるいは「音楽到達」くらいの意味。「マエストロ」はプッチーニを指す)
[*]ーノルト・シェーンベルクが私に宛てた手紙……書籍版によると、シェーンベルクの75歳の誕生日に、ダッラピッコラの方から初めて彼に手紙を書き、フィレンツェのあの夜のことに話を振ったという。この二人の文通は、ダッラピッコラはフランス語で書き、シェーンベルクはドイツ語で書いていた。なお、シェーンベルク・センターで上の日付のダッラピッコラ宛書簡を見てみたが、上記のような文言はなかった(なぜ?)。もしこの書簡の完全版が見たければ、ダッラピッコラの方のアーカイヴに当たる必要がありそうだ。
[*]化と芸術のリットリアリ……これは要するに、ファシズム時代のイタリアで行われていた「青少年の主張コンテスト」のようなものらしい。『ファッシズム教育』(渡邊誠・著、世界創造社、1939年11月刊)に次のような説明があった。「リットリアリ:ファッショが古代ローマ官吏の手にせる束桿[そっかん]であることは人のよく知るところであるが、この束桿を持つて居た先駆官吏をリットレ(littore)と呼ぶ。而してこのリットレの名に因んでイタリア青年の自己表現の競技大会をリットリアリ(littoriali)と称するのである。リットリアリには文化・芸術に関するものとスポーツに関するものとの二種がある。イタリア青年は、この機会に於いて自己の教養と個人的性格とを思ふままに発表して、公衆の前で批判を受けるのである。最初は大学ファッシスト団員の間に於いて行はれたものであるが、千九百三十五年から大学に在籍せずともファッシスト青年党員ならばその参加が許可せられることとなつた。紙幅の関係で文化・芸術に関するリットリアリのみに就いて、そして大学ファッシスト団中最も華々しい活動を行つて居る帝都ローマの大学ファッシスト団に一例をとつて略述しよう。文化・芸術に関するリットリアリは予選会(prelittoriali)と選抜会とから成る。予選会は地方別に行はれて、これに入選したものがローマ或は他の都市に召集せられて選抜会に出場することが出来るのである。リットリアリには芸術及び文化方面の代表者が多数列席して批判するが、特にファッシスト党の政治方面の代表者が加はつて国策的見地より成績の判定を行ふことは興味あることであり、又注意すべきことである。即ち文化及び芸術と雖も、現実の国家的政策と無関係たるべきでなく、却つて之を綜合してこそ始めてその真の価値を見出し得るとするファッシズムの立場はここによく示されて居るのである」。
[*]うまでもなく~決めた。……書籍版「自分にはまだ学ぶべきことがたくさんあることを知り、さしあたり、仕事の知識を深めることにした」。書籍版には「無調」という語が出て来ない。
[*]ヴェルのような人物が、ヴィーン楽派を前にしてあれほど好意的な態度を取ったこと……「ラヴェルとの対話」(「ラ・ルヴュ・ミュジカル」第XII年113号、1931年3月、「オーストリアの音楽」特集号p.193-4)参照。
[*]ェネツィアの祭典……原文「Festival di Venezia」。おそらく「Biennale di Venezia(ヴェネツィア・ビエンナーレ)」のことだろう(ビエンナーレは「隔年の祭典」の意)。これは言わば総合芸術祭で、映画祭が最も有名だが、そのほかの芸術(美術・演劇・音楽など)の祭典も催される。
[*]ルリーニ ~ ピアチェンティーニ……ジョヴァンニ・ロレンツォ・ベルニーニは17世紀バロックの建築家・彫刻家・画家・演劇装置家。マルチェッロ・ピアチェンティーニは20世紀の建築家で、ファシズム時代はムッソリーニのもとでローマの都市整備に活躍した。
[*]12音音楽への道……ここの原文は「il cammino verso la dodecafonia(12音音楽への道)」で、タイトルの「Sulla strada della dodecafonia(12音音楽の途上で)」とは語句が異なる。実は、タイトルの語句は本文中には出てこない。
[*]春宿の場面……登場人物の名前「リンチ Lynch」とオオヤマネコの「リンクス Lynx」の音の類似に注目。
[*]じシーンの別の例……この「別の例」の部分は書籍版では省かれているが、それは当該箇所が別の文章(「アントン・ヴェーベルンとの出会い」の1942年1月の記事)にすでに引用されており、それと重複することを避けたのだろう。ラム氏の「ラム Lambe」と子羊の「ラム Lamb」は発音が同じである。
【補注】なお、ラテン語の「Dona nobis pacem」の pacem をイタリア語風に「パーチェム」と読んでいる日本語の記事を見かけるが、もしそのように読むのなら、Circe は「キルケー」ではなく「チルチェー」、Cicero は「キケロー」ではなく「チチェロー」と読むことになる。そもそも古語であるし、どちらの基準で読んでも問題にはならないのだが、ci・ceを「キ・ケ」と読むのか「チ・チェ」と読むのかは、少なくとも同じ文章中では統一するべきだろう。
[*]典への徹底した忠実さを遵守した有名なフランス語訳……ヴァレリー・ラルボーと原作者によって改訂された、オーギュスト・モレルとスチュアート・ギルバートによる翻訳(モニエ・フールカーデ書店、1929年刊)。フランス語訳では、セールスマンの名前「ラム Lambe」が「ラニョー Lagneau」と変更され、その結果「アニョー Agneau」(子羊)とほぼ同じ音になった。
[*]かし、ほかの箇所では ~ セイレンのエピソードに対応する。……このパラグラフから「ジョー・マース」の引用の手前までは、書籍版では大幅な加筆が見られる。以下にその部分を翻訳引用しておく。
しかし、ほかの箇所では、類似音の語義を表現するため、(周知のように原作者の助力を得た)翻訳者たちは、完全な詩的再考を余儀なくされている。時には語を変形し、また時には同等の語に助力を求めることによって。
同様に、最後のエピソードの、ブルーム夫人が自分の名前について考察している箇所の一節。
« ...youre looking blooming Josie used to say after I married him well its better than Breen or Briggs does brig or those awful names with bottom in them Mrs Ramsbottom or some other kind of bottom... »
[……私が結婚してからあなたはブルーミング(花盛り、女盛り)に見えるとジョージーはよく言っていたわブリーンとかブリッグズはブリッグするとかボトム(尻)がくっついたいやらしい名前ミセス・ラムズボトムとか何々ボトムとかなんかよりもマシだわね……]
当該箇所ではフランス語訳が変則的な解決策を提示している。
« vous étes ébloumissante disait souvent Josie après que nous étions mariés en tout cas c'est mieux que Breen ou Briggs je brigue tu brigues ou ces affreux noms où il y a con dedans Mme Conrad ou n'importe quel autre con... ».
[私が結婚してからあなたはエブルミサント(まばゆい)ねとジョージーはよく言っていたわとにかくブリーンとか私はブリッグする君はブリッグするのブリッグズとか中にコン(おまんこ)があるいやらしい名前マダム・コンラードとかほかのどんなコン入りとかよりもマシだわね……]
いわゆるセイレンの場面の一節では、引用を最小限に抑えるためにこうしている。
« He heard Joe Maas ……(以下底本に同じ)
第3部第18挿話(最終章)「ペネロペイア」より。この章は句読点のない文章で書かれている。フランス語訳は、「blooming ブルーミング」を「ébloumissante エブルミサント」としている。普通は「éblouissante エブルイサント」と書く語で、ここではその途中に m を挿入しているが、これは「Bloom ブルーム」に音を近づけるためだろう。また、「Mrs Ramsbottom ミセス・ラムズボトム」は「Mme Conrad マダム・コンラード」と変えられているが、これは英語の bottom(尻)が使われている名前をフランス語の con(おまんこ)が使われている名前に変更することで、下ネタを保とうとしたのである(con は、バタイユを原文で読んだことがある人ならおなじみの語である)。なお、原文の does brig の部分は、訳者には意味が分からないのでそのまま「ブリッグする」としておいた。フランス語訳からの重訳もそのまま「私はブリッグする君はブリッグする」としたが、フランス語の briguer なら「志願する、熱望する、策を巡らす」などと訳すこともできた。
[*]る晩、彼はジョー・マースが ~ ……ジョー・マースの姓「マース Maas」とミサの意の「マス Mass」とで音の近似が見られる。なお、マースとマガッキンは、どちらも実在の歌手である。
[*]る晩、彼はジョー・クールが ~ ……フランス語訳では、原作の「マース Maas」が「クール Coeur」に改名され、その結果、cœur(心臓、心)、chœur(合唱団)などと同音となった。enfant de choeur には、「聖歌隊の少年」のほか「ミサの侍者の少年」の意もある(『特別な友情』にも出てきた語句である)。最後の部分では、「聖歌隊」の意の「クール choeur」を、同じ発音である「ハート」の意の「クール coeur」にすり替えた。よって、この部分「歌手のクールはクールのエース」は、音だけ聞くと「歌手のクールは聖歌隊のエース」「歌手のクールはハートのエース」のどちらにも取れる。
フランス語訳はなかなか見事な翻訳だと思うが、ただ、ジョー・マースをジョー・クールに改名すると、実在の歌手ではなくなってしまうという欠点がある。それとも、訳者が知らないだけで、実はジョー・クールも実在の歌手なのだろうか?
ちなみに、書籍版の注ではこの部分がイタリア語訳されているが、ジョー・マースは「ジョー・メス Joe Mess」と改名されている。イタリア語では、ミサは「メッサ messa」となるためだろう。
[*]の言葉の中には ~ (後にウラディーミル・フォーゲルがそれを教えてくれた)。……この部分は書籍版ではカットされている。「ディーオ Dio と デモーニオ Demonio は同じ語源だ」と言われれば納得できるけれども、「ルーチェ luce と オスクリタ oscurità もそうだ」と言われても、この2語の場合は響きが違いすぎて納得しにくいように思う。実際のところはどうなのだろう?
[*]極性」……原文「polarità」。伊和辞典では「極性」「両極性」などという訳語が当てられている。そうだとすると、北極と南極、プラスとマイナスのような関係性を表す語ということになるが、12音音列においての「極性」の具体例を筆者が示してくれていないので、はっきり言って分かりにくいことこの上ない。なお、書籍版では、「別のものは第2音と第9音の間に……という具合である」の後に、「そして、私は、そのセリーのそれぞれの切断部分に備わった可能性について話しているのではない」という一文が書き足されている。
この語は、600ページもある増補版ダッラピッコラ著作集全体でもこの文章にしか出てこないため、ほかの使用例を参考にすることもできない。仕方ないので、この文章から分かることを書き出しておくと、①「極性」とは特定の音たちの間に極めて洗練された関係があることを意味する、②「極性」は作品ごと、セリーごとに異なる、③「極性」が認められるのは、第1音と第12音の間、第2音と第9音の間など、隣接した音どうしというわけではない、などとなるだろうか。
いずれにせよ、各音が平等と言われる12音音列にも、調性音楽の「属音-主音」に準ずるような、その音列を特徴づける音程があるのであって、それらを長い音価の音符・緩いテンポの部分・強拍などに割り当てて目立たせることにより、聴き手がそれらを捉えやすくなるよう工夫することができる、と言いたいらしい。……もしダッラピッコラが言う「極性」を理解しているという方がいらっしゃいましたら、ご教授いただければ幸いです。
[*]花咲く乙女たちのかげに」の1冊目……ガリマール版の「花咲く乙女たちのかげに」は3分冊であった。
[*]ァースト……原文「fast」。英語。「ふしだらな」のほか、「今風の」の意もあるという。長所と短所両面を併せ持つ語なのだろう。となると、昭和っぽい言い方だが、「翔んでる女」くらいのニュアンスだと思われる。
[*]の名前は105ページ後にやっと再登場する……この部分に、書籍版では「ガリマール出版社(n.r.f.)」という原注が付いている。n.r.f. とは、ガリマール出版社の前身である「Nouvelle Revue Française 新フランス評論(出版社)」のことだろう。ガリマールという社名になったのは1961年であった。
[*]しているけれどいつの日かかなりどうでもよくなる人 ~ ……主人公にとって、今は愛しているがいつかどうでもよくなる相手とは「ジルベルト」で、その逆の相手が「アルベルチーヌ」である。
[*]8回目……アルベルチーヌの名前は、ダッラピッコラが指摘するとおり、「花咲く乙女たちのかげに」ガリマール版の1冊目では4回だけ、2冊目では1回だけ登場していたが、3冊目に入ると250回以上も登場する。引用されている「虹の架け橋」云々の記述のすぐ後に、アルベルチーヌという名前の、3冊目では初めて、通算では6回目の登場があり、その後は頻出するようになる。8回目は、その6回目の箇所のすぐ近く──バルベックの海岸のいちばん先、カナプヴィルの断崖が始まる辺りの別荘に居住している少女は、アルベルチーヌの親友だ云々──に出てくる。
[*]めて登場するときには……クリストーフォロ神父は、マンゾーニの『婚約者』全38章のかなり序盤、第3章の会話中に初めてその名前が見え、その直後の第4章で詳しい紹介が書かれている。よって、厳密にはダッラピッコラが言うように初出時に詳細な人物紹介がなされるわけではないのだが、初めて名前が出る箇所と詳しい紹介が出てくる箇所は隣接していると言ってよく、アルベルチーヌのように初出箇所とクローズアップされる箇所が離れているわけではない。
[*]詳細さえも我々に伝えてくるのである。……書籍版では、ここに次の一文が追加されている。「基本的に、イタリアとフランスの小説の登場人物紹介も変わるところはない。もちろんスタンダールを除けば、の話だが」
[*]れほど「形式主義」に反対する話で ~ 届けられそうなことだ!……ソ連や東欧の「形式主義批判」のことだろうかプラウダ批判やジダーノフ批判の対象となった作曲家のうち、ミャスコフスキーは27曲、ショスタコーヴィチは15曲もの交響曲を書いたし、プロコフィエフも7曲作っている。ソビエト当局が批判した「形式主義」は、一般的なそれとはかなり意味が異なる。彼らは、古典的な形式を遵守した音楽ではなく、逆に現代的な音楽にそのレッテルを貼った。
[*]今日でも、伝統的、あるいは ~ ……「遺言」、ヴラディーミル・フォーゲルからの公式発表、「ムジカ・ヴィーヴァ」第1号、1936年4月。
[*]1946年のヴェネツィアの祭典……英訳は「1949年」となっているが、底本も書籍版も「1946年」である。上にも書いたが、「ヴェネツィアの祭典」とは、おそらく「ヴェネツィア・ビエンナーレ」のことだろう。ただ、もしそうだとすると、ビエンナーレの公式サイトによれば音楽祭は1943~46年の間は開催されなかったとのことなので、英訳の「1949年」が正しいという可能性もある。しかし、著作集の「ウラディーミル・フォーゲル」という文章にも「al festival di Venezia del 1946」という記述が見えるので、ダッラピッコラが記憶違いをしていたのでなければ、その年にも何らかの音楽的催しがあったのかもしれない。ちなみに、映画祭はいち早く1946年から、演劇祭は音楽祭と同じく1947年から、美術祭は1948年から再開したという。「ビエンナーレ(隔年祭)」という名称は、どうやら意味がなくなったようだ。
[*]かし、ダンテは『神曲』を ~ ……『神曲』は、ラテン語ではなくイタリア語(トスカーナ方言)で書かれている。書籍版ではさらに、『神曲』に登場する裏切り者たち、ボッカ・デリ・アバティ、修道士アルベリーゴ、ブランカ・ドリアの三人の名前が引き合いに出されている。
[*]奇妙なことだ ~ ……この括弧のパラグラフは、《ワルシャワの生き残り》の、その「グロテスクな」批評を受けて書かれたものであろうかその批評がどのような内容であったのかは不明だが、「ミュージック・サーヴェイ」Ⅲ-2号1950年12月の記事によると、1950年9月13日、シェーンベルク76歳の誕生日の夜にフェニーチェ劇場で催されたその演奏会では、ミヨーやマデルナやフォーゲルの作品はあまり受けなかったのに、《ワルシャワの生き残り》は非常に評判が良かったという。演奏は、シェルヒェン指揮ローマ・イタリア放送交響楽団、語りはバリトンのアントニオ・クルビンスキー、合唱はヴェネツィア劇場合唱団であった。
[*]史的な正当化 ~ ……このパラグラフの最初の文と最後の文は、それぞれ「Giustificato storicamente[歴史的に正当化される]」「Giustificato esteticamente[美学的に正当化される]」という形で始まっている。形の上ではいわゆる「過去分詞構文」であろうが、一見、文法書で説明されているジェルンディオや過去分詞構文の、時間・理由・条件・仮定などの用法のいずれにも該当していないように見える。これらの用法の中から強いて選ぶとすれば、仮定だろうか(「美学的に正当化されるとしたら、それは~」)。書籍版では、「La giustificazione storica[歴史的な正当化]」「quella estetica[美学的なそれ]」と名詞に直されて主語になっており、この方がはるかに分かりやすい。ここでは、書籍版の本文に近い訳し方で訳してみた。
[*]ーツァルトの《ト短調交響曲》終楽章に ~ ……K.550第4楽章の、展開部に入って2小節目、第126小節後半のハ音から第132小節後半の嬰ト音までの範囲。この6小節半の間に、ニ・ト・イ音以外の9音が登場する(ごく短い音価の音符は除く)。ヤロヴェッツが「10」と書いたのは、第127小節の変イ音と第132小節の嬰ト音を別カウントにしているためであるようだ。しかし、この2音は異名同音なのだから、実際は10音ではなく9音しか出てこない
[*]ートーヴェンの「第九」終楽章に ~ ……該当箇所は第4楽章76小節目からの合唱と弦楽器の旋律(木管もそれらと同じ音を異なるリズムで吹奏する)である。そこでは15小節間にロ音以外の11音が登場する。この辺は1小節につき12半音のうちの1音が割り当てられているのだが、それでなぜ11小節ではなく15小節になるのかというと、「ホ・嬰ヘ・変ロ・ト」の4音はダブって登場するからである。なお、「11の異なる音」の原文は「undici suoni differenti」で、「undici(11)」は英訳では「twelve(12)」と直されている。ロ音が出てこないのだから、原文の「11」が正しい。
[*]メニコ・スカルラッティのあるソナタの中に ~ ……スカルラッティのソナタ・ヘ長調 L.437 / K.106 の第29小節。3拍の間に、ニ・ホ・変ト以外の9音が登場する。また、「6音音階」(una scala esafonica)とは、要するに全音音階のことである。
[*]々は再び時代の始まりにいる ~ に基づいてなされるであろう。……最後の七つのパラグラフは、書籍版では大幅に改訂されている。以下、そちらも翻訳引用しておく。
我々は再び時代の始まりにいる。我々は、新しい問題が、さまざまな作品においてどのように取り組まれ、その成功事例においてどのように新しい解答を見いだすことになるのかを見ているのだ。成功事例において、ということを強調しておくが、周知のとおり、芸術においてそれは稀なことであったし、今はむしろ、さらに稀になっているからである。(3世紀にわたる調性音楽の間でさえ愚かな音楽があちこちで書かれてきたこと、その中には少なくとも一度は存命中の調性作曲家によって書かれたこともあるということことを、仮定していただければありがたい)
今世紀に生まれたシステムの中で、12音のシステムほど関心を呼び覚ます力を持つものはなかった。これほど厳しく、時に臆病に戦ったシステムは、ほかにはなかった。そのほかのもの(だだし、それらは実のところ似非システムであり、『やり方』であった)は、流行という装飾を失い、再浮上の見込みもなく忘れ去られた。それに引き換え、当システムは、まさに戦争と孤立の時代に、かなり多くの国々で自然発生的に復活したのである。
シェーンベルクは1934年の手紙で書いている。「私はもう長いこと、自分の作品の普及と理解に立ち会えるほど十分に長い人生を送ることはあるまいと心得ております。いつの日か、私に異議を唱えたり敵対的に振る舞ったりするすべての人々が理解せざるを得なくなることは確実であるため、私は十分に広い境界線を引いたのです。数学者たちは、もし十分に長く待つだけの忍耐力さえあれば平行線は交わる、ということを強く主張するほど、ずっと先に行っていたりはしませんか?」
シェーンベルクの予言は正しかった。
12音音楽が、聴くことに関して依然として難しそうだと思われていることも、あまり驚くことではない。聴衆が頻繁で説得力ある演奏を通じてそれに慣れ親しむまでは、難解さが軽減されることもないように思われる。その間にも、少し前までは極めて稀であった、新しい作品に取り組む能力がある勇ましい演奏者たちが増えつつあることに注目しよう。
シューマンが、1842年、パガニーニ-リストの《六つの練習曲》の論評において、「実際、これらの曲を果敢に解明してやろうとする人はほとんど現れまい。おそらく、全世界でせいぜい四、五人くらいであろう」と書いていたことを忘れてはならない。
ゆえに、時間と忍耐力の問題なのだ。シェーンベルクが予見し、あれほどはっきりと表現していたように。
我々は、報道から完全に距離を置いて12音運動の歴史を書こうとするには、まだあまりにも事件の近くにいる。それでも、何年も経たないうちに、今のところはまだ12音音楽の重要性、我々を「不協和音の解放」へと導き、そのことにより我々の音響感覚を根底から変えたシステムの重要性を議論している(より正確には否定している)人たちも、考えを変えることになると予想することはできる。彼らは、むしろセンセーショナルな転向を、自ら「先験的に」排除するべきではない。
12音音楽の歴史的な正当化は、そう遠い未来ではなさそうだ。ことによると、それはすでに達成されているのかもしれない。美学的な正当化は、それほど待つことにはならないだろうと思う。それはすなわち、芸術的な成功に根ざした正当化であり、私が唯一重視するものである。(その間に、個人的な恨み、避けがたい論争、かえって励みになる攻撃などは、別の道に進んでいることだろう……)。なぜなら、芸術的成功というものは、音楽、現在も未来も流行しているものもしていないものも知らないあらゆる音楽に、自動的に入り込んでくるものだからである。芸術的成功は、それ自身の美点によって、歴史に入り込んでくるのである。
ご覧のように、1950年版と1970年版とでは結尾部の文言に違いがあるけれども、「12音音楽が歴史的・美学的に正当化されるのは、そう遠い未来ではないだろう」という同じ予測を20年後にも書かねばならなかったということは、シェーンベルクやダッラピッコラの予測に反し、この技法で書かれた音楽は1970年になっても一般に受け入れられたとは言い難い、という事実を露呈する結果となっている。初稿が書かれてから今年(2024年)で74年、改訂版が書かれてからもすでに54年が経過しているのだが、彼の予測はその歳月の間に少しは実現の方向に向かったのだろうか?
★プログラミング言語 Rust についての覚書を書いた2023年の秋、たまたまあることに夢中になってほかのことにまったく目が向かなくなってしまい、気づいたら1年が経過しようとしていました。そろそろ何かしら外国語の文献に触れておかないといろいろ忘れてしまう、と思い、20年以上前に取りかかったもののそのまま興味が薄れて放置していたダッラピッコラの文章にけりを付けることにしました。取りかかった当時は「ミュージック・サーヴェイ」版、すなわちデリック・クックによって英訳されたものからの重訳だったのですが、その後「aut aut」創刊号やダッラピッコラの増補版著作集が入手でき、イタリア人が書いた『ヴェーベルン事件』の中身を知るためにイタリア語を少しだけ勉強していたこともあって、あらためて原文のイタリア語から訳を作ることに決めました。外国語の文献を翻訳する場合、「重訳ではあまり価値がない」とまでは言いませんが、とにかく翻訳にはミスが付きものですから、原典を見ず翻訳されたものだけに頼っていると、他人が犯したミスを引き継いでしまう可能性がすこぶる高くなります。モルデンハウアーが、ヴェーベルン夫人の証言記録について、英訳されたものではなくオリジナルのドイツ語版を入手することにこだわったのも、そういうことが関係しているのでしょう。文書や書籍の概要を知るだけの目的なら、自分が得意な言語に翻訳されたものを使うのはありですが、研究対象にしたり論拠として引用したりする場合は、原典が入手できないのでない限りは必ず原典を参照するべきです。まあ、中には『三体』のように、「原文が読める中国人でも、英語が分かるのなら英訳の方を読んでほしい」と作者自身がお墨付きを与えた名翻訳もありますから、そういう場合は翻訳を使ってもよいかもしれません。ただし、それをするのは、この例のように「作者が認めた場合」に限るべきでしょう。
★ダッラピッコラの作品に興味を持ったのは、確かまだ前世紀の末、《囚われ人》と《囚われの歌》をサロネンが指揮したCDが出た頃だったと思います。ダッラピッコラと言えば12音音楽の作曲家というイメージしかなかったのですが、少なくともこの2曲にはほとんど12音らしい響きがなく、「へー、12音でこんなに聴きやすい音楽が書けるんだ」と驚いたものでした(もちろんこれは間違いで、この2曲は厳格な12音技法で書かれたものではありません)。それから間もなく、今度はNHK BSで《夜間飛行》《囚われ人》の国内上演(大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス)の模様が放送され、そのとき初めて聴いた《夜間飛行》には完全に脳を焼かれてしまいましたw。最初から12音音列らしき旋律が出てくるので、「ああ、これも12音オペラなんだ」と思って視聴していたのですが、それにしては聴きやすい、というかほとんど調性音楽にしか聞こえません。「いったいどういう手法で書けば12音がこんな響きになるんだろう?」「もしかしてベルクみたいなやり方を極限まで押し進めているのか?」などといろいろと想像しているうちに、劇の方はあのファビアンの墜落シーンへと進んでいきました。「これは……何と透明な……ピアニッシモのカタストロフ!」。実はこのオペラ、ファビアン役の歌手は出てこず、彼の墜落シーンは「電信技師」がファビアンからの通信をぽつりぽつりと語っていくだけなのです。ダッラピッコラはこのアイディアを実際の電信記録(ダンの『時間の実験』にも詳述されていた、マルティニーク島モンプレー噴火のそれ)から得たらしいのですが、効果としては大成功。これに対し、オペラのいちばん最後はちゃんとフォルテで盛り上がって終わります。まあ、現代の感覚では、新婚の若いパイロットを死なせてしまった郵便飛行会社支配人リヴィエールに全面的に共感するというわけにはいかないものの、労働者たちの反発やリヴィエールの苦悩も一応描かれていますから、見終わった後にそれほど引っかかりも残りません(少なくともモンテヴェルディの《ポッペーアの戴冠》よりはw)。
★そういうわけで、ダッラピッコラに強い興味が湧いたのが2000年の夏。その後間もなく、ルーファーの『12音による作曲技法』に彼が寄稿しているのをたまたま見つけ、その記載内容から「aut aut」あるいは「ミュージック・サーヴェイ」を入手する必要があると感じました。そのとき、後者の合本の古書が比較的安価で入手できるようだったので、確かオーストラリアの古書店に早速発注&入手。届いてすぐに読解に取りかかりましたが、上の訳文をご覧になれば分かるとおり、この文章には英語・フランス語・ドイツ語などがたくさん引用されており、少なくともジョイスとプルーストについて書かれているくだりはフランス語が読めないとお話にならないことが分かりました。あの当時、ドイツ語は大学時代に多少かじっていたので何とかなるにしても、フランス語にはまったく不案内でしたから、モチベーションはたちまちしぼんでいきました。ただ、英訳で途中まで読んだだけでも多少は得るものもあって、それは《夜間飛行》や《囚われの歌》は、12音音列が「ある作品では純粋に色彩的な目的で使われ、別の作品ではもっぱら旋律的な目的で使われ」ているというだけで、厳格な12音技法で書かれた作品ではない、ということが分かったことです。つまり、彼の初期の作品においては、無調音楽、と言うよりもどちらかというと調性音楽に近い音楽に、変化と面白さを出すために12音音列がちょこちょこと顔を出しているにすぎなかったのです。「な~んだ、やっぱりそうだったのか。12音作品があんなに聴きやすい音楽になるはずがないもんな」と思いました。オペラ《囚われ人》については、「12音オペラである」という文言をよく目にするけれど、あれも別に厳格な12音作品というわけではないですよね冒頭からオクターヴ重複があるし、使われているセリーが複数あるみたいだし……。その後も、折に触れて彼の作品を聴いてきましたが、正直言って、厳格な12音技法を採用した後期の作品よりも、初期の《夜間飛行》や《囚われの歌》の方がずっと魅力的だと感じています。緻密さや洗練の度合いという点では後期の作品に軍配が上がるでしょう。しかし、う~ん、何と言えばいいのか、後期の作品にはパッションが足りない感じなんですよね。オペラ《ヨブ》は短いのでまだ最後まで集中力がもちますが、オペラ《ウリッセ》になるとかなりつらい。合唱と管弦楽のための《解放の歌》は力のこもった良作だとは思うものの、これにもやはり《囚われの歌》ほど切迫した感情を感じ取ることはできません。私自身は、12音技法については今も昔もけっこう懐疑的な立場です。コロナ禍たけなわの頃、積ん読だったレボヴィッツの『12音音楽入門』を原文で読み始めたのですが、すぐに飽きてしまいました(『グレの歌ガイド』同様、譜例の間違いがひどかったということもあります)。しかし、12音作品にもシェーンベルクの《ワルシャワの生き残り》や《弦楽三重奏曲》のように、一度聴いたら忘れられないような強烈な印象を残すものがあることも事実です。結局は、誰が書いたものだろうとどんな手法で書かれたものだろうと、音楽は先入観や偏見なしで虚心に聴いて判断するほかはない、ということになるのでしょう。
★間違っているかもしれませんが、オペラ《夜間飛行》は、レコードやCDが今日に至るまで1枚も出ていないような気がします。このオペラの存在は、それこそ音楽を聴き始めた70年代前半(まだダッラピッコラも存命中でした)から知っていたはずなのに、実際の演奏を初めて聴けたのは上記のように2000年になってからでした。これを書いている2024年現在は、配信やYouTubeでいくつかの上演が視聴できるようになっていますが、それらはすべてライヴで、ディスクではなく放送用・配信用に収録されたもののようです。ダッラピッコラのほかの三つのオペラはレコードやCDが発売されたことがあったのに、おそらくいちばん有名な《夜間飛行》だけ録音に恵まれなかったのはなぜなのでしょう著作権関係か何かで難しい問題でもあるのでしょうかちなみに、《夜間飛行》の解説は、「音楽芸術」1955年5月号・6月号(第13巻5号・6号)に前後編で掲載された柴田南雄さん執筆によるものが、おそらく世界的に見ても最も詳細で行き届いたものだと思います。「音楽芸術」に掲載された柴田南雄さんの楽曲解説は、同年1~3月号(第13巻1号~3号)に載った《グッレの歌》なんかも素晴らしかったのに、なぜか国書刊行会の『柴田南雄著作集』全3巻にはまったく収録されませんでした。
★ちょっと音楽から離れて、プルーストの手法について。
●以前から言われているように、『源氏物語』などの我が国の王朝物語にも、『失われた時を求めて』に似た登場人物の登場方法が出てきます(英訳版帚木巻でウェイリーが書いた注が、それを指摘した最も早いものでしょう)。朝顔の姫君や六条御息所は、人物紹介なしで物語に現れ、読み進めるうちに素性や背景が分かってきます。まあ『源氏』の場合は、(「輝く日の宮」巻のように)書かれたけれども散逸した巻があったかもしれず、またいわゆる「玉鬘系」の諸帖が「紫上系」よりも後から書かれて挿入されたことはまず間違いなさそうですから、作者がどこまで計算してあのような近代的な手法を実現させたのかは何とも言えません。
●王朝物語には、何の紹介もなしに登場人物が現れて動き出し、結局最後まで読んでも彼らの正確な素性は分からない、という極端な例もあります。『堤中納言物語』の「花桜折る少将」や「このついで」がそれで、これらの登場人物がどういう人間なのかは読み進めるうちにだいたい分かってはくるものの、読者のための人物紹介のようなものはどこにも書かれていないのです。恐ろしく近代的な手法であるとも言えるけれども、鈴木一雄さんの有名な論文によれば──これらの物語が書かれた当時は印刷技術もなく、例えば『源氏物語』の写本を全巻揃えるなどということは至難の業で、そのため『源氏』は途中の巻から読まざるを得ない読者もいたことだろう。長編の途中から読むということになると、登場人物は何の紹介もなく現れて動き出すように見えるはずだ。『堤中納言物語』の一部の物語は、おそらくそのような経験から生まれたのではなかろうか──とのこと。もしこの推論のとおりだったとすれば、「花桜折る少将」や「このついで」の前衛的とさえ言えそうな手法も、近代的な文学的効果を狙って生まれたわけではないということになります。
●また、一部の登場人物について、その存在が最初に語られてからずっと後になってやっと動向や背景が判明し、その結果いろいろなことが明らかになる、という書き方の物語もあります。平安時代最末期か鎌倉時代最初期の成立であろうと言われている『あさぢが露』がそれで、この作品はこのような「種明かし的ストーリー」に特徴があり、これは明らかに作者が計算して書いたものでしょう。私は王朝物語が専門なので、鎌倉時代の物語も含め現存のものはすべて大学時代に読みました(『狭衣物語』以降の作品は、注釈書が出ていないどころか、本文を参照することさえ苦労するような時代だったため、もう本当に大変だったけれども、ほとんど誰も読んでいないような忘れられた作品群を開拓しているという歓びはありました)。『とりかへばや』以降の比較的小ぶりな物語群の中では、巻末が散逸しているにもかかわらずこの『あさぢが露』がいちばん面白かったというか、その謎解き的ストーリー運びには大いに感心させられました。
●(この後は余談です)……面白いマイナー物語の第2位は、男色を匂わせる描写がある『石清水物語』。第3位は、レズビアンシーンがある『我身にたどる姫君』と続きます(私自身はノンケですので、念のため)。『石清水』は、比較的写本に恵まれたおかげで昔からよく知られてきた作品なのですが、本格的な注釈&現代語訳が出たのは何と2016年になってからでした(三角洋一さんの遺作)。何と言うか、奇妙に生々しい肌触りの文章を持っていて、筋書きはさほど面白いとは思えないのに、先へ先へと読み進めさせる力を持っています。『我身にたどる姫君』は、現存の全物語中おそらく最も難解な本文を持っており、そのためかえって昭和時代から注釈書が複数刊行されるという幸運に恵まれました(徳満澄雄さんによる注釈書、今井源衛さんと春秋会による注釈&現代語訳)。その次に難しいのは『有明の別れ』だと思いますが、これにも、いずれも大槻修さんによる注釈書と現代語訳が出ていました。この物語は、前半は男装の姫君が主人公であるという変わった趣向で目を引くものの、冒頭に本筋とは全然関係のない男女の描写があるなど、物語全体としてはまとまりが悪いと言わざるを得ません。定家の『松浦宮物語(まつらのみやものがたり)』も、萩谷朴さんによる非常に行き届いた注釈&現代語訳(角川文庫)が出ていてものすごく助かったのですが、物語の内容は正直かなり今イチでした。『海人の刈藻(あまのかるも)』は、戦後すぐに刊行された宮田和一郎さんの校注本を古書店で偶然入手できたため(大学生にはきつい価格でしたw)、かなり楽に通読できました。ただ、この物語の現存本は大長編のダイジェストではないかと思われるフシがあり、短いわりには登場人物が異常に多く、そのせいかやや無味乾燥な印象で、正直全然面白いとは思えませんでした。
●ちなみに、「奇妙な物語」の代表は『夢の通ひ路』物語だと思います。これはけっこうな長編で、何が変わっているかというと、「二つの物語が互いに干渉することなく同時並行的に進んでいく」ということです。まるで『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を4~500年先取りしたみたいな構成ですが、物語としてははっきり言ってどちらの流れも面白くはありません。この物語の成立はどうやら室町時代まで下るようで、平安時代や鎌倉時代の王朝物語とは文章の肌触りがかなり異なりますし、統一されていないストーリーも、おそらく王朝物語が作られるには時代が遅すぎ、すぐれた物語作家も物語創作上のノウハウも失われていたことに起因するのでしょう。
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