アントン・ヴェーベルンの死 日本語訳

ハンス・モルデンハウアー
Hans Moldenhauer
鷺澤伸介:訳
(初稿 2021.10.2)
(最終改訂 2022.9.19)

ドイツ出身で、後にアメリカに帰化した音楽学者ハンス・モルデンハウアー(1906-1987)による、アントン・ヴェーベルンの死の状況を徹底調査したレポート『アントン・ヴェーベルンの死』(原題:The Death of Anton Webern、原文:英語)を翻訳しました。
(表記揺れ:アントン・ウェーベルンの死)

底本

アントン・ヴェーベルンの死 ─記録文書の中のドラマ─

ハンス・モルデンハウアー
我が妻ロザリーンへ
アントン・ヴェーベルン、オスカー・ココシュカによるスケッチ
アントン・ヴェーベルン
オスカー・ココシュカによるスケッチ
目次
謝辞
序文(イゴール・ストラヴィンスキー)
第1章 プロローグ
第2章 磁石
第3章 調査
第4章 真実
第5章 コーダ
挿絵リスト(略)
訳者による解説
この本は本質的に、かなり捉えどころのない諸相の中にあるただ一つの真実の探求を書いたものである。調査は、真実に真剣な関心を抱く人々によって自然に共有分担された。この記録文書はすべて、その個人の方々とアメリカ合衆国政府のさまざまな省によるものである。
著者は、本文中に名前が現れる協力者各位、そして脚注に示されているように、書籍や定期刊行物からの引用を許可してくださった出版各社のご厚意に、感謝の意を示すものである。
一見克服できないと思われるような障害を前にしての真実の探究は、ただ信念のみを礎として始めなければならなかった。この信念と善意の人々の集合的な努力によって得られた真実が、アントン・ヴェーベルンの死という暗い時間にどうか光を当ててくれますように。
文†
ハンス・モルデンハウアーの忍耐と献身のおかげで、我々はあの偉大な巨匠の悲劇的な死(そして同じく悲劇的な晩年)について、今や包括的でありのままの報告を手に入れている。アントン・ヴェーベルンは、その孤立のために、私にはいつも悲劇のヒーローのように見えていた。ところが、この記録文書を読むと、我々と我々の時代の芸術にたいへん親密な、人間を愛する人の姿しか思い浮かんでこないのである。
イゴール・ストラヴィンスキー
1961年5月10日
†訳注「序文」──この序文は英語版の原著にはないので、ドイツ語版から訳した。
アントン・ヴェーベルン(1935)
アントン・ヴェーベルン(1935)
1章 プロローグ
「意気消沈していたとしても、
気高い人間性が無慈悲に死に絶えていたとしても、
暗い日々が続くとしても、
我々が探し求めるのにふさわしい道が
不健康で、あまりに暗いものであったとしても、そう、そのすべてであったとしても、
美しいものの形は、我々の暗い心から
黒い覆いを取り去ってくれる」
(ジョン・キーツ《エンディミオン》)
1959年8月11日、ハイリゲンブルート。そのオーストリアの小さな村に、私たちは昼過ぎに到着した。頭上に暗雲が集まり始めたため、険しいグロスグロックナーの高山道路に速やかに取り組むことになった。小さな自動車がヘアピンカーブを次々と曲がっていく間、谷や森が下に落ちていった。高さとともに、滝の轟音に共鳴しながら、また荒涼とした岩場に反映されながら、寂しく不吉な雰囲気が増していった。漂う霧が山脈や山頂を覆い、岩や氷河に忍び寄っていた。暗いムードが尾を引くようになっていて、私たちに奇妙な不安感が広がりつつあった。その前の日々の基調音は消えてしまっていた。イタリアの太陽と暖かさ、その有名な町々の素晴らしさ、果樹園とぶどう園のある気持ちのよい田園地帯、気楽さと愉快さ、ドロミーティへの連絡道路沿いの各リゾート地で休暇を過ごしている陽気な群衆。今は、高い雪の堆積の間を進む間、車に氷のような風が激しく吹き付けていた。湿気と寒気が大気中に重く漂い、徐々に染み込み冷たくなっていく、冬のイメージ。
ようやく尾根のように見える所までたどり着き、その少し先は峠の標高に達していた。眺望も、喜びも、休息もなかった。その世界は脅威と厳しさに満ちていた。私たちはすぐにその場を離れた。妻のロザリーンがハンドルを握っていた。
山の反対側に再び降りると、容赦ないカーブを注意深く回ったり、観光バスの列に蝸牛の歩みへと減速させられたりするうちに、焦燥感と不安感が募っていった。自分たちがいる場所はほとんど進むことなく、この日の目的地であったザルツブルクはまだ遠いというのに、この数マイルの急な山道で何時間もの遅延が発生している。その地ではオーストリアの作曲家エゴン・コルナウト氏が待っており、私たちはその日の夜には到着しなければならないと感じていた。
私はもう一度地図を調べた。谷底に着いたら、まっすぐ北上してブルックへ向かい、それからザルツブルクに繋がる主要幹線道路を東進することになる。すでに午後の遅い時刻になっていたので、夕暮れまでに目的地に着くことはおそらく無理だった。ブルックから訪問相手に電話するのが最善だろう。
目がぼんやりと地図をさまよううち、はっと注意が引きつけられた。ブルックからほんの少し西の方に「ミッタージル」と書かれた場所があり、私の視線はそこに釘付けになった。それは間違いなく、1945年のアントン・ヴェーベルンの死によって悲しい評判を得ていた村であった。私はその情報をロザリーンに伝えた。私たちは黙って走っていたが、二人の心は、歴史の中の伝説であり、運命の中の謎であったあの悲劇の回想で急にいっぱいになった。
二人の思いは、スピードを出している車よりもはるか先を突き進んでいた。変わりゆく田園地帯が忽然と焦点を与えられ、私たちはその中心に向かって磁力のように引き寄せられるのを感じていた。
ブルックに入ったときには陽光は薄暗くなりつつあった。私たちが来た南と北、今私たちが曲がろうとしている東とミッタージルが手招きしている西、その小さな町ではそれらの道路が交差している。そちらへ行ってしまうと、コースから30マイルも外れることになるだろう。私たちは顔を見合わせた。その寄り道をするということは、深夜になる前にザルツブルクへ到着できないことを意味し、エゴンとヘルタ・コルナウト夫妻が住む町ヘンドルフはさらに10マイルほど先なのだ。今のこの時刻でさえ、夫妻は私たちのことを気にしているかもしれない。
電話で友人を安心させようと、私たちはレストランに入って電話帳を調べ、次に電話交換手に尋ねた。が、見つけるべき名前はなかった。私たちは立って話し合った。私は訪問相手を待たせ続けるのは嫌だった。そのうえロザリーンはひどく疲れていた。私たちは、ホテルがどこも混んでいたため雨の中で野宿をし、眠れない夜を過ごしていたのだった。私が目を悪くしていたため†、ロザリーンがずっと運転していたのである。この旅は、今日までにドロミーティの三つの厄介な峠を越え、かてて加えてグロスグロックナーの高山道まで越えてきていたのだ。ロザリーンがすでに疲労しているのは間違いなく、これから暗闇でのドライブも控えていたので、私は彼女に頼まなかったし、彼女が決める番だと感じた。とはいえ、口には出さないものの、決定はすでに下されていた。私たちは車に飛び乗り、ロザリーンはスターターを押した†。彼女は「西」へ、ミッタージルへと向かったのだ。ここでイニシアティブを取ってくれたこと、ただそのことだけのために、公平に言ってこの本は彼女のものなのである。それがなければ物語は生まれなかったのだから。
†訳注「私が目を悪くしていたため」──モルデンハウアーは「網膜色素変性症」を患い、晩年は失明している。
†訳注「スターターを押した」──この当時の自動車は、キーを回してからスターターボタンを押すことでエンジンを起動した。ただし、キーを回し込むだけでエンジンを起動する仕組みもすでに開発されていた。
それまでの雰囲気は暗さと不安を孕んでいた。それが、そのときには活力と、何となくの解放感とがあった。私たちは冒険心と意欲とを感じていた。
ブルックから続く高速道路は、最初のうちはスムーズで高速走行が可能だった。いくつかの村を通り過ぎた。カプルーン、ニーダーンジル、ウッテンドルフ。それらはいずれもピンツガウと呼ばれる地域にある。道路は、青々とした牧草地が大きく広がる広大な谷を両断している。谷の南側の境界は急峻で長く伸びた山脈で、その頂上には岩がそびえている。牧歌的でも雄大でもあるこの田園風景は、オーストリアの名高いチロル州の典型であると言えるだろう。
ロバート・クラフトの所見がよみがえってきた。アントン・ヴェーベルンとこの静かな風景とを繋いでいる内面的な結びつきを書いた言葉である。「彼は愛するチロルを離れては幸せになれず、オーストリアから出て演奏旅行に行くと、ひどいホームシックに襲われた。彼のすべての作品に山の存在が感じられる。作品6や、(実際にカウベルを使っている)作品10のような自然と色彩の作品のみならず、彼が完成した最後の作品にも、あからさまにベルの音が模倣されている。澄んだ山の大気に響くベルの音は、ヴェーベルンのほぼすべての作品で想起される」。そのカウベルの音が、今や私たちの周りじゅうにある。私たちはヴェーベルンが選んだ安息の地に入った。
目標に向かって半分くらいの所で、道が急に狭く、通りにくくなった。そのとき、それまでの進行速度が半分に落ちた。目的地に近づくにつれ、私はミッタージルに着いたらどうしようかと思い始めた。まずは墓地を見つけてヴェーベルンの墓にお参りしよう。しかし、塚の列の中からそれをどうやって探し出せばいいのだろうここで私は、かつてエルンスト・クレネク†が書いた、もの悲しい文章を思い出した。(1)「多くの最も優れたオーストリア人を雲のように覆っている著しい匿名性は、ヴェーベルンの上にも浮かんでいた。それは今でも彼の遺体にその影を落としている。数日前、作曲家の妻ヴェラ・ストラヴィンスキーが、インスブルックに短期滞在する間に、若いアメリカ人指揮者ロバート・クラフトとともにヴェーベルンの墓に巡礼したことを教えてくれた。困難な山道を越えて辺鄙なミッタージルの村に着くと、彼女たちは墓への道を尋ねてみた。多くの客が訪れる国民的な聖地として、住民たちに大切にされているだろうと期待しながら。が、誰もそれを知らなかった。教会の壁際の、より目立つ墓石を調べてみても無駄だった。ついに彼女たちは、ミッタージルの地元民の墓の中に、誰も気に留めない質素な塚を見つけた。その下には、卑劣な運命によってこの世から引き離された、新しい音楽の宇宙の予言者が眠っている……」。私たち二人も、多くの中からその墓を探し出さねばならないのだろうかそれは光と闇に関わる問題であった。夜が迫っていたからである。
原注1:『Die Reihe(音列)』第2号「アントン・ヴェーベルン」より。セオドア・プレッサー社刊。ウニヴェルザール出版社後援。
†訳注「エルンスト・クレネク」──表記揺れ:エルンスト・クルシェネク、エルンスト・クシェネク。以下同じ。
私たちは、ほどなくミッタージルに到着した。村の中心部は、インスブルックへと続く高速道路から離れている。川に架かる橋を渡って、左に曲がった。田舎の集落の例に漏れず、素朴で、平和で、絵画のようだった。停車して、墓地への道順を尋ねた。「まっすぐ行って」と教えられた。「教会のすぐそばですよ」
ミッタージルの教会は、この国のほとんどの田舎の教会と同じように見えた。大きくも小さくもなく、粗雑でも華美でもない。先頭は玉ねぎ型で、外側は白一色で塗られていた。私たちは駐車して、墓地の門に向かって歩いた。ちょうどそのとき、教会から神父が出てきて、小広場を横切って司祭館へと向かった。私たちは、「Grüss Gott![こんにちは!]」と挨拶し、アントン・ヴェーベルンの墓はどこで見つかるかと尋ねた。神父は親切に、広がっている教会墓地の突き当たりの場所を指さして教えてくれた。
墓の列が次々と過ぎていった。それらの中には大きな彫刻が施された花崗岩のものもあり、この世での富とそれ相当の重要な地位とを示していた。墓地の奥の壁に近づくと、ほとんどの塚はシンプルな十字架を有していたが、至る所があらゆる種類の植物や山の花でたっぷりと装飾されていた。木製の十字架の中には、塗装されたばかりのものもあれば、未加工で風雨で傷んでしまっているものもあった。墓碑銘が薄くなっているものもわずかにあった。名前が読みにくくなっていた。眠る者と上の世界とを繋ぐものは、生きた人間の記憶以外は何も残っていなかった。
間もなく、最後の列の一つ前で、私たちは探していた墓を見つけた。錬鉄製の十字架がその静かな場所の上で不寝番をしている。くすんだ色、禁欲的な外観で、墓碑にはその腕の下に眠る人々の身元を明らかにするものがまばらに記されている。
アントン・ヴェーベルン
1883-1945
ミナ・ヴェーベルン†
1886-1949
†訳注「ミナ・ヴェーベルン」──ヴェーベルンの墓は、1955年と1972年に2度作り直されたため、これまでに3種類あった。ヴェーベルンの妻ヴィルヘルミーネの愛称形は、一般的には「ミンナ(Minna)」または「ミンネ(Minne)」で、ヴェーベルン家ではもっぱら「ミンナ」だったようであるが、1959年当時の2番目の墓には「ミナ(Mina)」と刻まれていた(写真参照)。3番目の、現在の墓は「ミンナ(Minna)」となっている。
ミッタージルの墓(1955~1972)
ミッタージルの墓(1955~1972)
常緑樹と苔で飾られ、その墓はほとんど親しみやすく感じられた。枯れた花輪が十字架にかかっていた。その中には、小さな松かさの濃い茶色が、耐寒性のマウンテンベルの青みがかった色調に混ざっていた。その花輪は高山の霜と風に晒され、雪によって、またそれと同じくらい太陽によっても漂白されているように見えた。とはいえ、それは誰かが覚えていたということの証左になっていた。
私たちが立っている間、畏怖の念を催すような沈黙が支配した。頭の真上の空は雲で暗くなっていた。しかし、はるか西の方では、また遠く東の方でも同じだったが、こんなに遅い時刻の光景にしてはかなり奇妙なことに、空を重く覆う雲が、風景の中に衣のように落ちてきた光の洪水によって裂けていた。私たちの頭上だけは陰気な暗闇が浮かんでいた。
墓のそばから離れる前に、私は枯れた花輪から三つの小さな断片を取り上げた。それらを何千マイルも離れた自宅に持ち帰り、書きもの机の上に置いた。それらは今でも私の前にあって、無言のうちに多くを語ってくれる、思い出を偲ぶための小さなよすがとなっている。青灰色の山の花が二輪と、真ん中に茶色の松かさが一つ、である。
私たちは神父を短時間だけ訪ね、彼は階段を上って自分の書斎へと私たちを導いた。彼は、教区内で発生したすべての死を記録した帳簿を取ってきた。商取引のための帳簿が保存されているどこかの事務所で見かけるような、黒と赤で印刷された縦横の線が見える、地味な台帳である。神父は、目当ての項目を見つけるまで書かれたページをぱらぱらとめくっていった。1行だけの統一された書式で、ほかの多くの記載名とまったく区別されていない。そこには簡素にこう書かれていた。
"Anton Webern, 15. September 1945. 10 Uhr abends."
[「アントン・ヴェーベルン、1945年9月15日、夜10時」]
私たちは誰も口を開かなかったが、ぎっしり書き込まれたページに書かれたこの素っ気ない記録の衝撃が、言葉を発することを押さえ込むほど強かったのである。聖職者は帳簿を再び閉じた。私たちはお礼を言って、その場を後にした。
もうすぐに日が暮れそうだったが、もう一つ探したい場所があった。それはアントン・ヴェーベルンが射殺された場所であった。住所は分かっていた。「アム・マルクト101」。その家を見つけるのは難しくなかった。それは、私たちが走ってきた高速道路に交差する川の北岸にあった。村を通過し、橋を渡って引き返し、ツェル・アム・ゼーに通じる道をたどって数軒の家を通り過ぎてから、左折して狭い道に入った。すぐにその住居に行き当たったが、そこに付けられている通りの名前にふさわしい市場†の広場はない。
†訳注「通りの名前にふさわしい市場」──「Markt(マルクト)」は「市場」の意。
家自体は小さく、外観は質素である。鉄の掛けがねが付いた荒削りな門が、長さ15フィートほどの短い小道に接しており、それが家の入り口まで一直線に続いている。ドアの上方中央には位置を特定する「101」という番号が表示されている。1階には白く塗られた原石の外壁があって、上の階の茶色い構造とコントラストをなしている。高山の田舎の家によくある様式である。下の階の上部にバルコニーがあり、そのときは赤いゼラニウムが照り映えるフラワー・ボックスが並んでいた。家の前の庭にも夏の盛りの緑と花が溢れていた。
悲劇の現場アム・マルクト101の家
悲劇の現場アム・マルクト101の家
私たちが到着したとき、ベランダに若者たちが出ていた。女性二人と男性一人が見えた。話し声や笑い声が辺りを満たした。私は、ここがアントン・ヴェーベルンが亡くなった家なのかどうかを尋ねた。男の若者が声を潜めて答えた。「ええ、そうです」。それから彼らは全員家の中に引っ込んだ。
私は小道を歩いてドアまで行った。丸太枠の隣のスタッコ仕上げの壁に、そのときまだ三つの弾痕を見ることができた。地面から腰くらいの高さに、ドアの左側に二つ、右側に一つある。石を穿つこの三つの小さな穴が、かつてこの場所を襲った暴力を物語っている。花園の豊かな繁茂、頭上のゼラニウムの燃えるような赤が、この憂鬱な場所を縁取り、飾っている。私たちには、ここはおそらく教会裏の墓よりもいっそう厳粛な場所であり、私たちの巡礼の真の目的地であるように思われた。
その慌ただしい訪問の強い印象は、その後何時間も重苦しく残った。私たちは、遠いザルツブルクへの最初の駅、ブルックに戻る旅を始めていた。夕暮れの薄暗い灰色の中で、ミッタージルの南の岩の峰が黒々とそびえ、天を背にして際立ち、その表面にわずかな雪の斑点が輝いていた。空は荒天の暗い気配で重苦しかった。かすかに稲妻が光る。雷が轟き、山腹にこだました。雨が迫っていた。
見てきたものが、私たちを暗い気持ちにさせていた。しかし、憂鬱さの陰で、ある考えがすでに芽生えつつあった。ミッタージルへの旅が突然の衝動から生じたにしても、それは私のアントン・ヴェーベルンの世界への延々と続く没頭を誘発するのに役立ち、今やそれに明確な方向性を与えるものであった。
私の横でハンドルを握りつつ、ロザリーンは疲労と戦っていた。彼女の疲れた両目は曲がりくねった道をしっかりと見つめている。輝くヘッドライトが闇を貫き、夜という局面を切り抜ける。何マイルも、何時間も、私の思考はアントン・ヴェーベルンの死の周囲をぐるぐる回っていた。モーターがうなり音を発していた。それ以外に音はなかった。夜中の12時頃だったに違いない、ゆっくりと話す自分の声が聞こえた。「彼が本当はどんなふうに死んだのか、調べてみるべきだ」
ロザリーンが答える必要はなかった。彼女もまた、それを知りたいという衝動に駆られていたのだから。私たちは、自分で決めたこの新たな仕事への任命を喜んで受け入れた。目的は、真実の探索だ!
あの運命の日に、本当は何が起こったのかヴェーベルンはアメリカ軍の誰かが撃った銃で殺された、ということ以外、誰も正確な事実を知らないようだった。それについての物語は確かにいろいろあった。ところが、それらは説明が食い違っていた。次第にさまざまな憶測が現れた。推測にすぎなかったのだが、それらが広く受け入れられたのは、それらがいずれも広範囲に流されたからである。その物語は、多かれ少なかれ権威を主張する資格のある印刷物から、あらゆる種類の噂話にまで及んだ。風説の中には、純粋な悪意から生まれたことが明らかなものもあった。
体系的調査のためには、出版された説明を出発点とすべきだろう。参考にできるものは多くなく、さまざまな記事や書籍の中にわずか1ダースほどの論及があるだけだった。最も重要な情報源は、ロバート・クラフトによる「アントン・ヴェーベルン」と題されたエッセイである。その記事は、イギリスの定期刊行誌『ザ・スコア』に掲載されたもので、1955年9月に世に出た。クラフトがコロムビアに録音した『アントン・ヴェーベルン音楽全集』に付属するブックレットにも、ほぼ同じ内容のものが転載されている。(2)
原注2:本書に登場するロバート・クラフトによるほかのすべての引用は、同じ情報源からのものである。
悲劇について、クラフトはこのモノグラフの中に書いている。
「オーストリア併合後のナチスが彼の音楽を禁止し、著作物を燃やし、少数の弟子を教える以外の一切の活動を禁じたため、彼の境遇は人間としても音楽家としても悲惨なものとなった。戦時中の奴隷労働から逃れるため、ヴィーンの音楽出版社の校正の仕事をせざるを得なくなることさえあった。戦争末期にはヴィーンへの爆撃が増え、繊細なヴェーベルンは騒音から避難することを余儀なくされた。彼は、ザルツブルクの南西約80マイルに位置するピンツガウの小さな町ミッタージルの、義理の息子ベンノ・マッテルの家へと向かった。彼はそこで、休戦直前に兵士であった自分の息子が殺されたことを知った。そして、1945年9月15日、彼自身もそこで射殺された。
ヴェーベルン殺人事件──あるいは不幸な事故──は、いまだに公式には説明されていない。一説によると、殺人者はアメリカ兵で──ミッタージルはアメリカ領だった──、引き金を引く指の速さで有名な占領軍の兵士だった。戦争は5か月前に終結していたが、ミッタージルには外出禁止令が出ていた。ヴェーベルンは夜、タバコを吸うために自宅の外に出ていた。彼はアメリカ兵に命令されたかもしれないし、されなかったかもしれず、その命令を誤解したかもしれないし、しなかったかもしれず、ポケットを探って何らかのもっともな疑いをかけられたかもしれないし、かけられなかったかもしれない。アメリカの支援を受けていたドイツ語紙『ヴィーナー・クーリエ』は、この事件を次のように報じた。『夜10時頃、彼が義理の息子の家の前に立ち、退出前の最後のタバコを楽しんでいたとき、突然の連射があった。ヴェーベルン博士はよろめきながら家に入り、妻に「撃たれた」と言った。彼は間もなく亡くなった。義理の息子は逮捕された。攻撃の動機は、完全に謎のままである』
別の報告によると、マッテルの家はアメリカ軍に捜索されていて、ヴェーベルンは通りで待つように言われ、そこで彼は『誤って撃たれた』という。ミッタージルを訪れ、長い緑の谷にそびえる雪のトゥルン峠を通り過ぎると、その死は二重に残酷なものに思えてくる。撃たれたヴェーベルンは、最も鈍い兵士にさえ危険人物であるとは思われそうになかったし、果てしなく外出禁止令が続くこの静かで未開の孤立した村の中で暴力と騒音に怯えていた、61歳の男だったのだ。彼はミッタージルの教会墓地の簡素な鉄の十字架の下に、1949年に亡くなった妻のミンナとともに埋葬されている。Noli tangere meos circulos[私の円に触れるな]†、そしてアルキメデスのように、彼は死んだのである」
†訳注「Noli tangere meos circulos[私の円に触れるな]」──第二次ポエニ戦争時、アルキメデスが踏み込んできたローマ兵に向かって言った言葉。その兵士は、アルキメデスが偉人であるゆえに危害を加えないよう命令が出ていたにもかかわらず、腹を立てて彼を殺してしまった。
ロバート・クラフトが流通している説の要点だけを語ろうとしていたのに対し、フリードリヒ・ハーツフェルトは、明らかに惨劇の直接の現場で個人的な調査を企てた。彼の、真摯に追求した努力の結果は、ドイツ語の月刊誌『Neue Zeitschrift für Musik[新しい音楽雑誌]』1958年3月号に掲載された「Anton Weberns Tod[アントン・ヴェーベルンの死]」という記事の中で公表された。このエッセイには広範な背景事情が含まれているので、ここではその全文を引用する。(3)
原注3:翻訳はH.M.による。†
†訳注──H.M.はハンス・モルデンハウアーのイニシャル。以下同じ。
「1945年2月、アントン・ヴェーベルンの唯一の息子ペーター・ヴェーベルンが、走行している列車への爆撃の間に命を落とした後、アントン・ヴェーベルンは妻とともにヴィーンから逃れた。彼はミッタージル/ザルツブルク州、ブルク街区31番の家に避難所を得た。娘マリアの義理の両親であるハルビッヒ夫妻(4)が、ヴェーベルン夫妻をもてなした。ここでのアントン・ヴェーベルンは、丘の中腹にあるチロル風邸宅の上階に住んでいた。
原注4:名前の正しい綴りはHalbichである。†
†訳注──ハーツフェルトがハルビッヒの綴りをすべてHalbigと誤記していることへの注釈。
ミッタージル、ブルク31の家、ヴェーベルンの最後の住居
ミッタージル、ブルク31の家、ヴェーベルンの最後の住居
ミッタージルでの彼の生活と死については、彼をまだ覚えている数少ない人々から次のようなことを聞くことができた。
1945年9月15日、ヴェーベルンは既婚の娘クリスティーネ・マッテルを訪ねた。彼女はミッタージルの101番住宅、道路から離れた小さな住居であるエリーゼ・フリッツェンヴァンガー夫人†の家に住んでいた。後者は、アントン・ヴェーベルンのことを、気さくで愛想の良い人だったと回想している。彼女の言葉を借りれば、彼は『本当に善良な人』だった。
†訳注「エリーゼ・フリッツェンヴァンガー夫人」……原文「Mrs. Elise Fritzenwanger」。この人のファースト・ネームはElise(エリーゼ)ではなく、Elsie(エルジー)が正しいようだ。
その日の夜、占領軍のアメリカ兵たちがやって来て、家を捜索した。彼らはアントン・ヴェーベルンの義理の息子、彼の娘クリスティーネの夫を探していたのである。村の噂話によると、彼は別の機会にも政治的に嫌疑をかけられていたという。実際、彼は逮捕され、その後1年間アメリカの拘留下に置かれた。マッテル家は現在、アルゼンチンに住んでいる。
占領軍のアメリカ兵たちがキッチンでマッテルと交渉している間、アントン・ヴェーベルンはタバコを吸うために家を出た。彼は、外出が禁止されていることも、占領軍のアメリカ兵たちが家を取り囲んでいることも知らなかった。夜の10時だったので、どうやら彼は義理の息子と間違えられたらしい。彼が家のドアから出た瞬間、3発の銃弾が発射された。家のドアの右側の壁には三つの弾痕がまだ見られる。この点について、興奮した空想や伝説の形成がどれほどなされるようになったのかは、未解決の問題のままである。
アントン・ヴェーベルンはよろめきながら家の中に戻り、『撃たれた!』と言った。アメリカ兵たちは彼を担架に載せて病院へ運んだ。アントン・ヴェーベルンはその途中で死んだ。
彼はミッタージルの墓地に安息場所を得た。ほかに材料もなかったため、木の十字架が墓場の壁際に建てられた。その墓の写真はドイツで何度か出版されている。
アントン・ヴェーベルンの未亡人ヴィルヘルミーネ、旧姓メルテル(1886年7月2日ニーダーエスターライヒ州ラープス生まれ)は、1911年2月2日にダンツィヒでアントン・ヴェーベルンと結婚し、ミッタージルの、アントン・ヴェーベルンが撃たれたその家にさらに4年間住んだ。当時、彼女は極貧の状態にあった。その頃すでに、アントン・ヴェーベルンについての議論があちこちで活発に行われており、若い世代の作曲家たちは彼の作品から得られる示唆に熱狂的に従っていた。だというのに、貧困のうちに晩年を過ごすという悲劇が、一人の重要な作曲家の未亡人の身に、この現代において繰り返されたことを知るのは、つらいものがある。その責任は、もちろん戦後の混乱にある。関係者全員にとって、ミッタージルはほとんど手の届かない距離にあった。ヴェーベルンの晩年の生活環境については何も知られていない。
ヴェーベルン夫人は、1949年12月29日午後5時、脳出血のために亡くなった。彼女は夫の墓に埋葬された。ハルビッヒ博士と結婚したアントン・ヴェーベルンの娘マリアは、1955年、繰り返し写真で伝えられたヴェーベルンの墓の十字架を、両者の死を悼む鋳鉄製の墓碑に取り替えさせた。
かつての木の十字架はもう存在しない。
ヴェーベルンの墓は、現在、状態が悪い。石の縁は沈んでしまっている。鋳鉄製の墓標は前に傾いている。しかし、枯れたベルフラワーの花輪が、この墓が訪問されたことを示している。ミッタージル近くに住んでいるハルビッヒ博士の夫人は、すでに改修整備の指示を出している。アントン・ヴェーベルンが山の植物を愛していたことは、特に考慮されるべきだろう。現在蓄積されているヴェーベルンの印税がその目的のために使われることになる。そのため、今のところほかのルートから墓の手入れを求める理由はない。
ミッタージルの司祭館も市長執務室も、自分たちの教会墓地に世界的に有名な人物が埋葬されているとは、以前は思いも寄らなかった。しかしながら、両事務所とも、より詳細な状況の解明に向けて懸命に取り組んでいる」
ヴェーベルンの死をめぐる状況を説明しようとするこの二つの重要な試みのほか、さまざまな雑誌、書籍、百科事典にも小さな言及がたくさん見いだせる。それらの解説は、ごくわずかにしか触れていないものから、銃撃の現場に居合わせたような克明な状況報告にまで及んでいる。それらの報告の中には、あまりにも事実をありのままに述べるようなやり方で書かれているため、その詳細が十分に確立された事実であるような印象を与えるものもある。
ハンフリー・サールは、『マンスリー・ミュージカル・レコード』1946年12月に掲載された「ヴェーベルンの最後の諸作」という記事の中で、以下のように書いている。おそらく、この悲劇に触れた最初の英語の公開文献である。「1945年9月15日、ザルツブルクに近いピンツガウのミッタージルで、連合軍兵士が放った流れ弾が、アントン・ヴェーベルンの人生に悲劇的で早すぎる終わりをもたらした」
『Oesterreichische Musikzeitschrift[オーストリア音楽雑誌]』1958年11号は、作曲家生誕75周年を記念して「アントン・フォン・ヴェーベルン」という記事を掲載した。筆者はフリードリヒ・ヴィルトガンスで、『Die Reihe(音列)』のヴェーベルン特集号で「伝記年表」を編集したのと同じ人物である。ヴィルトガンスはヴェーベルンの最期について、わずかな言葉で次のように言及している。「ヴェーベルンが生前、実際は外部からの認知や目に見える成功をあまり経験しなかったとしても、ヴェーベルンがアメリカ占領軍の一兵士による運命的な過ちの不幸な犠牲となった1945年5月(ママ)の悲劇的な死の直後、この状況は変わった……。1945年9月15日、作曲家が家族とともに激しい戦火から逃れてきていたミッタージルでの彼の死は、当時真実が曖昧にされたが、その悲劇的な状況のため、内省的性質と隠遁に支配されていた彼の人生像には似つかわしいものではなかった」
デイヴィッド・ユーエンの『20世紀音楽全書』(1959年新訂版)(5)の中で、彼は書いている。「……ヴェーベルンは、Anschluss[オーストリア併合]と第二次大戦の間じゅう、ヴィーンに留まっていた。1945年9月15日夜──オーストリアのミッタージルに住む娘の家を訪問していた間──、彼はタバコを吸うために散歩に出た。あるアメリカ人将校が、彼に立ち止まるよう命じた。その命令を誤解して、ヴェーベルンは彼に近づいた。彼は即座に射殺された」
原注5:プレンティス=ホール刊。
ヨーゼフ・ポルナウアーが編集した出版物『アントン・ヴェーベルン:ヒルデガルト・ヨーネとヨーゼフ・フンプリックへの手紙』(6)の「注釈」セクション参照番号128にはこう書いてある。「1945年の洗足木曜日、ヴィーン近郊に激しい戦闘が迫っていたとき、W(ヴェーベルン)と彼の妻もまたミッタージルに逃れた。最初は骨の折れる行程を徒歩で、次に列車で。唯一の息子を失って心の底まで揺さぶられたため、その恐怖の日々の間は家族と一緒にいたいと思ったのだ。9月15日、Wは無慈悲で無意味な誤解から、酔っ払った占領軍の兵士に射殺された。彼は、好きだった山と氷河に囲まれた村の墓地に眠っている。そうしているうちに、『アウホルツ』の家は略奪され、荒廃した」
原注6:ウニヴェルザール出版社。
『Variationen über neue Musik[新音楽の変動]』(7)というドイツ語書籍の著者ヴィンフリート・ツィリヒは、ヴェーベルンの死について語るとき、事実の詳細よりも運命の方により強い関心を持っている。「1933年以降、彼は作曲の個人レッスンから完全に遠ざかって生活していた。1945年、迫り来る戦火から安全を確保するため、ヴィーンを離れた。そして、ここピンツガウの平和なミッタージルで、1945年9月15日の夜間、人もあろうにほかならぬ彼が、彼と彼の作品が第三帝国の禁止から解放されたまさにそのとき、悲劇的な誤解によって一人の占領軍アメリカ人兵士の銃弾の犠牲となったことは、歴史のグロテスクな過ちの一つである」
原注7:ニンフェンブルガー出版書店刊。
ルネ・レボヴィッツ†は、『地平、文学と芸術の批評』(1947年5月)に掲載された「アントン・ヴェーベルンの悲劇的芸術」という論説の中で、悲劇を「循環論法」と呼ぶ美学的分析を試みている。筆者は、「運動と不動の間の平衡を暗示する」悲劇の根本的な曖昧さについて述べている。「……悲劇は、非論理的ではないどころか、その逆である。非論理的というか、その前提において恣意的で、それは致命的結果となる論理に従って展開するのである。不慮の死は、悲劇のもう一つの主要な側面であり、それぞれの原因が結果を引き起こすという形式的な方法ではなく、可能性のあるすべての出来事を支配する、完全で、あらかじめ定められた法則としてのものである……」。レボヴィッツが次のように書いている記事の終わり以外には、伝記的な記載はない。
†訳注「ルネ・レボヴィッツ」──表記揺れ:ルネ・レイボヴィッツ、ルネ・レーボヴィッツ、ルネ・ライボヴィッツ、ルネ・レボヴィツ。以下同じ。
「もう一度、悲劇との類似を使ってみよう。ヴェーベルンの人生自体は、完全な不動と、最も優れた活動、すなわち運動とが融合したものだった。彼は自分の国、自分の故郷からほとんど出ることがなかった。あれほど謙虚で純粋で、外界の動揺にはあまり関心がないけれども、同時に自分の音楽への取り組みや他人の作品の擁護は決してやめなかった芸術家はいないだろうし、真実と完璧さに向かって努力することにあれほど熱狂的だった芸術家もいないだろう。晩年の文学への没頭が、彼をしてヘルダーリンやギリシャ悲劇へと向かわせた(これは単なる偶然だろうか?)。読んでいたソフォクレスの《オイディプス》ヘルダーリン翻訳版を引用して、彼は友人にこう書いた。『Leben heisst eine Form verteidigen[生きることは、形を守ることだ]』。これは彼が生涯実行してきたことであり、それ以外のことはしなかったのだが、そうすることによって誰よりも多くのことを成し遂げたのであった。
●  ●  ●
1945年9月15日、何千マイルも離れた場所からやって来た、アントン・ヴェーベルンのことを聞いたこともなかった一兵士が、彼を撃ち殺した」
最後の文の意図的な強調は、目立つものではないにせよ、悲劇との、その終局の類似性という趣旨をはっきりと打ち出している。突然の暴力によって打ち砕かれる、平和で穏やかな人生。
この問題の事実的側面を完全に避ける傾向、あるいは少なくともそれに立ち入らないようにする傾向もあった。沈黙を主張し、それを「自然の摂理」として正当化する人々もいた。確かに、それはヴェーベルン自身の人生の論理に支えられていた。隠遁というその態度は、ルネ・レボヴィッツの著書『シェーンベルクとその楽派』(8)の「アントン・ヴェーベルン賛」という章の、彼の次のような指摘で述べられている。「アントン・ヴェーベルンの死は、1945年9月に悲劇的な状況のもとで発生したが、音楽を愛する大衆によっても、音楽出版物によっても、哀悼されないままであるようだ。これは驚くことではない。というのも、彼の人生そのもの──静かで、控えめで、引っ込みがちな──が人目につくことなく過ぎていったからである。それは目立った出来事がないことで特徴づけられる──本研究に伝記的な詳細がないのはそのためである。それゆえ、ヴェーベルンの音楽を取り巻く沈黙、その音楽の一部でもある沈黙は、自然の摂理に属するものなのである……」
原注8:『シェーンベルクとその楽派 音楽言語の現代的段階』ディカ・ニューリンによるフランス語からの英訳、フィロソフィカル・ライブラリー刊。
音楽百科事典に見えるコメントのうち、ニコラス・スロニムスキー改訂による『ベイカー音楽家人名辞典』第5版は、死亡日付にすぐに続けて、ヴェーベルンは「アメリカ憲兵に誤って殺された」という文で始めている。本文ではさらにもう少し詳しく書かれている。「第二次大戦中、彼はヴィーンに留まった。1945年2月に列車への空爆で息子が死亡した後、ヴェーベルンと妻はヴィーンから逃れ、ザルツブルク近郊のミッタージルで既婚の娘と生活を共にした。彼は、アメリカ占領軍によって定められた外出禁止令を知らずに、夜、家の外に出たとき、アメリカ憲兵の一人に致命傷を負わされた……」
『グローヴ音楽と音楽家事典』エリック・ブロムによる第5版は、ハンフリー・サールによるヴェーベルンについての記事を含んでいる。銃撃自体の詳細はない。「第二次大戦中、ヴェーベルンの境遇はどんどん厳しくなっていった。彼の音楽は『文化的ボリシェヴィズム』としてドイツおよびドイツ占領下のすべての国で禁止され、彼は教授活動を禁じられた。それで、彼がバッハからシェーンベルクまでの音楽原理を解説する講義は、秘密裏にしか行うことができなかった。一時は、彼はヴィーンの出版社に雇われて校正者として働かざるを得なかった。終戦の少し前、彼はザルツブルク近郊の田舎に家族とともに移動し、1945年9月15日、その地で、占領軍の一人によって誤って撃たれた──最も悲劇的で早すぎる死であった……まだ人生の最盛期にあった頃の彼の死は、同時代の音楽にとって取り返しのつかない損失であった」
それぞれの説明が新たな疑問を投げかけ、それぞれの変化形が新たな矛盾の要素を提出した。真実は忘却の淵に沈んでしまったように見えた。そのとき、たくさんの答えられない質問の中で、ただ疑問と混乱ばかりが支配するままになっていた。事故だったのか、外出禁止令違反だったのか誰かが軽率あるいは不注意だったのか、それどころか銃を撃ちたがるタイプだったのかヴェーベルンは誰何されたのか、命令に従い損なったのか犠牲者自身知り得なかった何らかの特別な規制があったのかヴェーベルンが撃たれたとき、彼は自宅にいたのか、それとも自宅という避難所から離れて訪問に出ていたのか彼はドアのそばに立っていただけだったのか、それとも街頭をぶらぶら歩いていたのか引き金を引いた男は、何か特殊任務を遂行中の計画された部隊の一員だったのか、それとも巡回に出ていた憲兵の一人だったのかほかにも多くの問われるべき疑問があるだろうが、そのすべての中で最も重要なものはこれである。「アントン・ヴェーベルンが殺されたのはなぜなのか?」
エゴンとヘルタ・コルナウト夫妻が住む家のドアをノックしたのは、真夜中をとうに過ぎてからだった。彼らは私たちを寝ずに待っていてくれたが、不安を隠さなかった。外では雨が降り出し、どんよりした空は溶けて突然の豪雨となった。この豪雨は三日間やむことなく降り続くことになった。1959年8月のあの夜は、あの地方の歴史に残るであろう。人々の記憶にないほどの洪水災害をもたらしたからである。大惨事は、突然の巨大な破壊を伴って広がっていた。
破滅が至る所で差し迫っていた。それは、友情がかき立てる温かさを分かち合うため、私たちがうれしそうに入ったちょうどそのドアの辺りをさまよっていた。それは私たちがその後の三日間のほとんどを、人間の中で最も優しく最も繊細な人であるエゴン・コルナウトとともに過ごしたその部屋の中に、幽霊のようにいつまでも残っていた。1週間後、彼は気力を失い、神経が壊れて倒れ、2か月後にヴィーンで亡くなった。
2章 磁石
"Handschriften Verstorbener sind wie erleuchtete Fenster in der Nacht der Vergangenheit. Wenn irgendwo, tritt uns in ihnen etwas Greif bares vom leiblich-geistigen Wesen ihrer Urheber entgegen. Wir sehen diesen gewissermassen über die Schulter und nehmen Teil an ihren Offenbarungen, ihren Nöten, ihren Freuden. Und beim Vertiefen in ein solches Blatt wird unser Buchwissen vom Lebensablauf eines solchen Menschen und von der ihn umgebenden, ihn oft hart bedrangenden Zeit zum Erlebnis."†
(ヴォルフガング・シュミーダー『300年間の音楽家の手稿』)
「故人の肉筆原稿は、過去の夜の、照明を当てられた窓のようなものだ。我々がその筆者たちの肉体的・精神的な存在を具体的に示すものと直面できる場がどこかにあるとすれば、それはそれら手稿の中である。言ってみれば、我々は彼らの肩越しにその背後を見て、彼らの啓示、悩み、喜びに参加するのである。そして、そのようなページに夢中になっているうちに、特定の人間の人生や、また彼を取り巻き、しばしば重苦しく圧迫した時代についての本書の知識が、生きた経験となるのである」†
†訳注「故人の肉筆原稿は……」──このパラグラフは、直前のシュミーダーによるエピグラフの英訳。
アントン・ヴェーベルン(1937)
アントン・ヴェーベルン(1937)
以前の私のアントン・ヴェーベルンへの関心は、うわべだけの通り一遍のものだった。彼については、音楽家や教師が日常的な情報の中で持つべき程度のことは知っていた。それ以上の関係はほとんどなかった。
より確実な関係は、1958年2月の末に築かれた。アントン・ヴェーベルンの自筆原稿を私が手にしたのはそのときだった。その少し後、私はそれの入手に成功した。それは「一次資料からの音楽史」というアーカイヴに加えられた。これは私のお気に入りのプロジェクトで、現代の価値あるものを蓄えることを目標にしている。もし研究(リサーチ)というものが、用語の伝統的な意味においては、過去に起こったことを再調査(リ・サーチ)することであるならば、我々の時代の重要と思われるものは何であっても確保し、その価値が後世の人々に裁定されるまで系統立てて保存しておくのがよいのではなかろうかその場合のアーカイヴは、静的ではなく動的なものとなる。
そこには、獲物の日常的な追跡や、貴重な肉筆を新たに狩るたびに伴う熱狂的な興奮があった。入手はスムーズで迅速にいくだろうという4か月前の手紙のやりとり。その後の文通相手側の沈黙、完全な沈黙の腹立たしい数週間。私たちはクリスマスの時期にメキシコに行ったが、ヴェーベルンの手稿をめぐる憶測は道中ずっと私につきまとっていた。帰国してもまだ手紙は来ない。私はもう一度手紙を書いたが、相変わらず返事は来ない。2月末頃になって、1通の電報がようやく不安を終わらせた。私の文通相手は町から離れていたのであり、遅れたことを詫びていた。そのわずか数日後に、例の手稿が入った小包が届いた。私は、「ヴェーベルンがどんなふうに事務机に行き、リボンできれいに巻かれた手稿を取り出し、ピアノの前に注意深く広げ、それを弾いたり分析したりした後、同じように注意深くそれを片付けたか」をヴェーベルンの弟子の一人が話してくれたことを思い出しながら、ティッシュペーパーの包装からその貴重なスコアを取り出したときの喜びを今でも覚えている。
このオリジナル手稿をきっかけに、私の、アントン・ヴェーベルンの世界とのより緊密な接触が始まることになった。実際それは、歴史的にも内容的にも珍しい記録であった。1938年はオーストリアのAnschluss[併合]が見られた年である。ドイツ軍がその国に進軍し、国家社会主義政権が成立した。アントン・ヴェーベルンの音楽はたちまち「文化的ボリシェヴィズム」という烙印を押され、ナチス支配下にあるどの国でも演奏が禁止された。
その年の暮れ、アントン・ヴェーベルンは、自らもナチスの迫害の犠牲者であった男にその手稿を渡した。フォリオ版サイズの薄い冊子には、13ページの手書きの楽譜が含まれていた。タイトル・ページには、ヴェーベルンの丁寧な筆跡の、はっきしりた筆記体の数行が表示されている。
Anton Webern
Sechs Lieder
nach
Gedichten von Georg Trakl
für
eine Singstimme, Klarinette, Bass-Klarinette,
Geige u. Violoncello
op. 14
—Klavierauszug—
[アントン・ヴェーベルン 声楽、クラリネット、バス・クラリネット、ヴァイオリン、チェロのための、ゲディヒテン・フォン・ゲオルク・トラークルによる六つの歌曲 作品14 ──ピアノ用スコア──]
タイトル・ページの裏には、五線譜の組織を斜めに横切って、個人的な献呈の辞が書かれていた。その献辞はこう読める。
Seinem lieben Direktor
Hugo Winter
in herzlichster
     Freundschaft
Anton Webern
     Nov. 1938
[親愛なる取締役フーゴー・ヴィンターに、心からの友情をこめて アントン・ヴェーベルン 1938年11月]
取締役フーゴー・ヴィンターとは誰かその息子リヒャルト・ヴィンターは繊維業界のビジネスマンで、そのことについての情報を私に提供してくれた。「父はウニヴェルザール出版社の総支配人でした。彼は25年以上(28年か29年だったと思います)、その出版社と関係がありました。1938年のAnschluss[オーストリア併合]以後はナチスが支配しましたが、父は1939年の初めまで辞めることを許されず、そのまま働かされました。1939年、父はニューヨークに行きました。到着して間もなく、アソシエイテッド・ミュージック出版社に入社しました。1952年1月に起こった死の直前まで、その組織の副社長として精力的に仕事を続けました」
その音楽手稿自体は、ヴェーベルンのすべてのスコアに特徴的な、綿密で生き生きした記譜法で書かれている。この冊子は、トラークル歌曲集全6曲を含んでいる。各曲の最後には日付が記され、1917年から1921年までの数年にわたっている。
《トラークル歌曲集》作品14、声とピアノ版。手稿の最初のページ
《トラークル歌曲集》作品14、声とピアノ版。手稿の最初のページ
私はアントン・ヴェーベルンの全出版作品のカタログを調べてみた。すべてヴィーンのウニヴェルザール出版社から出版されている。作品14は、声楽、クラリネット、バス・クラリネット、ヴァイオリン、チェロの合奏版が掲載されているだけだった。声楽とピアノ用編曲の存在を示す指摘はなかった。『Die Reihe[音列]』ヴェーベルン特集号に記載されている「作品目録」にも同じく、この作品の別編曲についての記述は欠けていた。『アントン・ヴェーベルン音楽全集』はすでに録音されており、4枚のLP盤から成るセットが発売流通していた。音楽監督のロバート・クラフトは、ヴェーベルンの全oeuvre[作品]を一般大衆が鑑賞できるようにするという先駆的な事業の推進者であった。しかし、このアルバムには、作品14をヴェーベルン自身が声とピアノで演奏できるように編曲したものはなかった。このセット付属のプログラム冊子にも、二重奏編曲に関する手がかりは含まれていなかった。
ロバート・クラフトがその特別な版を知っていたなら、収録したか、あるいは少なくとも言及していただろうということは、すぐに明らかになった。私が彼にその存在を伝えると、彼はこの組み合わせの録音が、いずれは『アントン・ヴェーベルン音楽全集』の構成要素となるべきだ、ということを暗に含んだ意見をすぐに表明した。ヴェーベルンの音楽には新しい音色という要素があって、それは特に欠かせない構成成分なのである。Klangfarbe[音色]の顕著な相違、しかも作曲家が自分で考案したそれは、《トラークル歌曲集》に興味深い対比をもたらすはずである。美学的な側面のほか、実用的なそれもあった。新しく見いだされた声とピアノのためのスコアは、研究と演奏のための道具を大いに簡素化するだろう。独唱者の朗唱の周囲にポリフォニックな網を紡ぐのに、四人の器楽奏者の代わりに一人しか必要とされないのだから。
文献に何の手がかりもないことが、それだけますますその問題の興味をかき立てた。私はリヒャルト・ヴィンターに、彼の父親のファイルの中にこの手稿に触れているような文書があるかどうかを尋ねた。自筆原稿の写真コピーが出回っていないかどうかも訊いた。ヴィンター氏はこう返答してきた。「申し訳ありませんが、父の書簡の中に、ヴェーベルンの手稿に関する手紙は、今のところ見つかっていません。私の知る限りでは、手稿の写真コピーは作られていません。ただし、何年も前、私がそれについて知らなかった頃に写真コピーが作られていたかもしれないので、これについては確信が持てません」
前述の情報に対し、リヒャルト・ヴィンターは後の手紙でこう付け加えた。「前回お手紙を差し上げて以来、アントン・ヴェーベルンに何らかの関係がありそうな手紙をもう一度、徹底的に探す機会がありました。残念ながら、何も見つからなかったことをご報告申し上げなければなりません」
その後、ウニヴェルザール出版社の取締役に手紙を書き、アントン・ヴェーベルンによるこのスコアは彼らも知らないことを確認した。幸運のめぐり合わせで、私はヴェーベルンの音楽に絶大な関心を持つ人々の目から逃れてきた手稿に遭遇した、という事実が明らかになった。私自身の最初の情報は、書誌ツール、ヨーロッパの作曲家たちによって書かれ、アメリカの図書館に所蔵されている自筆原稿についての公表された調査から得られたものだった。
必然的に、そのとき私はアントン・ヴェーベルンの世界とさらに密接に繋がった。同じ1958年の暮れ、まさにのめり込みつつあった私は別の刺激を受けた。ヴェーベルンのペンから直接出てきたものを、またしても手にすることができたのだ。今回は、ウニヴェルザール出版社の有名な取締役エミール・ヘルツカの妻、ヘルツカ夫人に宛てた3通の手紙が、心配事や感謝の気持ち、友人への献身的愛情、花への愛など、作曲家の個人的な深い関心事を親密に垣間見ることを叶えてくれることになった。これらの私的な記録文書は、私をその人にいっそう近づけてくれた。
ヴェーベルンの手紙は、実際にはもっとずっと大きな獲得物のほんの一部を形成するものだった。それはすべて、元ヴィーン人でニューヨークに住んでいる美術商からのものだった。グスタフ・マーラーによる2ダースの手紙もあって、それらはすべて彼の晩年に書かれたものである。これらの文書は、偉大な芸術家の気性を具現化している。それらは途方もない情熱の運搬具のようなもので、絶え間ない苦悩と苦労の証である。手紙には、《大地の歌》となる歌の題の概要が含まれていた。《大地の歌》は、この作品のあらゆる解説書に書かれているように、一般にトーブラッハの牧歌的な田舎で作曲されたと考えられている。ところが、この初期の文学的草稿(9)は、ニューヨーク市のマンハッタン島のやかましい中心地、当時彼が不安な日々を過ごす住まいとなっていたホテル・サヴォイの一室で書き留められたのである。
原注9:題名の言い回しに一箇所のずれを含んでいる。
マーラーの神経質で、気迫や書法においてプロメテウスを思わせるような†筆致と、ヴェーベルンのたいへん繊細でバランスを失わず、とても静かでどこまでも控えめな筆致とは、何と対照的なことだろうマーラーとヴェーベルン。彼らの真の個性は究極的にはその音楽を通して語られるにしても、彼らの手紙の外観も同じように正確な肖像を提供することができるのだ。
†訳注「プロメテウスを思わせるような」──原文「promethean」。大胆で独創的な、くらいの意味か。
1958年12月初旬、私たちの家にドイツからの客人が来た。カールハインツ・シュトックハウゼンがアメリカで講演旅行をしており、彼の妻のドリスとともに三日間、我が家に滞在したのである。カールハインツが卒業式演説を行ったワシントン州立大学から私たち全員が戻ったちょうどそのとき、マーラーとヴェーベルンの手紙が届いた。私たちはディナーの後でその速達小包を開いた。
ヴェーベルンの手紙を、カールハインツが最初に読んだ。ヨーロッパの地から何千マイルも離れたここアメリカ北西部の奥地で、ヴェーベルン楽派の最も熱心な門弟の一人が、彼が師と認める人の手になる3通の未知の手紙にたまたま出くわすことになったのは、実に不思議な偶然のように思われた。彼は持ち前の熱意と真剣さで手紙の内容を一通一通吸収し、私に渡した。それはまるで、過去の奥まった暗闇に窓から光が差し込んだかのようで、過ぎ去った日々の喜びや悲しみを垣間見ることができたかのようであった。
最初の手紙の内容は単なる社会的メッセージであった。その論調と内容は型どおりの平凡なものであった。(10)
原注10:次の3通の手紙の翻訳はH.M.による。
24.XI.33
敬愛するマダムへ
残念ながら、日曜日のご招待にお応えすることはまったく不可能です。私が仕事で拘束されているのに加えて、私も妻もインフルエンザの症状にひどく悩まされているため、このような状態で集団の中に入るのは責任が取れそうにないのです。
そういう次第ですので、どうかご容赦いただきますようお願い申し上げます。また別の機会に私たちのことを思い出していただければと思います。
私と妻より、今後ともよろしくお願いいたします。敬具
あなたの忠実な
アントン・ヴェーベルン
最初の手紙は、形式的な義務の遂行を表すものでしかなかったとしても、次の書簡で明らかにされるような、重大な死活問題の話し合いのためのアウフタクトのように思われた。
5.V.34
アントン・ヴェーベルン博士
マリア・エンツァースドルフ
ヴィーン近郊
アウホルツ8
敬愛する取締役夫人へ
私の状況についてあなたと話し合うことを可能にしてくださったことに、重ねてお礼申し上げます。私はここで私たちの会話の一点に戻らせていただきたいのです。それは、記憶している限りでは私は特に強調しませんでしたが、よく考えてみると直ちに実現できないほど困難なことであるとは思われない点で、またそれは重要な点なのです。
それは、この夏の間、一時的な援助をウニヴェルザール出版社から受け取れないかという問題についてです。その理由は、この時期に少しばかり不安があるからです。長女の重く長引いている腎臓疾病(おそらくお聞き及びかと存じます)の結果、病気になった場合のために、また特にほとんど収入のない夏のシーズンのために、できるだけ積み立てようと努めたわずかな貯えを、ほとんど使い果たさざるを得なくなったのです。このような次第ですので、私の不安はご理解いただけるかと存じます。そんな中、この約4年間、私はUEから1グロッシェンも受け取っても援助を求めてもいないのですから、もし私が久しぶりにそのような懇願をもう一度出版社に持ちかけ、その結果、一度限りの支給金約500シリング(11)を今夏私が自由に使えるようにしてほしいとお願いしたとしても、それほど無遠慮なこととは思えません。
原注11:20USドル。
そうしていただければ私はすでにずいぶん助けられるでしょうから、親愛なる取締役夫人におかれましては、どうかそのように取り計らっていただけますよう心よりお願い申し上げます。まことに勝手ながら木曜日の午後にお電話させていただきたく思います(この日は私自身が電話を受けることもできます。通常毎週木曜日と月曜日、番号はB22-8-25†で、午後3時から6時までです)。この問題を私の側からはどう進めるべきか、ご助言をいただくためです。
昨晩の心からの感謝と、私と妻から愛情のこもった挨拶を、重ねて申し上げます。
あなたの常に忠実で献身的な
アントン・ヴェーベルン
もし永続的な補助金が可能であれば、7月にはもう始めていただけますと、もちろん私としては歓迎いたします。
†訳注「B22-8-25」──昔は電話番号の一部をアルファベットに置き換えて覚えやすくしていた。国によって文字の割り当ては異なる。ドイツ語圏では「B」は普通に「2」。
ヴェーベルンが書いている長女の名前はアマーリエである。彼女は後にヴァラー夫人となり、ミッタージルでの父の最後の日々を共にすることになった。彼女がいつかこの物語に重要な証言で寄与してくれることになるとは、そのときの私はほとんど気づかなかった。
アントン・ヴェーベルンによってなされた緊急の金銭的援助の嘆願は、その謙虚な必死さにひどく悲痛なものを感じさせるが、最後の手紙が伝えることになるように、すぐに実行されたようである。心配の雲が追い払われたことで、自信と感謝の喜びの瞬時の高まりや、他人と分かち合い利益を得ようとする気高い衝動や、開花してきたわずかな花への子供のような驚きと喜びが、どれほど迸っていることだろうヴェーベルンの弟子の一人が、かつて彼を「すべての植物と、成長するあらゆるものを熱狂的に愛する人」と呼んでいたことの、書かれた証拠がここにはあった。
3通の手紙の3通目、最後のものは、次のような本文を持っていた。
エミール・ヘルツカ夫人への手紙、1934年7年12日付
エミール・ヘルツカ夫人への手紙、1934年7年12日付
12.VII.34
アントン・ヴェーベルン博士
マリア・エンツァースドルフ
ヴィーン近郊
アウホルツ8
敬愛する取締役夫人へ
かくて私たちがUEに関連して立てた計画は、かなり見事に実現しました。
あなたの貴重なご助力への大いなる感謝をお受け取りください。
たった今、契約書を受領しました。私は古典的な作品を編集し、それのためにまず500シリングを、後から5%の印税を領収するでしょう。
そのうえ──これは私に特別な喜びを与えてくれるものなのですが──、UEが私の最新作を秋までに出版することになります。それはピアノ付き歌曲です(ヒルデガルト・ヨーネの詩による)。
お話ししたように、その早い出版は私にとって非常に大きな意味を持つのです。
ところで、私はあなたに、その詩をすぐに知っていただきたいと願っています!
あなたがご親切にも私たちの所に持ってきてくださった植物は、素晴らしく生い茂っています。ヒャクニチソウはすでに咲き始め、明るい赤のかわいい花──一体何という名前なのでしょうか?──は驚くほど生きがよく、スミレやサクラソウもそうなのです!
私たちはそれらのために本当に良い場所を選んだと信じています。重ねて深くお礼申し上げます。
私たちはこれらの植物を大いに楽しみ、特別な世話を忠実にしています──親愛なる寄贈者様のことを思い出しながら。
あなたがすでに、ご親切にもバッハ博士の問題に率先して取り組んでくださっていることを聞きました。あなたの努力が実ることを私がどんなに願っていることか、またあなたがその見通しをご自身でどのように評価してるかを、私がどんなに喜んで知りたいと思っていることかバッハ博士もあなたに知らせていると思いますが、私たちはシェーンベルクの60歳の誕生日に記念出版物を発行したいと思っています。
ところが、必要な金額──せいぜい1000シリング程度──が、まだ確保できているとは言えません。
ヴィンター取締役は、UEを代表して200シリングを約束してくれました。その資金源からのそれ以上の金額は不可能でしょうか親愛なる寛大なマダム、私たちをお助けくださいその仕事が成功すれば、どんなに素晴らしいことでしょう。もちろん、シェーンベルクもとても喜ぶでしょうこの計画が難破の憂き目を見なければならないとしたら、私たちはそれはもうつらい思いをすることでしょう。貴女は誰からなら追加の資金を得られるとお考えですか?
どうか私たちにご提案くださり、またエルヴィン・シュタインに指示していただけませんでしょうか?
重ねて、ミス・ホーファーを含む私と私の家族からの、多大なる感謝と心よりの敬意とをお受け取りください!
あなたのとても献身的な
アントン・ヴェーベルン
オリジナルの音楽原稿にこれら3通の直筆の手紙を加えたことで、そのとき、私とアントン・ヴェーベルンを繋ぐ強い有形の絆ができた。私は、その未出版の資料を出版すべきだと決心した。その目的の準備のための通信が行われた。私は、ヴェーベルンについて出版されたものをすべて読もうと努めた。レコード録音から再生される彼の音楽が家じゅうを満たし、最初は耳慣れない音で私たちを取り囲んだが、少しずつゆっくりと、それは吸収されていった。
翌年、私たちはヨーロッパに行った。1959年7月1日、客船スタテンダムはロッテルダムに入港した。それから3時間もしないうちに、ハンス・ロスバウトと接触できた。
この偉大な音楽家は、世界のオーケストラ指揮者の中で最も尊敬されている人の一人であり、ヨーロッパの現代音楽擁護の第一人者であって、長年の私の師であった。ロスバウトがキャリアをスタートさせたのは、私の生まれ故郷マインツであった。まだかなり若かった彼は、市立音楽院の院長に任命され、私は彼を個人的な教師とする特権を与えられた。当時、私自身はまだ十代の少年で、1921年から彼に師事し、1926年、彼がフランクフルト放送局音楽部門の責任者に任命され町を去るまで続いた。その後何年もほとんど接触はなかったのだが、第二次大戦が終わるとすぐに交流が再開された。ハンス・ロスバウトが終戦後の最初の厳しい冬の間に書いた手紙を、私はまだ持っている。そのとき彼はミュンヘン・フィルハーモニックの指揮者だった。彼の交響的人生の立て直しは、カール・アマデウス・ハルトマンの「ムジカ・ヴィヴァ」運動と相まって、瓦礫の中で音楽に再出発をもたらし、絶望に沈んでいた無数の人々に希望と美の光を与えたのである。喜ばしいrevoir[再会]は1953年に起こった。ロスバウトが町の素晴らしい音楽祭の立ち上げに尽力したエクス=アン=プロヴァンスで、それは発生したのである。
今回、ハンス・ロスバウトはアムステルダムにいて、オランダ音楽祭の枠組みの中で行われるいくつかの公演のため、コンセルトヘボウ管弦楽団のリハーサル中だった。報道機関本社から彼に電話をかけると、彼を知る人なら誰もが経験しているような、変わらぬ温かさと自然な愛情で私に応じてくれた。そのとき彼は、翌日の朝に予定されている最終リハーサルに来ないかと私たちを誘った。私はどんな作品がプログラムされているのかと尋ねた。彼が答えた。「ハイドンの交響曲第102番、それに続いてヴェーベルンの六つの管弦楽小品作品6。ヴェーベルンの作品はオランダ初演になる。コンサート中、それは続けて2回演奏されることになっている。聴衆が新しい音楽と親しくなる機会が得られるようにね。休憩の後は、ロベール・カサドシュが、ヨハネス・ブラームスの第2ピアノ協奏曲でソリストを務める予定だよ」
このとき私は、知性によって編成されたコンサート曲目だとすぐに思った。前半では、ハイドンとヴェーベルンという、その音楽語法がどれほど遠く離れたところにあろうと、どちらも簡潔で規則を重んじる二つの気質を組み合わせていた。その後は、ブラームスの協奏曲のロマンティックな豊穣さと重厚な構造によって、完全なコントラストが達成されていた。私は若い頃からハンス・ロスバウトのハイドン解釈を知っており、その同じ作曲家に対するヴェーベルンの取り組みについて聞いていた内容は、私にとって単なる類似でしかないように思われた。「ヴェーベルンがハイドンの交響曲を指揮したとき、彼は人がそれを初めて理解したと感じるような方法で音を出した」。(12)その記述に、ロバート・クラフトはこう付け加えていた。「ヴェーベルンは極めて繊細で、熱狂的に要求するけれども、忍耐強い指揮者であったように思われる。……作曲家ヴェーベルンから指揮者ヴェーベルンを再構築することは可能である……」。私は、ハンス・ロスバウト自身の性分にもこれとすっかり同じような資質が見られることを知っていたので、大いに期待する理由があった。特に、このプログラムにおいては、ハイドンの交響曲で具体化されるような古典的な伝統が、まだ実験的なもの、アントン・ヴェーベルンという人物による抽象化の斬新な研究と極めて近い位置に入ってくることからも、期待は膨らんだのである。
原注12:ロバート・クラフトは『ザ・スコア』において、エルンスト・クレネクの経験を伝えている。
翌朝早く、私たちはコンセルトヘボウの誰もいない聴衆席に案内された。ハンス・ロスバウトは指揮台の上にいた。彼はヴェーベルンの簡潔で魅惑的な作品をリハーサルしていた。彼の手にかかると、練習は厳格な儀式のように思われた。接する聴衆がいないにもかかわらず、ものすごい緊張感が感じられた。ロスバウトのオーケストラの稽古は、学者の探求と同じくらい根気強く、彼の意図と展望により過度に詰め込まれたものになっていた。あらゆる交響的文学の中で、ヴェーベルンの短いエッセイは、構造上の禁欲主義の典型となっている。いちばん本質的なものを抽出し、それ以上のことは言わないという作曲家の情熱によって、それらの小品は、おそらく音楽が伝え得る表現力の全範囲を網羅する。ダイナミックな力の抑制と解放を伴うロスバウトの優れた音の投射により、第4曲は超越的に響いた。最初は静的、次は完全に動的で、それは世界の始まりと終わりのようだった。
これはコンサート前の最後のリハーサルだった。アムステルダムとスヘフェニンゲンでの公演では、オランダの聴衆がその新音楽を温かく迎えていた。ヴェーベルンは最も保守的な伝統主義の拠点を、また一つ獲得したのであった。
ヴェーベルンの《六つの管弦楽小品》作品6オランダ初演のために、コンセルトヘボウ管弦楽団をリハーサルするハンス・ロスバウト
ヴェーベルンの《六つの管弦楽小品》作品6オランダ初演のためにコンセルトヘボウ管弦楽団をリハーサルするハンス・ロスバウト
続く数日間の幸福な時間のあるとき、スヘフェニンゲンのKurhaus[療養施設]の人目につかない片隅に、私たちはロスバウトと彼の妻と私たちだけで座った。私は《トラークル歌曲集》のスコアの写真コピーを持ってきていたが、ロスバウトは見るからに興奮していた。絶え間なく変わっていく顔の表情は精神と人間性を映す鏡のようで、そこには思考と気分の流動的な相互作用が絶えず映し出されていた。私は、アントン・ヴェーベルンの顔はこうであったに違いないと想像した。
ほぼ必然的に、会話はヴェーベルンの死へと及んだ。ロスバウトはその残酷な最期を思い出しただけで苦痛を感じ、深く心を動かされたように見えた。後に、私は真実を追求していることを手紙に書き、銃撃事件のより綿密な状況についてどれくらい詳細を聞いているかと尋ねてみた。彼の回答はこうだった。(13)
原注13:本章で引用したロスバウト、ズーターマイスター、トッホ、ハルトマンのドイツ語の手紙の翻訳はH.M.による。
「ヴェーベルンに関するあなたのお便りは、私を本当に興奮させました。私の耳に入っているのは、当時ヴェーベルンがオーストリア・アルプスのどこかに滞在していたこと、アメリカ占領軍によってある時刻以降の外出禁止令が出されていたこと、そして、その時間中に、ヴェーベルンが事件のあった家の外に通じるドアを開け、自分でタバコに火をつけたということだけです。家の中は明るかったので、ヴェーベルンの影は遠くからでもはっきりと認識できました。おそらくこのことが、アメリカ兵がヴェーベルンに発砲し、それにより彼を殺害するという事態を誘発したのでしょう。
ほかの説は聞いたことがありません。しかし、義理の親族とは何かしらうまくいっていなかったようです。義理の息子の方がナチスに強い共感を抱いていたという話はよく聞いています†。とはいえ、私はそれを噂でしか聞いていないので、そのすべてを実証することはできません」
†訳注「義理の息子の方がナチスに……」──義理の息子ベンノ・マッテルだけでなく、ヴェーベルン本人および息子のペーター、マッテルと結婚した三女のクリスティーネらがナチスに共感を抱いていたことは事実である。アメリカに逃れていたシェーンベルクがその噂を聞き、本当なのかどうかを問い質す手紙をヴェーベルンに書いている。この問題については岡部真一郎氏の『ヴェーベルン』(春秋社)やWikipedia英語版の「Anton Webern」(2021年9月現在)参照。ヴェーベルンはナチスによって干されていたはずなのだが、それでもナチス嫌いにならなかったというのも、ずいぶんお人好しな話である。
こうして、最初の報告書から最後のそれまで、多かれ少なかれ明確な説明が繰り返されていくことになった。それらのそれぞれが、それ自体で事件の姿を変えてしまうのに十分な変更の要素を含む。それはさまざまな変奏を伴う悲劇的テーマであった。私たちは、オランダでもイタリアでも、フランスでもドイツでも、ヴェーベルンの故国であるオーストリアでも、それが語られるのを聞いた。リフレインの中には鋭く苦い響きを持つものもあり、またもっと控えめに声を出すものもあったが、すべてが矛盾を持ち、未解決であった。信用するための確固たる支えはなかった。その代わり、風説の迷路が成長中の伝説から生じていた。すべての核心は依然として謎のままだった。
口づてで聞いたことを一つ一つ話しても無駄だろう。その多くは、かなりの頻度で、あからさまな偏見に潤色された、根も葉もない噂話のように思われた。しかし、知っていることを教えてほしいと頼んだ友人たちからの手紙を通じて知ったことは、書いておこうと思う。彼らは全員、音楽業界での地位が常に彼らに十分な情報を提供してくれる、優秀で信頼できる人々であった。
ハインリヒ・ズーターマイスター
ヴォー=シュル=モルジュ、スイス
「ヴェーベルンについてお尋ねでしたね。私が聞いたのは、彼が知人を訪ねた後、家に帰ろうとしたこと、外出禁止令が出ていたので、アメリカの歩哨にその家のドアの所で撃たれたことだけです。これは事実に基づいているのでしょうか?」
エルンスト・トッホ
サンタ・モニカ、カリフォルニア州、U.S.A.
「ヴェーベルンの死については、ある晩、彼が田舎の家のドアの前に歩み出たとき、スパイを探していてヴェーベルンをそれと間違えた連合国のある捜索巡回兵による、恐ろしい間違いのせいで撃たれたと聞いています。しかし、これはこの言葉のとおりです──relata refero[報告されたものをそのまま報告する]。
彼の音楽の、誰も疑うことができない真正直さは、いくつかの器楽曲ではKlangfarben[音色]面を経由して私に届くのに対し、私がこれまでに理解しようと努めた声楽作品は、私にとってはかなり遠く近づきがたいままでした。個人的に彼に会ったことはありませんが、彼は至って礼儀正しく、完全に普遍的な意味において『極めて敬虔な』人間の一人であったと想像できるので、テキストと、彼によるそれらへの音楽付けとを繋ぐ架け橋を見つけられないのは、おそらく私の欠陥なのでしょう!」
ハンス・ティシュラー
シカゴ、イリノイ州、U.S.A.
「……ヴェーベルン・プロジェクトは、興味深い貢献となるでしょう。残念ながら、その伝説に私が付け加えるべきことはほとんどありません。私は、ある晩ヴェーベルンが、新鮮な空気を吸いに、またタバコに火をつけようと外に出たが、どちらの行為もアメリカ占領軍の命令に背くものだった、彼はあるアメリカ兵に正当に誰何されたけれど、立ち止まらずにそのまま歩き続けたか、怖くなって走ったかして、それでその兵士が彼を射殺した、とまあこのような旨の、三人目、四人目の手になる報告しか聞いたことがないからです。この話を裏付ける証拠はまったくないのですが」
カール・アマデウス・ハルトマン
ミュンヘン、ドイツ
「ヴェーベルンの死については、こちらではひどい暗中模索の状態で、この恐ろしい惨劇が実際はどのように起こったのか、誰も正確には知らないと思います。私は次のような話を聞いています。ヴェーベルンの義理の息子が指名手配されていました。彼はヒトラー親衛隊の一員であったと思われます。ヴェーベルンの家は包囲され、彼がその晩、自分でタバコに火をつけようと外に歩み出たところ、静止するよう命じられました。ヴェーベルンはこの命令に従わず、その後撃たれた、とのことです。それ自身の中で矛盾を孕む話をあまりにも多く耳にするので、ヴェーベルンの死の状況を真実に基づいて公表することはまことに重要なことでありましょう」
ニコラス・スロニムスキー
ボストン、マサチューセッツ州、U.S.A.
「……アントン・ヴェーベルン。彼の死については、確かにたくさんの説があります。数年前、ヴェーベルンが撃たれたミッタージルのOberburgermeister[市長]に手紙を書いたところ、次のような通信が返ってきました。
『お問い合わせの件につきまして、謹んでお知らせします。フォン・ヴェーベルン氏は、1945年9月15日、自分が家を離れることを許されていないことを知らず、家宅捜索中、ミッタージル101番の家のドアの所で、氏の方からは何もしていないのにアメリカ兵に撃たれました。
ミッタージル、1951年9月25日 
市長(署名は判読不能)』
議会図書館のウィリアム・リヒテンワンガーと連絡を取りましたか彼は数か月前に私に手紙を書いてきて、ヴェーベルンの死について何か記録文書があるかと尋ねました。彼がヴェーベルンを撃った兵士の身元を明らかにしようとして、あるいはたぶんこの事態についての軍の見解を入手しようとして、アメリカ陸軍にも手紙を書いたことは確実だと思います。占領を扱っているアメリカ公文書館には、これについての何らかの痕跡があるはずです。
私はアントン・フォン・ヴェーベルンに個人的に会ったことはありませんが、『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙の子供のページに彼の小品の一つを掲載したことに関連して、彼から魅力的でかなり注目すべき手紙をもらいました。その手紙のオリジナルはボストン公立図書館に渡してしまいましたが、それを取り戻してあなたにコピーを送ることは可能です」
マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ
ビヴァリー・ヒリズ、カリフォルニア州、U.S.A.
「……アントン・ヴェーベルンの最期について、『誰がやったのか?』というあなたのプロジェクトは、たいへん興味深く思われます。しかし、良い『探偵』がそうであるように、私はむしろ『彼はなぜそれをやったのか?』を知りたいのです。あれは事故だったのか過失だったのか何となく、私はずっとそのことを疑問に思っていました……」
そのほか、起こったのは単なる事故だったのかどうかを疑う声もあった。1959年、私はある著名なスイス人作曲家と話をした。完全に信頼のおける、重要な重役的地位にある保守的な人であった。彼は、ヴェーベルンの死は「犯罪行為」の恥ずべき結果であり、殺害は「意図的」であったという己の確固たる信念をきっぱりと言い切った。そのほかの極端な見解として、ヴィーンの有名な作曲家の未亡人が「ナチスであったヴェーベルンの義理の息子が彼を撃ったという噂」について手紙を書いてきた。
このように大きく変動する物語の中で、パウル・アマデウス・ピスクから1通の手紙が届いた。現在はテキサス大学の教授で、以前はアーノルト・シェーンベルクの初期の弟子の一人であり、ヴィーン大学で博士号を取得していた。文通の過程で私がアントン・ヴェーベルンについての質問を投げかけると、予想を上回る回答が返ってきた。
「……ヴェーベルンを知っていたかとのお尋ねですが、とてもよく知っていましたよ。彼がヴィーンのSingverein der Sozialdemokratischen Kunststelle[社会民主党芸術局合唱協会]の指揮者だったとき、私は彼のアシスタント・コンダクターだったのです。私は今でも、そこでの彼のプログラムやリハーサル等についての情報を提供することができると思います。その後、私たちはシェーンベルクのVerein für musikalische Privatauffeihrungen[私的演奏協会]で一緒に働きました。私は彼の歌曲の伴奏をいくつか演奏し、彼は私とともに稽古をつけ、1932年にはヴィーン交響楽団と私のカンタータ《カンパネッラ》初演を指揮してくれました。ヴィーンの、ルドルフ・クルツマン博士とリタ・クルツマン博士夫妻の私邸での彼のベートーヴェンの講義に、私は何度も出席しました。K夫人の方は数年前、南米で亡くなりました。ルドルフ・クルツマン博士と最後に会ったのは1949年、私がボストン大学で教鞭を執っていたときでした。当時、彼はマサチューセッツ州ノーフォークの州立刑務所病院の院長でした。そのとき私たちは互いにかなり頻繁に会い、彼はヴェーベルンの死についての国務省の記録文書を見せてくれました。彼は、ヴェーベルンのナチスとの関係についての噂を打ち消すための調査をしていたからです。その噂は当時非常に根強かったもので、特にヴェーベルンの義理の息子との関連においてそうでした。W.についての私の思い出や逸話などは、多くのページを埋めることになりそうです。例えば、1922年、私たちは一緒にデュッセルドルフに旅行し、その地のドイツ音楽祭では彼の《パッサカリア》と私のヴァイオリン・ソナタが演奏されました。私たちは国際現代音楽協会の多くの音楽祭にも参加しました。もしかすると、こういうことについてあなたにお話しする機会がまだあるかもしれません。彼の死についての見解(私が見た記録文書によって裏付けられている)は、外出禁止令中に彼が立ち止まらず逃げようとした(立ち去ろうとした?)ため、アメリカの歩哨(パトロール)に撃たれた、というものです。彼は葉巻を吸うために外に出ていたらしいのです……」
この報告には、注目すべきいくつかの新しい側面があった。そこには、アントン・ヴェーベルン自身のナチスとの関係が噂されていたという要素が含まれていた。ヒトラー政権時代、彼は文化的な理由からpersona ingrata[好ましからざる人物]であったことが一般に知られていたにもかかわらず。最も興味を引かれたのは、クルツマン博士の過去の調査と、ヴェーベルンの死を扱った国務省由来の文書への言及であった。
アントン・ヴェーベルンと個人的に親しかったことから、私はパウル・アマデウス・ピスクに、この実録本の一部にするため、彼の思い出を少し書いてくれる気はないかと尋ねた。友人は熱烈に同意してくれた。続いて、彼のエッセイが1週間後に届いた。それは復活祭の休暇中に書かれたものだった。その本文をここに転載する。
「偉大なる作曲家アントン・v・ヴェーベルンの悲劇的な死の正確な状況を記録文書にまとめることが必要なのは、この事件を謎で包み隠しているいくつかの要因やたくさんの噂が不確かであるためである。この国にいるヴェーベルンのかなり近しい友人たちの一人から聞いた話の一説に言及することに加えて、わずかながら個人的な思い出話をするのも興味を引くかもしれない。
その作曲家と私の最初の接触は、私のヴィーンでの師であるアーノルト・シェーンベルクが、Verein für musikalische Privataufführungen[私的演奏協会]の秘書に私を任命したときであった。その協会は、新しい音楽の演奏を促進するだけでなく、ずさんな準備でそれが演奏されることを避けるために彼が設立したものであった。シェーンベルクはこの協会のために、リハーサルを担当する数人のVortragsmeister[演奏指導者]を任命していた。その一人がヴェーベルンで、彼と接した参加者は皆、彼の音楽的洞察力、正確さ、忍耐力を称賛していた。彼はすべての作品で、作曲家の意図に沿った性格とスタイルで正確に準備することができた。彼の《パッサカリア、作品1》の、2台ピアノと3奏者のための編曲での演奏は、その好例であった。エドヴァルト・シュトイアーマンが第1ピアノを弾いた。第2ピアノは、より副次的なパートを二重奏にして、エルンスト・バッハリッヒ博士と私に任された。この作品の研究は忘れられない経験となり、これからもそのままだろう。1922年、ヴェーベルンはデュッセルドルフに赴き、そこで《パッサカリア》の原曲であるオーケストラ版を指揮した。彼の長い鉄道の旅の間の論評では(私も同じ音楽祭に参加するところだったのだ)、音楽的なことだけでなく、彼が愛してやまなかったアルプスの山々の風景と、その北ドイツの平原との比較もテーマとなった。
少し後、ヴェーベルンとSozialdemokratische Kunststelle[社会民主党芸術局]との関係が始まった。ヴィーンの労働者交響楽団演奏会の創設者で、党の日刊紙の芸術編集者で、生得の教育者でもあり作家でもあったダーフィト・ヨーゼフ・バッハ博士は、ヴェーベルンにその演奏会の多くの指導を委ね、Singverein der Kunststelle[芸術局合唱協会]の指揮者に任命した。作曲家が数年間にわたって保った地位である。20年代のヴィーンの音楽教育に対する彼の貢献は極めて重要なもので、それは演奏方法を変えるほどのものであった。丁寧で十分なリハーサルを経た器楽曲や合唱曲の演奏は、消しがたい印象を残した。出来事を少しだけ述べておくと、ヴェーベルンは、1848年にフランツ・リストが書いた有名とは言えない《Arbeiterchor[労働者の合唱]》を、オーケストラとの共演用に編曲した。1926年には、第200回記念交響楽団演奏会のために、マーラーの第8交響曲の忘れられない演奏を指揮した。シェーンベルクの《グレの歌》やベートーヴェンの第9の演奏も素晴らしかった。
私のヴェーベルンに対する恩は、彼が示してくれた手本だけでなく、彼のアシスタント・コンダクターとしての、また指導者としての私の仕事に個人的な助言をくれたことにもある。彼は、歌手たちの話を聞いたり、彼自身の曲も含む現代歌曲の演奏準備を手伝ったりするのをいつでも快く引き受けていたし、彼との活動の後には常に新しい音楽の視点が自分の前に開かれたものだった。
ヴェーベルンがヴィーンの個人宅でグループのために行った講義に、私が参加したときもそうだった。晩年の彼は、客演指揮者の仕事を除いて公職を埋めることはなく、個人的な教師や講師として生計を立てていた。古典派やロマン派の音楽、特にベートーヴェンやブラームスの彼の分析は、学究的であるだけでなく独創的なものでもあった。彼の熱意と、技術的・精神的な側面への極めて深い理解は、すべての聴き手の音楽的視野を広げた。若手の作曲家や演奏家のみならず、音楽の素人たちもそれらの講座の経験を共有した。1932年のヴェーベルン指揮ヴィーン交響楽団による私のカンタータ《カンパネッラ》(歌詞はヨーゼフ・ルイトポルト)の演奏が、作曲家にとって完全な満足感を得られる稀な機会の一つであったことも付け加えておこう。
私が最後にヴェーベルンと話したのは、1935年12月、アルバン・ベルクの《ルル》の断片がヴィーンで初演された後の会合で、ベルクが亡くなる数日前であった。最後に彼を見たのはベルクの葬式のときだった†。その後すぐに私はヨーロッパを離れ、アメリカに定住した。カリフォルニアでは、彼についての間接的な情報しか届かなかった。その後の1945年の彼の死は、音楽界全体に衝撃を与えた。1948年の夏、私はボストンで、ピアニストのリタ・クルツマンの夫で医師のルドルフ・クルツマンに会った。彼はヴィーンの自宅でヴェーベルンの分析講座を何度か開いていた。クルツマン博士はヴィーン時代の作曲家の個人的な親友で、ヴェーベルンが大病を患っていた間もいろいろと助けてくれた。アメリカ国務省から情報を得たというクルツマン博士によると、ヴェーベルンの死の真相は次のようなものだったという。空襲が行われていたヴィーンから逃れてきたヴェーベルンは、ザルツブルクのミッタージルに住んでいた。そこではアメリカ占領軍が夜間外出禁止令を課していたが、作曲家はそれを理解していなかった。彼は葉巻を吸うために午後10時頃に家を出た。歩哨が停止を命じたとき、ヴェーベルンはおそらく家に戻ろうと駆け出して、その結果射殺された。
†訳注「最後に彼を見たのはベルクの葬式のときだった」──ベルクの葬儀は1935年12月28日にヴィーンで行われたが、ヴェーベルンは26日から1月4日までバルセロナに旅していたため、その場にはいなかったはずである。この旅行は、ベルクの遺作ヴァイオリン協奏曲の、バルセロナでの世界初演を実現させるためであった。
この悲劇的な出来事がどんなに明確化され、さらなる説明が行われたとしても、真に偉大な芸術家の命が戦争の残酷さによって無意味に失われたという事実が変わることはないであろう」
最後の所見は、疑いの余地もなくまったくそのとおりである。正確な状況を明らかにしたところで、取り返しのつかない損失という既成事実を変えることは絶対にできないだろう。しかしながら、そのことは私の捜査の焦点ではなかった。それは、ヴェーベルンの死をめぐる全詳細が、今後歴史の本に正しく記録されるため、かなり長い年月を経てもまだ解明されることが可能なのかどうかという、今までのところ答えが出ていない問題にあった。このままでは明らかに、その詳細は、奇妙な運命についての伝説的な虚構か、さもなくば理由が跡形もなくなった死の神話のままになってしまうに違いなかった。よって、大きな選択肢は、事実か虚構か、真実か無検証の噂か、ということだった。実際には、これがそのとき解決すべき問題であった。たとえアントン・ヴェーベルンによって、彼自身の意思として永続的な沈黙が選ばれたとしても、今はその沈黙違反も、単純な真実の主張によって正当化されることになるだろう。
私たちがミッタージルに行った巡礼の日は、このずっと以前の死について何ができるのかを知るという私の決意が生まれた日であった。私はこの特別な任務に就くことを志願したのであった。遠く離れたチロルの村にある粗末な墓前が刺激となった。今やこの聖戦の目的は、謎が解明されるよう、犠牲者と一緒に埋葬されていた秘密の運命を掘り起こすことであった。
私の目的への一途さの中では、そのときにはもうすべての道はミッタージルに通ずるものとなっていた。
3章 調査
「過去は推進力だ、それはあなたにも、私にも、すべての人にも、正確に同じである、
そして、まだ試みられていないことと今後のことは、あなたや、
私や、すべての人のためのものだ、それは正確に同じである。
まだ試みられていないことと今後のことを、私は知らない、
しかし私は、それが今度は十分に判明し、
失敗はあり得ないことを知っている」
(ウォルト・ホイットマン《私自身の歌》)
真実の系統的調査は1959年9月22日に着手された。その日、同じ内容の2通の手紙がスポーケンの郵便局に出された。1通は国務長官閣下宛、もう1通は国防長官閣下宛で、送付先はワシントンD.C.のそれぞれの事務所であった。
書留窓口で郵便局員に手紙を渡しながら、私はある種の戦慄を感じていた。それは冒険の旅に出発するような感覚だった。
各書簡の内容は以下のとおり。
親愛なる長官殿
この手紙は、スポーケン地方検事局のグリーン氏の提案に基づいて書かれたものです。氏は、私が従うべき適切な手続きについて相談した相手です。
私は、音楽研究者(現在、アメリカ音楽学会北西支部の支部長)として、アントン・ヴェーベルン(1883-1945)の主要作品のうち、以前には知られておらず、まだ出版されていない手稿をこの国で発見しました。このオーストリアの作曲家は、音楽界で最も偉大な天才の一人と見なされており、彼の作品はまったく新しい作曲運動の出発点となっています。
アントン・ヴェーベルンは、1945年9月15日の夜、オーストリアのチロル州にあるミッタージル†で死亡しました。娘と義理の息子を、「アム・マルクト101」にある彼らの家に訪ねている間に撃たれたのです。その夜、ナチ党員だったらしい義理の息子が、アメリカ陸軍の占領軍に尋問あるいは逮捕されました。ヴェーベルンは、玄関に足を踏み入れ、中から出ようとする間に撃たれたと言われています。ドア枠の周囲にはまだ弾痕が見られます。
†訳注「チロル州にあるミッタージル」──原文「Mittersill in the province of Tyrol」。ミッタージルは、上のフリードリヒ・ハーツフェルトやパウル・アマデウス・ピスクの文章にも書かれていたように、チロル州ではなくザルツブルク州に属する。州境にあるので、西進すればチロル州に入る。やや考えにくいのだが、モルデンハウアーは、ミッタージルが属する州をチロル州と勘違いしていたような節がある。
この事件の正確な状況は一般には知られていません。しかしながら、作曲家としてのヴェーベルンの名声が高まっていることから、その伝記的詳細をめぐってたくさんの憶測が生じ、結果として「故意の」殺害を含む非常に多くの噂が流されてしまっています。
私は、アメリカの一国民として、もし正確な出来事が知らされるならば、我が国にとって、とりわけ我が国の国際的な文化関係にとって、紛れもない貢献となると考えるものであります。公式記録は、おそらくヴェーベルンの死は事故であったという事実を明らかにすることでしょう。
その情報は、当時、特定の占領地区でアメリカ軍当局によって記録されていた公式調書に基づいてのみ得られるものです。前述の理由と目的のため、その調書の文言の開示における貴政府部局のご協力を謹んでお願い申し上げます。
同内容の手紙が、本日、国務(国防)長官閣下に提出されています。この要請は、両政府機関にとっての関心事になると思われ、また両機関間の協同が必要になると思われるからです。
以上、ご清覧ありがとうございます。
敬具
ハンス・モルデンハウアー
その手紙には、当時の私の、アメリカ音楽学会北西部支部の支部長職について書かれていたので、同学会の事務総長でワシントン大学の音楽の教授であるデマー・B・アーヴィン博士にコピーを送った方がよいと思った。デマーと私とは、何年も前から親友となっていた。
9月28日、デマー・アーヴィンは、私の戦略にそっけない関心を寄せただけだった。「ヴェーベルン調査の成功を祈る!」このメッセージがいかに無頓着なものであったにしても、このプロジェクトに対するアーヴィン教授の関心がその簡潔なコメントをはるかに超えていたことは、すぐに分かるであろう。
国務省の方が先に回答した。イタリア・オーストリア業務担当官は、次のような手紙を送ってきた。
1959年10月2日
親愛なるモルデンハウアー博士
1945年オーストリアにおけるアントン・ヴェーベルンの死亡について、アメリカ陸軍当局によって作成されたとする報告書のコピーを要請する、国務長官宛て1959年9月22日付のお手紙をありがとうございました。
国防総省の担当官とご要請について話し合った結果、その死亡について何らかの記録が存在するかどうか確認でき次第、さらに手紙でご連絡いたします。
敬具
国務長官代理
ウェルズ・ステイブラー
イタリア・オーストリア業務
担当官
それから1週間後、国防長官が私の質問に対する回答を送ってきた。回答は陸軍省本部から出されていた。書き手はアメリカ陸軍少将R・V・リー陸軍総務局長自身であった。その手紙にはこう書かれていた。
1959年10月9日
親愛なるモルデンハウアー博士
先日お送りくださいましたアントン・ヴェーベルンの死亡に関する国防長官宛ての手紙について、当局の記録に彼の死を取り巻く状況が記載されている可能性があると考えられたことから、私が回答を委託されました。
徹底的な調査の結果、残念ながら、彼の死や、それがどのように発生したかについての調査に関する記録文書を見つけることはできませんでした。しかしながら、ヴァージニア州アレクサンドリアのキング・アンド・ユニオン・ストリート第3区にある共通役務庁の連邦記録センターによって、先行調査が行われたことを知りました。その公文書館の職員が、その調査の結果について近日中にご連絡いたします。
あなたが先日この件に関する手紙を受け取った、国務省イタリア・オーストリア業務担当官ウェルズ・ステイブラー氏は、さらなる詳細を提供できないことを残念に思うとあなたに伝えてほしい、と言っておりました。
当方の回答がさらに有益な情報を差し上げられなかったことを遺憾に思います。
敬具
R・V・リー
アメリカ陸軍少将
陸軍総務局長
先行調査があったということについての重要な言及と、その成果を報告するという約束以外、どちらの政府通信にも希望を持てるようなものはなかった。だがその一方で、最初の大きな「突破口」が開かれた。シアトルの大学教授デマー・アーヴィン博士にはダラスという兄がいて、私は彼がワシントンD.C.のどこかの政府部局に雇用されているということだけは知っていた。だというのに、後に開けゴマのように思えた環境に、私はそれまで気づきもしなかった。デマーの兄は、共通役務庁の一部である国立公文書記録局の関係者だったのだ。実際、そのダラス・D・アーヴィン博士は、戦争記録部の主任アーキヴィストだった。これ以上の関係者が得られるだろうか!
私の友人デマーは、知識の獲得に対し非常に旺盛な意欲を持つ熱心な学者で、国務・国防両長官に宛てた私の最初の手紙の追跡調査に黙々と着手していた。これは、彼が私のdemarche[政府への働きかけ]を知らされてから一日も経たないうちに、首都にいるアーキヴィストの兄に送った彼自身の詳細なメモによって行ったことである。デマーはその手紙のコピーを送ってくれたが、私は早くも調査における盟友を得たことに気づいて深い満足感を味わった。
以下が、デマーがダラス・アーヴィンに宛てて書いた内容である。
1959年9月22日
親愛なるダラス
戦争公文書館のどこかにあるかもしれない情報を手に入れようとする場合、どのようにすればよいかについて助言をもらえませんか?
アントン・ヴェーベルン(1883-1945)はオーストリアの作曲家で、その作品が若い世代の作曲家たちに与えた影響のため、現在とりわけ重要な人物となっています。彼についてはすでに多くのことが書かれており、彼の伝記のさらなる詳細が今後の調査を通じて明らかになることは疑いないでしょう。
彼の死を取り巻く状況は、明確に説明されたことがありません。
ロバート・クラフトは、この事件を次のように要約しています(「アントン・ヴェーベルン」、『ザ・スコア』1955年9月号10-11ページ)。
(ここに、すでに第1章に転載した、ヴェーベルンの死についてのクラフトによるコメントの引用が続く)
我が良友ハンス・モルデンハウアー博士──音楽学者でスポーケン音楽院の院長──が、この謎を解くことに非常に興味を持っています。モルデンハウアー博士は、自筆譜、手紙、記録文書など、音楽関係の手稿の素晴らしいコレクションを所有しており、その中には唯一無二のヴェーベルン文献も、ほかの多くの20世紀作曲家の資料と同様に含まれています。
彼は私に次のように書いてきました。
「……私はミッタージルに行き、ヴェーベルンの墓と、彼が銃弾に斃れた家の写真を撮りました。その場所の大きさやその他の詳細が、銃撃事件を難題にしています。ヴェーベルンの死を取り巻く全状況が謎の難題なのです。彼の死は『absichtlich[故意]』であったと言う人もいます。
私が入手したいのは、事件後に記録された公式文書です。おそらく陸軍省には調書のようなものがあることでしょう。私はその中身を要求するつもりです。それが公開されれば、ヴェーベルンが偶像のように君臨している界隈でさらに良い感情を生じさせるだろうからです。
どうすればよいでしょうあなたなら何か提案できるかもしれません。ワシントンで働いているあなたの兄君が提案してくれるかもしれません。囁かれているあらゆる疑惑を払拭することができれば、それは我が国家への貢献となるでしょう。
私は、この情報を希望する正当な理由を示すことができます。ヴィーンのウニヴェルザール出版社が《トラークル歌曲集》声とピアノ版のスコアを出版したいと言っており、私はその版のための歴史的な序文を自分が書くことを出版条件として要求したのです」
私はこれに、ヴェーベルンの事件は、相手側の重大な判断ミスの特徴をすべて備えているということを、付け加えてもよいと思っています。それは黙殺されてしまいました──「見て見ぬふりをし続けていれば、たぶん消え失せて、気にならなくなるかもしれない」。実際にはどんな場合でも、真実、すべての真実を知る方がよいのです(最初は困惑させられるように思われるかもしれませんが)。
手続きについて何かご提案いただければたいへんありがたく思います。
敬具
デマー・アーヴィン
音楽学校の
音楽准教授
および取締役代理
この手紙を読んだとき、私はたいへんな喜びを感じた。ここにあるのは、感染性のélan[鋭気]によって進められた自発的行動であった。仮に政府関係者の協力を得て何か明らかにされることがあれば、おそらく正しい解決法がなされたということになるだろう。調査は、三方面で一斉に計画されていた。肯定的な結果を期待するのは、楽観的に過ぎるというものだろうか?
デマーのメモに先立って、長官たちに同時に郵送された私自身の問い合わせをダラス・アーヴィン博士に伝えるため、9月24日、私は彼に手紙を書いてその旨を知らせた。その機会を利用して、三つの問い合わせが同期されること、銃撃の公式調書を入手できる方法を彼が提案できるかもしれないことについての希望を表明した。
ダラス・アーヴィンがデマーのメモに答えた10月5日の手紙は、公的機関が陥りがちなジレンマの雄弁なexposé[暴露]となっている。公務員として役に立とうとする一方で、管理者たちは分の悪い条件に直面しているのである。この興味深い手紙は、本来はもちろん非公開を意図されたものだったのだが、デマー・アーヴィンが数か月後に次のような主張によって許可を得たとき、書き手はこの実録本の一部として公開することを快諾してくれた。(14)「……生み出された曖昧な噂のせいで間違った方向への疑惑を招きがちな事件に十分で明快な光を当てるためには、すべての実際の文書それ自体に語らせるが最善です……。あなたの手紙に書かれていることは、推定された物語のうちの興味深い部分を確かに提供してくれています。結局のところ、官僚制度は期待していた以上に役に立ち、好意的でしたし、モルデンハウアー博士はこのことの真相を完全に明らかにするつもりでいることを確信しています」
原注14:デマーからダラス・アーヴィンへの手紙、1960年3月28日付。
10月5日のダラス・アーヴィンの手紙にはっきりと述べられた率直な意見を、ここに一緒に、省略なしで引用する。
親愛なるデマー
1959年9月22日のあなたの手紙は、1945年、おそらくアメリカ兵が発砲した銃弾のせいでアントン・ヴェーベルンが死亡した際の状況について、何らかの公式記録を得るにはどうすればよいかの助言を求めるものでした。モルデンハウアーが国務・国防両長官に書いた手紙のコピーを同封した手紙も受け取っています。
両方の手紙を、私の指揮下にはない第二次大戦記録課に照会しているところです。同課では、すでに別の照会者のためにこの問題をかなり徹底的に調査したのですが、望まれたような記録は何も見つけることができませんでした。
望まれたような情報が政府の記録の中から見つかるかもしれないと期待するのは簡単ですが、そのような期待は重大な困難に遭遇しなければなりません。第一に、こういったエピソードには記録が作られなかった可能性が高いこと。第二に、何らかの記録が作られたとしても、それはおそらく規格外の性質のもので、そうなると我々はどのような種類の記録を探しているのか分からない状況に置かれるということ。第三に、その時点および関係した場所におけるそのような事項に対し、いずれの記録保管部隊や本部が管轄権あるいは関心を持っていたのかをはっきりさせるために、そうとうな調査が要求されるということ。第四に、可能であればの話ですが、作成された記録にどのような処理がなされたかをはっきりさせるために、さらにそうとうな調査が要求されるということ。第五に、そのような部隊や本部のいずれか一つの記録が探し当てられたとしても、大量の資料を一つ一つ調べる必要がありそうなこと。通常であれば、政府は、そのコストゆえ、非公式の目的のためにこれをすることを引き受けることはできません。
望まれている情報を見つけ出すほとんど唯一の希望は、カンザス・シティの陸軍記録センターで部隊現場本部の記録を探すことにしかないだろうと聞いています。そこまで旅行していって、まず何も見つかりそうにない状況の中、何日も何週間も何か月もかけて力ずくでファイルを探す覚悟を持った、本件に関心のある人間に、心当たりはありますか?
記録保管システムは、特定の行政活動で生じる問い合わせに対応するように設計されています。そこからほかの種類の情報を得ることは容易ではありません。私は25年ほどの間、多くの重要な疑問に対する答えを個人的に追求してきたのです。
新聞は、官僚を威嚇してやろうという職業上の関心から、後者が自分たちの悪事に関する情報を隠すために絶えず共謀しているという伝説を作り上げました。これはナンセンスです。情報は、時に法律や行政方針に従って、連邦裁判所が妥当と認めなければならないことを理由として伏せられることはあります。しかし、官僚が恣意的に、気まぐれに、利己的に情報を自由に伏せられるという考えは誤りです。それは官僚の「悪魔の理論」と呼べそうな、通俗的な迷信です。
今回のケースでは、誰かを批判から守ろうという陰謀はないと断言できます。当時、不適切に情報を伏せようとする試みがあったがどうかについては、疑惑や暗示以外は何もなかったようです。政府、戦争、占領という複雑な行政機構が、当時何か重大なことが起こったことに気づかず、その後もそのままになった、という可能性が圧倒的に高い。求められている情報を得ることが困難だからといって、そこには何かしら悪意があると仮定することは、そのような情報を得ることを望むからといって、そこには何かしら悪意があるという仮定と同じくらい根拠のないことです。
私は、国務省と国防省でモルデンハウアーの手紙を担当している人物、それに以前この件を調べたことがある第二次大戦記録課の職員と連絡を取り合ってきました。この件は、後者と連携して処理されていますが、彼はたまたま良質の音楽のファンで、自分ができることなら援助したいと切に望んでいます。
モルデンハウアーには、実質的には第1パラグラフ、第2パラグラフ、この直前のパラグラフのように回答するつもりです。望みはほとんどない、しかし沈黙の共謀もない、という私の判断は、あなたの方から手短に彼に伝えておいてくれますか。
音楽史のためにあなたの友人がアーカイヴからの情報を必要としているこの機会に、私たちがあまりにも無能であることが証明されかねないのは、実に残念なことです。それでも、あなたからの連絡はうれしかった。もう少し、さらなる努力のための時間をください。その間、あなたにはもう少し非公式な手紙を何通か送らなければなりません。
敬具
ダラス・アーヴィン
戦争記録課
主任アーキヴィスト
実際には、私が上記の手紙を見ることになったのはほんの数か月後、シアトルを訪れたデマー・アーヴィンが見せてくれたときである。しかしながら、彼は10月12日に私に手紙をくれ、すぐに上記の内容を要約し、評価した。
親愛なるハンス
兄のダラスから、ヴェーベルンの死のさらなる情報を求める問題についての、長くて雄弁な手紙(10月5日付)を受け取ったところです。
現時点では、ご所望の情報が得られる可能性は非常に低いようです。私は、これは何らかの「沈黙の共謀」があったからではなくて、それよりも時代の混乱の中で、事件の記録(何らかの記録が作られたと仮定して、ですが!)がほとんど見つからない場所にしまい込まれてしまったからであると確信しています。
ことわざにある、針を探すようなものでしょう──一つの干し草の山の中ではなく、干し草の山また山の中から。
ダラスが指摘するように、どこから探し始めるかを決めるためだけで、そうとうな量の調査が必要になるでしょう。いちばん可能性が高い記録保管部隊の部隊現場本部の記録を、カンザス・シティの巨大な陸軍記録センターで一つ一つひっくり返さなければならないということになりかねません。
時間とエネルギーの消費(すなわち出費)は、政府が非公式な目的で引き受けることができないものなのです。民間人の中に、ほとんど対処不可能な作業にそれだけの労力を充てたいと思う者がいるかどうか、今のところ不明です。
たとえあなたの照会が期待に反する結果になったとしても、それもまた回答の一形態なのでしょう。
あなたがこれから書くであろう序文(15)をたまたま読んだ読者に、そのような情報を見つけ出すことにまつわる諸問題を思い知らせることができれば、少なくともそれはある種の貢献になるでしょう。
原注15:出版が予定されているヴェーベルン《トラークル歌曲集》作品14声とピアノ版スコアへの序文。
別のやり方──存命中の情報提供者を捜し出す伝記作家に採用されるやり方──なら、今後さらなる情報が見つかるかもしれないし、少なくとも記録のどこを捜すべきかについての手がかりは得られるかもしれません。
草々
デマー・アーヴィン
追伸:ほかの誰かが同じような照会をすでにしているということを、ダラスがあなたに手紙で知らせてくると思います。
デマーの追伸に書かれている過去の照会については、ダラス・アーヴィンが私の9月24日付の手紙に返信したとき、本当に言及されていた。
1959年10月5日
親愛なるモルデンハウアー博士
1959年9月24日のあなたの手紙には、おそらく一人のアメリカ兵の発砲による、1945年のアントン・ヴェーベルンの死の状況についての公式記録を入手したい旨が書かれていました。ご存じのとおり、私の弟もこの件について私に手紙を書いていました。
私は、両方の手紙を、私の管轄下にない第二次大戦記録課に照会しています。同課はすでにもう一人の別の照会者のためにこの問題をかなり徹底的に調査しましたが、望まれたような記録を見いだすことはできませんでした。
国務・国防両長官に宛てたあなたの手紙は、陸軍省で、以前の照会を処理した第二次大戦記録課の職員と協議して対処されるでしょう。この職員は良質の音楽のファンで、自分ができることなら援助したいと切に望んでいます。彼が言うには、この事件に関する何らかの記録を見つけ出すほとんど唯一の希望は、カンザス・シティの陸軍によって保管されている部隊現場本部の記録のふるい分けにしかないだろう、とのことです。記録が作成されていた可能性はほとんどありませんが。
敬具
ダラス・アーヴィン
戦争記録課
主任アーキヴィスト
この最後の一文だけで、あらゆる希望を窒息死させ、これ以上の自発的行動を抑圧するのには十分だったかもしれない。この結論は、これまでにさまざまな政府部門が本件に期待されるようなことをすべてやり尽くした、ということを示していた。最も目立つ点は、すでに先行調査があった、ということである。前の照会者が誰であろうと、事実を手に入れることへの彼の興味関心は、私のそれと同じくらい強かったはずである。だから、彼は石を一つ残らずひっくり返して調べたのだと想定しなければならなかった。不本意ながら、私は現実を直視する必要があった。この事例は固く凍結しているようで、逃げ道が見えない隘路渋滞のようなものに巻き込まれているように思われた。
それでも私は、この時点で諦めるべきだ、自分の役割は果たされたと思うべきだ、という論理的な声も、そちらに傾きそうになる気持ちの声も、どちらも拒絶した。私の頑固さは、このような自分に先立つ調査が行われていたことを、何となくずっと予期していたという認識に由来する。私の、まさにこの調査に対するやむにやまれぬ動機は、他の人にも共有されているはずだと確信していたのだ。この信念のもとでは、結果の報告が公表されなかったというだけの理由で、私が動揺することはなかった。もしかすると、情報の拡散を妨げるべき説得力ある理由さえあったかもしれない。そのとき自分に残されたと思われる一つの目標は、以前の努力がまったく何にもならなかったのかどうかを知ることだった。R・V・リー局長がすでに、ヴァージニア州アレクサンドリアにある連邦記録センターから「先行調査」の報告書を受け取ることが期待できる、と教えてくれていた。このときまでにはもう、私はそのcommuniqué[公式発表]を受け取りたくてたまらなくなっていた。この件を続けるため、10月15日、私がダラス・アーヴィンに再び手紙を書いたとき、リー局長の手紙の引用が含まれた。
親愛なるアーヴィン様
10月5日付の貴信と、アントン・ヴェーベルンの死を取り巻く事実を知るための努力への関与に対し、心よりお礼申し上げます。
この仕事の難しさは十分に理解しておりますが、本件で連絡を取った当局者諸氏が示してくれた協力的精神のおかげで、勇気づけられもし、満足感を感じてもいる次第です。陸軍省本部から、10月9日付の次のような手紙を受け取りました。
(以下、上の本文に転載された、10月9日付のリー局長の書簡の引用)
あなたのヴァージニア州アレクサンドリアの事務所からの情報は、まだ受け取っておりません。しかし、私は今でも、特定の時期にミッタージルまたはその近くに駐在していた個人の名前を知ることができるのではないか、実現可能な方法が存在するのではないかと思っています。たとえヴェーベルンの死に関する記録が存在しないとしても、個人的な証言を得ようとすればできそうな一人ないし数人の目撃者にたどり着く、ということなら、いつかは可能になるかもしれません。
この攻め方には、1945年9月にミッタージルに駐屯していた部隊についての情報が必要で、そこには、その特定の部隊での階級が高く、そのためこの問題についての情報を持っていそうな人物の氏名と民間の住所も含まれます。
目撃者との接触という目標に向けてはどのように進めるのが最善か、ご提案いただけますか?
たいへんありがたいご助力に対し、重ねてお礼申し上げます。
敬具
ハンス・モルデンハウアー(16)
原注16:この手紙のコピーを受取人の弟デマー・アーヴィンに転送する際、私は次のような追伸を付け加えたい思いに駆られた。「親愛なるデマー。もしかすると、鉄道や郵便局にこんなポスターを貼るのがいちばん簡単かもしれません。
求むアントン・ヴェーベルンを撃った者!!
でもまあ、そんなことをしてひとたび著名人が犠牲になったと知られれば、殺害を主張する者が1ダースも出てくるかもしれませんね」
1945年9月にミッタージルに駐屯していた特定の陸軍部隊についての私の照会は、まったく無意識のうちに出てきたものだった。手紙を書いている最中に, その考えがふと浮かび上がってきたのは事実である。過去数日間、私は自分の思考からそのことをすっかり取り除こうとしていたのだった。ところが、潜在意識は、政府筋から受け取ったいずれも落胆させるような回答に苛立っていたのであり、出口はないか、何か調査継続のための可能性はないかと模索していたのである。そんなとき、瞬く間に、この問題全体の解決へと繋がる正しい道筋を示すことになるアイディアが湧き出たわけである。
結局のところ、それは単純なアイディアであり、振り返って考えてみると、その日現場にいた人々を突き止め、それから彼らに直接連絡を取るという、最も論理的な手順の指針のように思われる一つの方法を最初から示していた。中には覚えている人もいるはずだ。その後、実際に蓋を開けてみたらたった一人しかいないことが判明したのだが、今度はその彼が別の情報源に繋がり、ゆくゆくは情報の流れ全体が淀みなく流れていくことになったのである。
ダラス・アーヴィンはすぐに返事をよこした。10月20日付の彼の手紙は、少なくとも具体的な新しい方向性を探るチャンスはあるかもしれないと認めていた。
親愛なるモルデンハウアー博士
1959年10月15日のあなたの手紙は、アントン・ヴェーベルンの死の時点でミッタージルかその近隣に駐留していたアメリカ兵たちの名前と現住所を得られないかどうかをお尋ねになるものでした。
私はそのことに関連する記録については責任を負っておりませんので、貴信を我が第二次大戦記録課に照会することしかできませんが、その課には以前のお手紙も照会されています。
現在お考えの方法は、実現可能かもしれないし、不可能かもしれません。我が第二次大戦課は、どのような可能性があるかをあなたにお知らせするでしょう。返信が遅れるとしたら、それはあなたに役立つ情報を見つけようと努力しているという事実に起因するものです。
敬具
ダラス・アーヴィン
戦争記録課
主任アーキヴィスト
この手紙は控えめな表現で、むしろ過度の楽観を戒めるものであったが、それでも私の自信を回復させてくれた。それでも私は、国立公文書館の第二次大戦課からのさらなる通知は、長い期間待たねばなるまいと覚悟していた。
ところが、行政は思いがけない驚きを用意していた。1週間も経たないうちに手紙が届き、この問題に対するさらなる攻撃のための拡大戦線が開かれたのだ。それがこの手紙である。
1959年10月28日
拝啓
1959年9月24日および10月15日付の国立公文書館ダラス・アーヴィン博士宛の貴信、それにアントン・ヴェーベルンに関する情報提供を要請する、追加調査のため本課に照会がなされていた1959年9月22日付の国防長官宛の貴信について、さらなる照会がなされています。
本課の保管となっている陸軍省の退役記録の徹底的な調査が実施されましたが、それは否定的な結果を伴いました。しかしながら、私はオーストリアにいたアメリカ軍の叙述的報告書のコピーから、第42師団が1945年9月にザルツブルク州全体の占領責任を負っていたことを突き止めました。その隊の退役記録は、ミズーリ州、カンザス・シティ24、ハーデスティ・アヴェニュー601の陸軍総務局長事務所、カンザス・シティ記録センターに保管されています。この師団の士官名簿は、ミズーリ州、セントルイス14、ペイジ大通り9700、陸軍記録センターに保管されています。知られている最後の本師団個人の住所についての情報も、同センターにファイルされているでしょう。
以上の情報があなたのお役に立てることを願っております。
敬具
シャーロッド・イースト
第二次大戦
記録課
主任アーキヴィスト
同時に、シアトルのデマー・アーヴィンにもイースト氏からの手紙が届いていた。それはどうやら、デマーの最初の伝達メモ、彼の兄ダラスに送っていたものへの返答として書かれたもののようだった。その手紙は、同じ日に私に書かれたものとほとんど一致していた。しかし、ここでのイースト氏は、最後の文で諦めの気持ちを表明していた。「この件でこれ以上あなたのお役に立てないことを残念に思います」
その手紙を私に転送するとき、デマー・アーヴィンは短いメッセージを加えた。「まあ、少なくとも第42師団だったということですたぶん今なら、(出版された回想録でさえ)その師団のメンバーだったのは誰なのか、捜査範囲を限定するのに役立ってくれそうなのは誰なのかを見つけ出すことは可能です」。このコメントには、今や戦略的に重要な地域が、アメリカ陸軍全体からその中の一個師団のみに限定されたことへの私自身の満足感が要約されていた。
次なる目標は、1945年9月にチロルのミッタージルに駐屯していたその特定の師団の正確な分隊、おそらく単独の連隊かさらに小さな部隊を見つけ出すことになった。その次には、まさにその隊で軍務に就いていた個人の名前を取得する試みが来るだろう。その行動のコース全体は、峨々たる山の表面を登り詰めるような重大な労役としてのしかかってきたが、どんなに骨が折れる扱いにくいものであっても、このときにははっきりと明示されたアプローチの道筋があったのだ。
デマー・アーヴィンは、一日も経たないうちに、短いコメントに引き続いて長い手紙を書いてきた。最初から明らかなように、この問題への彼の強い関心は、積極的な支援と実際的な提案という形で現れていた。
1959年11月4日
親愛なるハンス
あなたの情報提供者は、ザルツブルクにいたのは第42師団だと言ったのですか私の記憶が正しければ、それはかの有名な「レインボー」師団†で、その勇敢な歴史はおそらく何度も書き立てられていることでしょう。
†訳注「「レインボー」師団」──第一次大戦時、ダグラス・マッカーサーによって編成された師団。全国さまざまな州から兵を集めたため、この名称で呼ばれた。第一次大戦終了後に活動停止したが、第二次大戦時に活動再開(このときはマッカーサーは関係していないようだ)。両大戦でさまざまな軍功を上げ、2021年現在も継続している。
事務所(17)のリンガー夫人が、単純だが効果的な提案をしてくれましたアメリカ在郷軍人会に助けを求めるのですアメリカ在郷軍人会のメンバーたちは、ほかのほとんどの組織とは違って、お互いに連絡を取り合っているのです。その線で問い合わせを始めれば、第42師団に所属していて、少なくとも当時その地域にいた兵役経験者を、かなり早く見つけることができるでしょう。ひょっとするとスポーケンにも一人や二人いるかも──何とも言えませんが!!!
原注17:アイリーン・M・リンガーは、ワシントン大学音楽学部の秘書である。
アメリカ在郷軍人会の会員は社交好きで助けになる連中です。あなたのメッセージを彼らに伝えることができれば(場合によっては、彼らの会合の一つで多少発言することさえできれば)、あらゆる種類の助力を得られるかもしれないと思います。
それでは
デマー
──承前──
アメリカ在郷軍人会ワシントン支部(シアトル事務所)に電話してみましたが、あまり役に立ちませんでした。私が話した男性は、彼自身が第一次大戦時のレインボー師団(第42)のメンバーでした。彼は、たくさんのさまざまな部隊の歴史が出版されていて、多くの場合かなり詳細に書いてあり、個人名簿なども掲載されているはずだ、と言っていました。
私たちの図書館をざっと調べてみたところ、そのような歴史書は何も見つけられませんでした。この図書館の資料はあまりにも膨大で、念入りな調査が必要でしょう。
オーストリアのアメリカ軍本部の月報(1945年11月開始)があることは発見しました。それらの報告にはアメリカ陸軍大将でアメリカ軍最高司令官のマーク・W・クラークの署名があります。それらは分厚く、非常に興味深いもので、産業、人口、公衆衛生、刑務所の収容者数などのような事項が調査されています。残念なことに、(再分割地の一つとしてザルツブルク地区を含んでいる地図等以外の)オーストリアの行政組織や、ミッタージルを担当していた可能性のある部隊あるいは個人についての情報をほのめかすものはありません。
この記録文書資料の大半は、現在おそらくカンザス・シティに保管されているでしょう。
私の推測では、1945年9月では状況はまだ混沌としていたということです。クラーク大将の管理担当官が引き継いで物事を整理する頃にはもう、9月に何が起こっていたのかを把握するには遅すぎたということでしょう。
ですから、唯一の希望は、戦闘部隊として関与した師団の実体験の歴史にしか残っていません。人事名簿を入手し、あの状況にかなり近い人間にたどり着くまで上から順に名簿に当たっていくための、何らかの方法があるはずです。
D.
アメリカ在郷軍人会に連絡してはどうかという提案は、十分に実行可能で、すぐに着手できそうに思われた。その団体の地方支部であるスポーケン分会第9は、多くの会員を擁し、ダウンタウンのビジネス街の中心にある当団体所有の高層ビルを占有していた。私は長年にわたって、その団体の毎月の催しに対し、当時自分が監督を務めていた男声合唱団の公演で繰り返し貢献していた。今回はその返礼として頼みごとをするチャンスだった。
私は軍人会事務所に電話をかけ、会長と時間をかけて話をした。彼は親身になって話を聞き、地元団体の集団の中には第42師団の退役軍人が数人いると明言した。彼は、その者たちの名前はファイルを見れば容易に突き止められることをほのめかした。私の要請はすぐに実行されるだろうという印象を受けた。ところが、何も起こらなかった。数週間が過ぎた後、私は思い切って催促してみた。皮肉なことに、私の家のドアから目と鼻の先にあったその潜在的情報源泉は、一滴も報酬をもたらすことはなかった。
しかしながら、その間も私の勢いは失われず、かの軍団が戦時の功績で有名だったことを受けての名前、「レインボー」師団という一般的な方向での捜査を押し進めた。イースト氏が教えてくれたように、少なくともその将校たちの人事名簿および師団記録は、陸軍の公式記録センターによりファイルされているだろう。
すべての可能性を検討し尽くすため、11月5日、ミズーリ州カンザス・シティにある陸軍総務局長事務所カンザス・シティ記録センターと、ミズーリ州セントルイスにある陸軍記録センターに、同じ内容の手紙が私の手で郵送された。これらの手紙の文面は以下のとおりであった。
拝啓
署名者は、1945年9月15日にチロルのミッタージルで事故死したオーストリアの重要な作曲家、アントン・ヴェーベルンの死についての調査を行っております。
情報の調査は、国務省(ウェルズ・ステイブラー氏、イタリア・オーストリア業務担当官)、陸軍省(R・V・リー氏、アメリカ陸軍少将、陸軍総務局長)、共通役務庁(ダラス・アーヴィン氏、戦争記録課主任アーキヴィスト)の事務所を経由しています。これらの政府支局はいずれも極めて協力的でした。
現在私は、ワシントンD.C.にある共通役務庁の第二次大戦記録課主任アーキヴィスト、シャーロッド・イースト氏から、第42師団が1945年9月にザルツブルク州全体の占領責任を負っていたという情報を得ております。イースト氏は、第42師団の退役記録が貴所に保管されていると知らせてくれました。
当時、第42師団のどの特定の隊が、チロルのミッタージル内あるいはその付近に駐留していたのかを示す記録を探していただければ、最大の支援となるでしょう。同様に、何らかの関連する事実や個人の名前、後者については個別に連絡が取れるよう、彼らの最後に知られていた住所をお伝えいただければ非常に助かります。
この特別な調査が、我が国の国際的な文化関係の重要な側面を提供するものであることは保証させてください。それゆえ、貴所の可能な限りのご協力が得られればたいへんうれしく存じます。
敬具
ハンス・モルデンハウアー
この2通の手紙をポストに入れるとき、私は特別な祈りを捧げた。実際の調査が行われてからやっと6週間しか経っていなかったが、最終的な成功か完全な失敗かは、私の最後の依頼への回答にかかっていることは十分に分かっていた。私は事実上、今は民間人となった元軍人の名前と住所を確保しようとしていたのだ。そのうえ、軍が完全な指揮権を振るっていた人生の一期間に属する問題のことで、彼らに個人的にコンタクトを取るという自分の意思を、はっきりと表明していた。自分の考えでは、これは極めて重要な問題であった。アメリカ合衆国陸軍は、自国に奉仕していた期間の人間の経験は、部外者の好奇心から庇われるべきだと主張するだろうかもしそうであれば、彼らの名前や居場所についてのいかなる照会も確実に拒否され、彼らの市民生活のプライバシーは守られることになるだろう。
成功を不可能にする別の根拠があるように思われた。自分は、14年という時間によって投じられた影の暗がりの中を、手探りで進んでいるのではなかったか特に私の探索対象は軍事史のどの局面にも関係していないため、「過去を水に流す」という態度はあり得ない反応とは思えなかった。この研究はむしろ、戦後期の軍事作戦の単なる副作用にすぎないものに、しかも米国市民の誰にも直接の影響を与えないものに、向けられていたのだ。
これらのことや、さらに予想されるもろもろが、私の不安を大きくした。人が、判断を下して責任を取るよう求められた場合、その人の決断は、このようなケースでは実際のところどうなるだろうか極めて重要な岐路に立った私は、この決定的な行き詰まりの打開は、もはや私自身の意志次第でどうにかなるものではないことを知った。私に残されていたのは、待つことと希望を持つことだけだった。
通信文中のやり残しを片付けるため、まる5週間前、先行するの調査の結果について、ヴァージニア州アレクサンドリアの連邦記録センターからの報告を待つようにと助言してくれたリー将軍に、私はもう一度手紙を書いた。11月14日、以下の手紙を将軍に送った。
拝啓
アントン・ヴェーベルンの死に関する件の、10月9日付のお手紙をありがとうございました。あなたの協力の精神に感謝します。
そのお手紙では、ヴァージニア州アレクサンドリアにある共通役務庁の連邦記録センターの職員が、この件で行われた先行調査の結果について、間もなく私に連絡をくださるとお書きになっていました。
この件についての私の試みを支援するため、アレクサンドリアへの連絡状の送付というご尽力をいただけますと、私としてはたいへんありがたく存じます。これまでのところ、同職員からは何の報告も受けておりません。
敬具
ハンス・モルデンハウアー
この問題の政府通信すべての処理を特徴づけていたのと同じ便法で、リー将軍は11月25日、次のように回答してきた。
親愛なるモルデンハウアー博士
1959年11月14日付の貴信についてお答えしますと、ここにコピーを同封した、シャーロッド・イースト氏によって1959年10月28日に書かれたあなた宛の手紙が、アントン・ヴェーベルンの死に関するヴァージニア州アレクサンドリアの連邦記録センターで行われた調査結果を反映したものである、との連絡を受けました。
イースト氏は、連邦記録センターとは関係がないにもかかわらず、連邦記録センターのものを含む、ワシントン地区にある関連する陸軍記録すべてをチェックしたことを知らせてきました。このような次第ですので、連邦記録センターの関係者は、これ以上の回答を考えてはおりません。
誤解を招いたかもしれず、ご迷惑をおかけしたかもしれないことをお詫び申し上げますが、イースト氏が提案した別の情報源から必要な情報が得られることを確信しております。
敬具
R・V・リー
アメリカ陸軍少将
陸軍総務局長
実際には、上記の手紙は、決定的な進展があった1週間後になってから届いたのであった。11月5日にカンザス・シティとセントルイスの記録センターに手紙を書くという私の行動計画は、すでに両機関からの返信という結果をもたらしていたのである。カンザス・シティの記録センターは、11月17日付のハガキを送ってきた。そこでは、部隊長ウォード・W・コンクエスト大佐が、私の手紙はミズーリ州セントルイスにあるアメリカ陸軍記録センターの部隊長に転送されてきたことを知らせていた。私がすでに別に交渉していたのと同じ機関である。翌日には、セントルイス事務所の印が入った手紙が届いた。希望から恐怖にまで及ぶ奇妙に複雑な心境で、私はその公用封筒を開封した。読み始めると、私の不安はすぐに楽になった。
陸軍省本部
陸軍総務局長事務所
アメリカ陸軍記録センター
ミズーリ州セントルイス14
1959年11月17日
親愛なるモルデンハウアー博士
本状は、1945年9月15日、オーストリアのミッタージルにて第42師団の部隊に配属された将校の氏名および最後の住所を要請された、1959年11月5日付貴信への返信です。
記録によると、1945年9月15日にミッタージルに配置されていた第42師団の部隊は次のとおりです。本部、本部中隊、医療班、第242歩兵連隊。本センターに人事記録が記録されている、当時これらの部隊に配属されていた将校の氏名と最新の有効な住所を、以下に列挙いたします。
チャールズ・W・ブラッドリー
ノルコ・ファーマシー・ビルディング
ルイジアナ州ノルコ
カジミール・F・プラクト
セント・ヨセフズ・チャーチ、Rt.2
ミネソタ州マノウメン
クライド・O・ブリンドリー博士
ウェスト・ガーフィールド600
テキサス州テンプル
ロバート・A・シェパード博士
ノース第2ストリート401
アイオワ州カウンシルブラフス
ロバート・O・ファイフ
ウェスト第20アヴェニュー115
ワシントン州オリンピア
ハリー・J・ゼル博士
ノース・ミッション・ドライヴ322
カリフォルニア州サンガブリエル
ハワード・E・マックナイト博士
レイクヴュー・アヴェニュー2724
オハイオ州デイトン
フレデリック・D・フィリオン
ノース第53ストリート4745
ウィスコンシン州ミルウォーキー
レジナルド・R・リーツ博士
ボックス567
ノースダコタ州ワトフォード
ポール・P・ジェンキンズ
第92ストリート159
ニューヨーク州ブルックリン
フィリップ・E・ギャヴィン
バーゲナー2546
カリフォルニア州サンディエゴ
ウィリアム・H・ニューマン
第66アヴェニュー9958
ニューヨーク州フォレストヒルズ
アレン・F・ハールバート
ボールド・ヒル・ロード・サウス
コネチカット州ニューカナーン
アルバート・B・ブランズマン
第2アヴェニュー842
オレゴン州ヴェルノニア
上のカテゴリーに属するほかの将校たちの人事記録は、ワシントンD.C.25の陸軍総務局長事務所にファイルされています。よって、さらに検討するため、あなたの照会を同事務所に問い合わせたところです。
敬具
ユージン・S・ター
大佐、AGC
指揮官
ここには喜ぶべき真の理由があった大きな突破口が開かれていたのだ。アメリカ軍は、間違いなく私にゴー・サインを出していた。この将校リストには何人かの医師が開示されており、彼らなら自分たちが受けてきた訓練によって、学者の熱意に共感の念を抱いてくれるであろう。その他の者も、一つの軍団のリーダーとして、同様に知性と義務感を持ち合わせているだろう。とにかく私はそのように推論した。私の自信は深まった。14人の男性に連絡を取り、14の道筋をたどることになる。そのうちのどれかは「アム・マルクト101」の家に繋がるだろうか?
ター大佐の手紙の最後のパラグラフには、ヴェーベルンの死亡時、ミッタージルに駐在していた将校たちの追加分に関する問い合わせがなされることが明記されていた。大佐は私の照会を、「さらに検討するため」ワシントンD.C.の陸軍総務局長事務所に転送していた。この文言はかなり態度が曖昧で、今度は陸軍総務局長が補足情報を提供してくれるのかどうかという疑問を残していた。しかしさらに3週間後、この問題もまた肯定的に解決を見た。私の捜査にずっと協力してくれていたR・V・リー少将から、再びその署名入りの手紙が届いたのだ。どうやらアメリカ陸軍は、民間が自力で調査を進めることを容認する決定をしたようだった。さらに高い階級の将校たちを含む追補名簿が添えられていた。手紙の内容はこうだ。
1959年12月7日
親愛なるモルデンハウアー博士
1959年11月5日付の貴信に対し、さらなる照合がなされています。
その他の将校の氏名と最新の住所が、同封のリストに記載されております。
敬具
R・V・リー
アメリカ陸軍少将
陸軍総務局長
住所一覧
ノーマン・C・コーム大佐、アメリカ軍退役
クレスト・ドライヴ1988
カリフォルニア州エンシニータス
ポール・W・ギャバート従軍牧師(少佐)、アメリカ陸軍予備軍
コンコーディア・プレイス7
ニューヨーク州ブロンクスヴィル
エドガー・ナッシュ少佐、アメリカ軍退役
25エルムハースト・アヴェニュー89
ニューヨーク州ロングアイランド、エルムハースト
ヴィクター・E・ストロム中佐、O 1 283 163†
北部カリフォルニア方面、アメリカ陸軍第15隊
カリフォルニア州プレシディオ・オブ・サンフランシスコ
†訳注「O 1 283 163」──これは軍の整理番号だと思われるが、この人のいちばん左は数字の「0」(ゼロ)ではなく大文字の「O」(オー)となっている。文字が使われているのはここだけなので、誤植の可能性あり。ドイツ語訳では数字の「0」に直されている。
エドワード・J・ジーニー・ジュニア少佐、0 26 328
アメリカ陸軍士官学校
ニューヨーク州ウェストポイント
ロイド・W・ソルター大尉、アメリカ軍退役
バーンウェル・ストリート917
サウスカロライナ州コロンビア
ドナルド・L・シェイニーフェルト少佐、0 64 987
法務総監事務所、アメリカ陸軍
ワシントンD.C.25
ハイメン・A・スタイン中尉、アメリカ軍退役
シャーウッド・ロード7552
ペンシルヴァニア州フィラデルフィア31
ロバート・G・バーカー・ジュニア大尉、0 1 826 101
兵器誘導ミサイル学校
アラバマ州レッドストーン兵器廠
エドワード・L・カイザー中尉、アメリカ軍退役
バーナビー・レーン3
ニューヨーク州ハーツデール
これで連絡すべき名前が10増えて、合計で2ダースになった。このグループの中で、あの致命的な銃撃について知っていそうな者は何人いるだろうか彼らの中で、そもそも自分たちが音楽史の悲しい章の一つとどのように繋がっているのかに、気づいている者がいるのだろうか無駄な憶測をしている暇はなかった。見つける仕事がなされなければならなかったのだ。
この極めて重大な課題への取り組みは、実際にはすでに始まっていた。最初の将校名簿が届いてからの数日間、私は14人の受取人にこの問題を切り出すのに最も適切な方法について熟考を重ねていた。すべては適切な意図伝達にかかっているだろう。簡にして要を得た、完全で、事務的で、一度ですべてを訴える力があり、プレッシャーを感じさせず、それでいて緊急性を伝えるような手紙に。私は、今や成功は完全にこの一通の手紙が頼りであり、その中では技術と機転の最も効果的な組み合わせを見つけなければならないだろうと、自分に言い聞かせた。草稿が何度も作られ、修正され、書き直され、また破棄された。やっとのことで採用された形は、私としてはまだ何となく満足しきれるものではなかった。しかし、それ以上どうすれば改善できるかが分からなかったので、手紙は次のように標準化され、書かれたのである。
拝啓
あなたのお名前とご住所は、ミズーリ州セントルイスにある陸軍省本部、陸軍総務局長事務所、アメリカ陸軍記録センターによって私に伝えられました。
著名なオーストリアの作曲家アントン・ヴェーベルンの死亡に関連する事実を明らかにすることを目的とした調査に、あなたの寛大なるご協力をお願いしたいのです。その死は、1945年9月15日の夜、ミッタージル(オーストリアのチロル)で発生したもので、推定では、ヴェーベルンが「アム・マルクト101」にあった娘と義理の息子の家を訪れていたとき、外出禁止令後の銃撃によるものと思われます。
1945年9月、オーストリアのミッタージルに駐屯した第42師団の部隊に配属された将校のお一人として、アントン・ヴェーベルンの死に関連した出来事について、あるいはその情報を提供できそうな人や人々について、何らかの知識をお持ちではないでしょうか。どんなに些細なことでも、事実にたどり着くための私どもの取り組みにおいては重要なものとなり得ます。従いまして、あなたのご協力が、この重要な調査にとって不可欠であること、また結果的に音楽的・伝記的学問への貢献にとって、ひいては我が国の国際的文化関係への貢献にとって不可欠であることを、保証させていただきたく思います。
この件であなたが提供できるいかなる情報にも感謝いたします。
敬具
ハンス・モルデンハウアー
法人スポーケン音楽院
音楽学研究所
妻は勤勉に手紙をタイプし続けた。返信する気を起こさせるためのわずかな促進剤として、宛名が書かれ切手が貼られた返信用封筒が同封されていた。毎日、少ない数の手紙が投函された。そのたびに、私の高揚した希望も一緒に消えていくのだった。それは何かを神の手に委ねるようなものであった。
まず、セントルイスのリストにあった14人の男性に連絡が取られた。次に、さらに4通、陸軍総務局長の名簿からランダムに名前が選ばれた将校たちに宛てられた手紙が続いた。その第2のリストには10の名前が含まれていたが、残りの6通の手紙を書く必要はなかった。その間に、天命がもたらされたのだ。真実は明らかになった。調査は終了した。
4章 真実
「……悲劇は、非論理的ではないどころか、その逆である。非論理的というか、その前提において恣意的で、それは致命的結果となる論理に従って展開するのである。不慮の死は、悲劇のもう一つの主要な側面であり、それぞれの原因が結果を引き起こすという形式的な方法ではなく、可能性のあるすべての出来事を支配する、完全で、あらかじめ定められた法則としてのものである」
(ルネ・レボヴィッツ「アントン・ヴェーベルンの悲劇的芸術」)
真実は、容易に、また迅速に明かされたわけではなかった。それはあまりにも長い間埋もれていたのだ。生きている人間の記憶の上を、歳月が1年また1年と流れていった。真実の顔は時が経つにつれて変色し、見分けがつかないほどくすんでしまうまでになる。私たちが歴史と呼ぶものは、真実の不変の守護者でなければならない。
あの最初の14人のグループの中で真っ先に出された手紙は、私の本拠州ワシントンの州都オリンピアに住んでいるロバート・O・ファイフに宛てられていた。こんなに近くに住んでいる人からなら、二日以内の返信が期待できるだろうと思ったのだ。が、空しい憶測に終わった。その手紙は1週間後に戻ってきてしまい、そこには「宛先不明」と記されていた。最初の手紙、最初の落胆。
2番目の手紙は、それほど遠くない町に郵送された。オレゴン州ヴェルノニア在住のアルバート・B・ブランズマンに宛てられたものである。しばらくしてブランズマン氏から返信が来たが、彼が言わなければならなかったことも、同じように落胆という結果となった(18)。
原注18:1960年1月14日付書簡。引用した文書や手紙に見られるような特異な表現、および文法や語彙の間違いは、真正性のため、本書全体を通じて変更せずそのままにしてある。†
†訳注──本訳では、引用文に「特異な表現」や「間違い」とおぼしき箇所があったとしても、特に訳文には反映させていない。反映させようとしても困難であることが多いからである。例えば、この下の短い手紙では主語「I」が2箇所抜けているが、日本語では主語、特に一人称主語は、省いても不自然にならない。正直に言えば、訳者の英語力では不自然な言い回しがあったとしても見抜けないかもしれない、ということもある。本訳に全部で3回出てくる「(ママ)」は、訳者の判断ではなく、原文に(sic)とあるのをそのまま訳したものにすぎない。
拝啓
たいへん申し訳ありませんが、私は上記の問題についてお役に立てません。今のところ、どんな名前も思い出せないのです。重ねて、お役に立てず申し訳ありません。
敬具
アルバート・ブランズマン
さらに2通の手紙が、指定住所での受取人不明という理由で戻ってきた。それらは、ニューヨーク州フォレストヒルズのウィリアム・H・ニューマンと、カリフォルニア州サンディエゴのフィリップ・E・ギャヴィンに出された手紙であった。3通の手紙が戻ってきて、三つのコンタクトが失われた。
しかし、その後はいくつかの返信が届き、それぞれが熱烈に歓迎された。医療関係者は、全体的に極めて良心的な文通相手であることが判明した。そのうちの3人は、特に提供すべき情報がなくてもすぐに返事をくれた。その3人の医師のうちの最初の一人、カリフォルニア州アルハンブラ在住のハリー・J・ゼル医学博士は、次のように書いてきた。(19)†
原注19:1959年12月17日付書簡。
†訳注「アルハンブラ在住の……」──この人は、上のリストでは住所が「サンガブリエル」となっていた。「アルハンブラ」はその隣の市である。
アントン・ヴェーベルンの件で何もご連絡せず申し訳ありませんでした。少しでもお役に立てればとは思うのですが。私はその日、おそらくミッタージル地区にいたか、あるいはザルツブルクにいたかもしれません。
幸運をお祈りします──
ハリー・J・ゼル医学博士
次は歯科医のエドガー・ナッシュ歯科学博士で、私の問い合わせに次のような短信で答えた。(20)
原注20:1960年1月15日付書簡。
拝啓
アントン・ヴェーベルンの死についてお尋ねのお手紙を受け取ったところです。
残念ながら、私ではお役に立てません。私には、外出禁止令の後に民間人が撃たれたという記憶がないのです。
私が医療班に所属していたので、私の部下は誰も警備勤務に呼ばれませんでした。
本部中隊に配属された将校ならお役に立てるのではないかと思われます。
あなたの調査がうまくいくことをお祈りしております。
敬具
エドガー・ナッシュ
もう一人の医師、テキサス州テンプルのクライド・O・ブリンドリー医学博士は、奥方を通じて伝言をよこした。ブリンドリー夫人は、メリーランド州ベセスダから次のような手紙を送ってきた。(21)
原注21:1960年1月7日付書簡。
拝啓
ブリンドリー博士には、ミッタージルに駐在していた間のそのような出来事(アントン・ヴェーベルンの死)の、情報も記憶もないそうです。
ブリンドリー博士は、メリーランド州ベセスダ14にある、アメリカ公衆衛生局国立がん研究所に所属しておりまして、それがあなたのお手紙を受け取るのが遅れた理由です。
敬具
クライド・O・ブリンドリー夫人
これらの手紙には、いずれも当面の問題に関連性のあるものは何もなく、疑念がこのキャンペーンの有効性についての私の自信を曇らせ始めた。しかし、その後、もっとずっと打ち明け話に富んだ手紙が届いたのである。その書き手は、ニューヨーク州ブルックリンのポール・P・ジェンキンズであった。彼はその巨大都市の中で住所を変えていたが、私の手紙は新しい住所に届いていた。どうやら事件全体についてややナーヴァスになっているようで、ジェンキンズ氏はこう書いていた。(22)
原注22:1959年12月10日付書簡。
親愛なるH・モルデンハウアー様
1945年9月15日の夜、オーストリアのミッタージルで起こった事件についての情報を求めるあなたの手紙を受け取りました。
この事件について書く前に、その悲劇が起こったとき、戦争は終わったばかりで、私たちは見知らぬ土地にいて、私は第三者であったことを覚えておいてください。さらに、正確な日付も関係者の身元も、私には分かりません。
あなたがお書きになったその頃、オーストリアのミッタージルで、その村の家の一軒で銃撃事件があり、その調査のため、ほかの数人の将校たちとともに宿舎から呼び出されたことを思い出します。到着すると、部屋の一室で、55歳から60歳くらいの男性が死んで横たわっていました。彼は撃たれていました。
調査は関係当局に引き継がれ、私はこの事件についてそれ以上のことは聞かなかったので、ここから先は私ではあまりお役に立てないでしょう。
敬具
ポール・ジェンキンズ
この手紙は、私に非常に多くのことを思案させた。というのも、そこには悲劇の直後、銃撃の現場にいた人による初めての証言があったからである。彼は、アントン・ヴェーベルンが死んで横たわっている、その同じ部屋に立っていたのだ。そこには、「関係当局」によって行われた「調査」について話す男がいた。では、その検死報告、あるいはその「事件」に関連した何らかの文書は、どこにあるのだろう?
さらに多くの疑問が生じ、それが調査の全段階を通じて私を支えてくれた信頼の念につきまとって私を悩ませた。私は徐々に、目に見えないesprit de corps[団結心]が広がっているのではないだろうか、誓約や暗黙の合意があの将校チームのメンバーたちを無口に、責任回避的にしているのではないか、と疑い始めた。彼らのまばらな反応、素っ気ない発言、そして多くの場合の完全な沈黙が、その疑念を裏付けているように思われた。結果を集計してみると、連絡を取った全員のうち返事をくれたのは、最終的には半数にも満たなかった。残りの者は、回答として沈黙を選んだのだ。私が何よりも恐れていたのは、このようなつかみどころのない障害なのであった。沈黙という謀略を克服するのは不可能だろう。私は敗北を認めなければなるまい。
そろそろ12月も半ばを過ぎようとしていた。休暇前シーズンの慌ただしさと興奮の中で、プロジェクトは棚上げを余儀なくされた。降臨節の時期は喜びと平和の到来を告げる。まるで魔法のように、日々の奮闘が次第に消えていく。アントン・ヴェーベルンの死は、一時的に忘れられた。
クリスマスの郵便物の堆積の中に、一風変わった封筒が私の目を引いた。そこには際立った独創性と趣味の良さが表現されていた。差出人の名前と住所はこう読めた。アレン・F・ハールバート、ベネディクト・ヒル・ロード、コネチカット州ニューカナーン。その町の名前は、聖地という内なる意味を想起させた。最初の将校名簿の末尾にハールバート氏の名前が載っていたことを思い出し、彼の住所が変わっていることに気づいた。
手紙の日付は1959年12月22日であった。読んでいくうちに、ここに真実への道が用意されていたことがすぐに分かった。その自覚が私を大いに興奮させた。再三再四、この手紙に満ちている有望さと含意とを吸い上げつつ、私は一語一語を検討した。
親愛なるモルデンハウアー博士
私個人はアントン・ヴェーベルンの死に関するいかなる出来事も思い出せませんでしたが、第242歩兵隊の下士官兵の一人に確認してみました。あの状況についての彼の曖昧な記憶に基づき、あなたのご質問に答えられると思われる、連隊の別の隊員を見つけ出しました。
彼から隅々まで詳細を聞く機会はありませんでしたが、大まかに言うと、ミッタージル周辺で銃撃事件があり、アントン・ヴェーベルンはその犠牲になったということです。この銃撃事件は闇取引に関連したものでしたが、この件においてはヴェーベルンは無実の犠牲者であったことを、私は確信しています。
私は来週マーティン・ハイマンと会うことになっています。我々の連隊に配属されていた通訳で、あなたが求める情報を持っている男です。どうやら彼はこの事件に非常に密接に関わっていたようで、何らかの文書記録を持っている可能性さえあります。私は彼と話をした後で、さらに詳しいことを手紙に書くか、彼からあなたに直接情報を伝えさせるようにするつもりです。
敬具
アレン・F・ハールバート
クリスマスの週は過ぎ去り、新しい年がドアの前に立っていた。真夜中を寝ずに過ごしながら1960年の敷居をまたいだとき、私たちは重要な出来事が待ち受けているという強い予感に襲われた。期待、いや熱望とさえ呼べそうなものが、奇妙な興奮を呼び起こしていたのである。
アレン・ハールバートの手紙の調子には、何かしら私に自信を抱かせるものがあった。有力な情報の鍵を握っていて、何よりもその知識が他人と共有されるのを見たいという気になっているような人間が、そこにいた。ハールバートの関係筋である元連帯の通訳は、同じように協力してくれるだろうか?
それほど長く待つ必要はなかった。かさばった封筒が、ニューヨーク市から航空便で届いたのである。1960年1月5日の郵送日付が入った、証明付きのものであった。無地のマニラ封筒で、スパイス調合会社の商標が見えている。会社名の上には、送り主の名前がタイプされていた。M・U・ハイマン
マーティン・U・ハイマンとはいかなる人物か少し後、私は彼の身の上と人となりについて、やや詳しく本人から教えてもらった。それらは、その後に彼が書いてくれた複数の手紙で明かされたものである。人物像と背景が前もってはっきりするように、それらの手紙からのわずかな抜粋をここで引用しておこうと思う。
「私の家系は代々ヴュルテンベルク州ボッフィンゲンに住んでおり、私はシュトゥットガルトに住んでいました。名前の2番目の「n」は、アメリカ市民になったときに削除されました……。†
†訳注「名前の2番目の「n」は……」──本名はMartin U. Heimannなのだろう。本書ではMartin U. Heimanと、最後のnが一つだけである。
あなたの友人ルドルフ・ガンツは、私の父と同じくらい良好な健康状態にあるようです。父は、現在80歳を超えているけれども、元気いっぱいです。父は、昨年イスラエルとドイツに行ったばかりなのに、今年の夏にはまたドイツに戻るつもりでいます。彼は60歳で合衆国に来て、ニュージャージー州レイクウッド近郊で養鶏業者となり、今もそこに住んでいます。母が1958年に他界したため、現在父は独り身です。しかし、私の親戚たちもまだその養鶏場にいます……。
妻と私は、二人ともイスラエルにそれぞれ一人の兄弟がいるので、5月と6月にイスラエルとヨーロッパに行くつもりです。ラマタイムにある私の兄弟の養鶏場(と孵化場)に、たまたま彼らも一緒にいます。私は4週間しか留守にできず、南ドイツで五日間を過ごす予定ですが、主としてWiedergutmachungs-und Rückerstattungs-Angelegenheiten[補償と返済の用務]のためです。もし一日の時間があれば、南下してツェル・アム・ゼーとミッタージルまで行くつもりです。そこにはたいへん仲の良い民間人の友人たちがいて、私は今でも彼らと連絡を取り合っているからです(ツェル近郊のブルック)……。
詩は私の好きなものの一つです。学校で習った詩は全部、それにその他たくさんの詩を、私は今でも覚えています。アメリカ陸軍の基礎訓練の間、2時間2回の巡回警備をしながら、私はよくドイツの詩を暗唱して時間を潰したものでした……。
私自身は音楽楽器は何も演奏しませんが、音楽は楽しんでいて、定期的にオペラに行っています……。
私は、アルベルト・シュヴァイツァーを『人類の生きた良心』、現在生きているほぼ最高の偉人と考えています。私がP・カザルスを称賛するのは、芸術だけでなく、その勇気ある政治的独立と結果も理由となっているのです……」
これらの無作為な抜粋が、その情報が極めて重要な真実をもたらした人物の印象を伝えるのに役立つかもしれない。妻が傍らに立った状態で、私はその封筒を開き、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた大きなタイプ打ちの紙4枚を取り出した。そこには、署名され、宣誓され、認証された3枚の宣誓供述書と、ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴェーベルン(故アントン・フォン・ヴェーベルンの妻)の供述という見出しを持った、こちらもタイプで打たれた1枚の追加ページとがあった。この4枚の紙はホッチキスで綴じられていた。
この書類には1通の手紙が添えられていた。はやる思いで、私たちはまずそちらを読んだ。
1960年1月5日
拝啓
アントン・フォン・ヴェーベルンに関して
コネチカット州ニューカナーンのアレン・F・ハールバート氏宛1959年11月30日付の貴信にお答えすべく、1945年9月15日オーストリアのミッタージルでのアントン・フォン・ヴェーベルン死亡の周辺状況についての宣誓供述書を、謹んで同封させていただきます。
私は、この悲劇的な事件は関係者たちの間でよく知られていると、またA・フォン・ヴェーベルン氏の未亡人やその家族は、彼の遺産について所轄官庁と何らかの取り決めをしたのだろうと思っていました。
私の証言が、A・フォン・ヴェーベルン氏の死の状況についての何らかの信憑性の高い疑惑を払拭する一助となれば、たいへんうれしく思います。
アレン・ハールバート氏が私の宣誓供述書の原本を送るでしょうが、私は署名と認証のあるコピーを同封します。
敬具
マーティン・U・ハイマン
それから書類の内容が明らかになるにつれ、悲劇的な感覚が私たちを包んでいった。この運命は、どういうわけか避けられないもののように思われた。そこには運命の刻印が押されていた。それは、力と、古典的な壮大さおよび均衡を持ったドラマであった。恐怖が詰め込まれ、最後を凶運で飾られ、古代ギリシャがよく知っていたのと同じ隠された源泉に端を発するドラマ。そこでは、時間・場所・行動の統一性が支配している。その論理は容赦がなく、その災難は人間の理性に左右されない。ヴェーベルン自身は、古代芸術が人類の古くからの問題を描いてきたその力に気づいていた。彼はギリシャ悲劇の愛好家で、その模倣者たち、詩人ヘルダーリンやリルケのような、なおもその衣鉢を継いで創作する後世の信奉者たちを、変わらず偏愛し続けた。今や彼自身が、ソフォクレスの時代なら神託と憤激を引き起こしたであろう、そんな筋書きの中心に据えられたのだ。
キリスト教の経験にも似たものがある。それは受難のドラマを構成する出来事に描かれている。聖金曜日の影が迫る。闇が大空を支配する。運命は曲がらない。人間の魂は悲痛な苦悩の中で絶望する。諦めることでしか救いは得られない。優しき死、平和である死。すべての苦しみは、最後の叫びとともに自然に解決する。「終わった」
この類推には根拠がある。すべての信頼できる報告から、アントン・ヴェーベルンは非常に信心深い人物、エルンスト・トッホが言ったように「最も信仰の厚い人間の一人」であった。彼は敬虔なカトリック教徒であり、木や花や、何よりも山のような、自然の中の美しいあらゆるものの崇拝者であった。かつてロバート・クラフトは、ヴェーベルンの個性のこの側面を、適切に選ばれた言葉で表現した。「私は、キリスト教徒としてのヴェーベルンのことはほとんど知らないが、彼にとっては宗教は規則を意味したということは知っている。彼の一生は、最も強く、最も不変な規則の探求である。彼の宗教性は、自然の中の神への崇拝と、キリストの悲劇に対する強烈な原始的感覚との化合物である。そのことは、彼のテキスト選択を見れば分かる。それらはすべて、ゲーテ的な汎神論のようなものか、さもなくば、チロル地方の至る所で見られるような、道ばたで悲劇を思い起こさせる十字架と同じくらい飾り気のない、キリスト教の民衆的なテキストなのである」
ハイマンの文書を読んだとき、私たちの心を動かした思考はこのようなものだった。その全文をここに紹介する。
宣誓供述書
関係者各位
署名者である私、ニューヨーク市フラッシング65、第186ストリート58-37、マーティン・U・ハイマンは、本文書により、以下の事項に関する私の知識について自ら進んで証言する。
1945年9月15日、オーストリアのミッタージルにおいて、アントン・フォン・ヴェーベルンが死亡した際の周辺状況
当時、私はアメリカ陸軍、軍情報部、第168戦争捕虜尋問班の一員で、第42(レインボー)師団第242歩兵連隊に配属されていた。1945年1月初旬から、私は第242連隊の戦争捕虜尋問者として活動し、休戦後は連隊担当領域全体の通訳兼調査員として活動した。
私は、連隊本部および本部中隊の全将校だけでなく、本部中隊の多くの隊員たちとも親しくしていた──1945年9月とそれに続く数か月、私はオーストリアのツェル・アム・ゼーにいるCIC(対敵諜報部隊)と緊密に協力していた。
1945年9月15日土曜日の夜、私はミッタージルのレストランで行われた第242本部中隊†のダンスパーティに参加した。午後10時頃、私は、私がよく知っている本部中隊のコック†に呼ばれて外に出た。──彼は、闇商人ベンノ・マッテル逮捕の手伝いをするため、近くの民間人の家まで付いてきてほしい、またその関連で発生した銃撃事件について通訳を務めてほしいと頼んできた。
†訳注「第242本部中隊」──「242」は歩兵連隊の番号だと思うが、ここでは確かに「the 242nd Hq. Co.」と書かれている。
†訳注「コック」──軍の料理番だろうが、彼が一等兵であったことが下のマリー氏の証言に述べられている。軍事行動にも携わったようである。
そこに着くと、私は、マッテル氏を監視下に置いている本部中隊第242歩兵隊の先任曹長に会った。
ところがその一方では、同じ家の中の、1階のマッテル氏が拘束されていたキッチンの反対側で、新しく負った銃創で死んで横たわっている男性がいたのである。それは、ヴィーン出身の現代音楽の教授、アントン・フォン・ヴェーベルンであった。その妻、ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴェーベルンは、完全に茫然自失の状態で傍らに座っていた。娘のマッテル夫人も一緒にいた。
やがて、もっと多くのアメリカ陸軍の人間たち、将校や医師たちが到着した。──そこにいた上官の指示により、私はマッテル氏だけでなくマッテル夫人も拘束しなければならなかった。彼女には、夫がもくろんでいた、あるいは実際に行っていた闇取引の、共犯者の疑いがかかっていたのだ。しかしながら、二日後、私はツェル・アム・ゼーのCIC隊長リチャードソン氏(大尉?)の同意を得て、彼女をミッタージルの刑務所から釈放させることに成功した。
第242歩兵連隊長コーム大佐は、我々の大隊長三人のうちの一人、元連隊付作戦将校(S-3†)カニンガム少佐を銃撃事件の調査担当者に任命した。
†訳注「S-3」──参謀システムの記号。Sは「陸軍または海兵隊用」、3は「軍事行動」。
カニンガム少佐と彼の部下の中尉は、アントン・フォン・ヴェーベルン氏の死について、非常に能率的、迅速、かつ──私見では──公正な調査を行った。それは1945年9月17日にほぼ終了し、W・フォン・ヴェーベルン夫人は何の圧力もなく自発的に供述書に署名し、私はそのコピーを記念として保存した。その英訳のコピーを添付する。
調査の間、私はドイツ語を話す証人たち、特にフォン・ヴェーベルン夫人と面して通訳を務めた。また、ベンノ・マッテルの逮捕(とA・フォン・ヴェーベルン氏の死)に関わった先任曹長やコックと、じっくり話す機会もあった。
第242連隊の将校の許可と、ツェル・アム・ゼーのCIC所属リチャードソン氏の事前の承諾を得て、先任曹長とコックはベンノ・マッテルの闇取引活動を罠にかける許可を与えられたことが判明した。──何週間も経ってから、ツェル・アム・ゼーのフリードマン中尉のもとで行われたアメリカ軍政部法廷でのマッテルの裁判で、リチャードソン氏はその旨を証言した。また、二人のアメリカ兵が、その目的のためリヴォルヴァーの携帯を特別に認められていたことも明らかにされた。
この裁判では、ベンノ・マッテルは闇取引活動のために1年間の懲役刑を受けた。しかし、アントン・フォン・ヴェーベルン氏の死は、裁判それ自体の対象にならなかった。
先任曹長とコックは、何らかの情報源を通じて、マッテルが実際に闇商人をしていたか、そうなる見込みがあるということを以前に知り、彼と連絡を取ったのであった。
その後、権限のある将校たちの事前の許可を得て、1945年9月15日、本部中隊第242連隊の物資からの食料を持ってマッテル氏の所に行った。いくばくかの話し合いの後、食料や資材の価格が合意され、マッテル氏はその代金を払おうとした。──その直後、二人のアメリカ兵はピストルを抜き、協力するふりをやめて、驚いているマッテルを逮捕した。
ここで明記されるべきは、関係したコックは、──私が知る限りでは──性格は悪くなく、時には役に立つこともあったけれども、通常時でさえ非常に神経質で、容易に刺激を受け興奮しやすい人間であった、ということである。
マッテル氏が捕まった後、コックは、署名者†を連れてくるために近くのレストラン(本部中隊のキッチンもそこにあった)に行こうとして、1階のその部屋(キッチン)を出た。そうすれば、私がマッテル氏を正式に拘束して地元の留置場に入れ、さらなる処分を待つことができる。
†訳注「署名者」──この供述をし、署名をした自分(=マーティン・U・ハイマン)、の意。
コックは、──すでに非常に興奮した状態で──玄関に通じる廊下と家から暗闇の中に出ると、すぐに人影と衝突して、その者から自分が攻撃されたと感じた。彼は「正当防衛のために」3発発砲し、署名者を呼ぶためにそのままレストランに進み続けた。
負傷した男性はアントン・フォン・ヴェーベルン氏であることが判明し、その後間もなく死亡した。──添付の彼の妻の宣誓証書にも見られるように、彼はただ、事前に義理の息子B・マッテルにもらったアメリカ葉巻を吸うために、廊下を挟んだ部屋からやって来て、少し前に家の外に出ただけだった。
彼は、廊下を挟んだキッチンでの出来事など知る由もなかった。彼あるいは彼の妻は、義理の息子が実際に闇商人になっていたか、そうなる見込みがあったことを、いかなる時点においても知らなかったのである。
さらに言えば、マッテル氏と二人のアメリカ兵の会談中に占拠されていた1階のキッチンで何が起こっているのかを観察することは、家の外からでは不可能だった。──外からでは光がほとんど見えないほど、遮光カーテンがぴったりと引かれていたのである。
発砲そのものを目撃した唯一の生存者は、発砲したコックであった。もちろん、彼は正当防衛を主張しており†、事件のとき、彼は感情が高ぶった状態にあって、自分が攻撃されたと思い込んだのは間違いない。
†訳注「彼は正当防衛を主張しており」──彼は審問の中で、自分の脛骨の上の傷を見せ、ドアを開けて暗闇に歩み出したとき自分を驚かせた男によって負わされたものだ、と主張した。しかし、その場にいた人々には、その傷がそんなにすぐに治ることはまずありそうにないと思われた。
カニンガム少佐の報告書が、彼の発砲が無罪なのか有罪なのかについてどう記述していたのか、私は知らない。しかし、調査が終わって間もなく、彼の営舎への監禁は解除された。彼は数か月後にアメリカに戻るまで、再びキッチンで働いた。
また、その調査報告が、A・フォン・ヴェーベルン氏の役割についてどう記述していたのかも、私は知らない──彼の妻の証言を除いては。しかし、私の知る限りでは、A・フォン・ヴェーベルン氏よりも頭二つ分ほど身長が高かったコックの証言を除けば、氏がコックを攻撃したという証拠はまったく存在しなかった。
私はこの事件をよく知る将校たちと話をしたが、フォン・ヴェーベルン氏がこの件に関して何か罪を犯したと信じる者はただの一人もいなかった。私の見解では、彼が完全に無実の第三者であったことは確実である。
ほとんど誰もがこの悲劇を心苦しく感じており、彼が生前は傑出した人物であり芸術家であったことが漠然と知られるようになってからは、特にそうであった。
そして、あえて言えば、私はヨーロッパの休戦後、ザルツァハ渓谷上流部やチロルで調査官として何人もの人間を調べ、逮捕し、その中にはナチスの高官、さまざまなナチス親衛隊将校や下士官、ドイツ陸軍将校などがいたが──私はリヴォルヴァーを携帯していたにもかかわらず、武器で誰かを脅す必要があると思ったことは一度もなかった。
ツェル・アム・ゼーのCICのリチャードソン氏は、後に彼自身の班のメンバーたちについて、同じ経験を私に語ってくれた。
マーティン・U・ハイマン
1959年12月28日、以上は
私の面前で署名・宣誓された
 デイヴィッド・パーレス
ニューヨーク州公証人
 第31-3063100番
ニューヨーク郡にて資格を取得
資格有効期限1961年3月30日
マーティン・ハイマン自身の報告書に添付されていたのは、ヴィルヘルミーネ・ヴェーベルンによって作られた供述書であった。それは英語に訳されていて、その翻訳版の形で、悲劇の二日後に行われた取り調べの際の諸記録の一部となった。少し後になって、マーティン・ハイマンはドイツ語原文も私に提供することになったが、当時彼は自分のためにそのコピーを取っていたのである。
この文書の全文は次のとおりである。
ミッタージル、1945年9月17日
ヴィルヘルミーネ・ヴェーベルン(故アントン・V・ヴェーベルンの妻)の供述
私は1886年7月2日に生まれ、現在はブルク=ミッタージル31番の家に住んでいる。
亡夫と私は、夫が音楽学校の教授として教鞭を執ることになっていたヴィーンにすぐ戻るつもりだった。ロシア軍は、ヴィーンにあった私たちの所有物を何もかも持ち去り、また破壊した。
9月15日、夫と私は義理の息子と実の娘クリスティーネ・マッテルに夕食に招かれた。私たちはミッタージル101番の彼らの家に、20時頃に到着した。義理の息子ベンノ・マッテルは、夜遅くにアメリカ人が来ることを私たちに伝えた。21時頃に彼らが着くとすぐ、夫、娘、私は隣の部屋に行った。そこでは子供たちが眠っていた。
21時45分きっかりに、夫が、すぐに自宅(31番の家)に帰らなければならない、22時30分に着かないといけないから†、と言った。彼は、その夜義理の息子からもらっていた葉巻を吸いたくなった。彼は、それをほんの少しだけ(einige Züge[ほんの一服])、子供たちに迷惑をかけないよう部屋の外で吸いたかった†。彼が部屋を出たのはそれが初めてだった。──
夫が部屋を出てほんの2、3分で、3発の銃声が聞こえた。私はとても恐ろしかったが、夫が巻き込まれているかもしれないとは少しも思わなかった。
そのとき、私たちがいる部屋のドアが夫によって開かれた。彼は「撃たれた†」と言った。私は娘と一緒に彼をマットレスの上に寝かせ、彼の服を開き始めた。夫はまだ「もうだめだ」(es ist aus[もうだめだ])という言葉を言うことができたけれども、意識を失い始めた。私は、お腹の左側の胃の位置に外傷が一つあるのを見ただけだった。
私は娘に何か手当てをするよう頼み、頭に冷たい包帯を巻くよう提案してから、助けを求めるために部屋の外に出た。キッチンのドアが開いていて、中で義理の息子が両手を挙げて立っているのが見えた。それから2階に上がって、住民†に医者を連れてくるよう頼んだ。
私が階下に降りると、夫は子供たちと一緒に部屋で一人で横たわっており、死の兆候を示していた。──そのときにはもう、娘もまた手を挙げてキッチンにいた。
私はすぐに一人のアメリカ人に医療援助を求めた。彼は、もう誰かが行ったと答えた。──その後、さらにアメリカ人たちが来て、私はキッチンに連れていかれ、座るよう言われた。
夫は病み上がりで、体重はおよそ50キロ(110ポンド)しかなかった。身長はおよそ160センチ(5フィート4インチ)である。私の信じるところによれば、誰かを、特に兵士を攻撃するなどということは、彼の性質に反することである。
(署名)ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴェーベルン
†訳注「22時30分に着かないといけないから」──22時30分以降は民間人は外出禁止だった。ヴェーベルンはそれを知っていたことになる。
†訳注「子供たちに迷惑をかけないよう……」──実は、孫たちに迷惑をかけないよう外で吸うことを提案したのは、ヴィルヘルミーネ夫人であった。そのことで彼女が自責の念に苛まれていたことを、後にこの家のオーナーであったフリッツェンヴァンガー夫人が語っている。
†訳注「撃たれた」──ドイツ語は「Ich wurde erschossen」
†訳注「住民」──この家は、1階の部屋とキッチンをマッテル一家が間借りしており、家主のエルジー・フリッツェンヴァンガー夫人とその息子は2階で暮らしていた。1995年10月にフリッツェンヴァンガー夫人の息子へのインタヴューが行われ、その模様はイタリアのドキュメンタリー番組《ヴェーベルンのため生きることは形を守ること》(1995)に収められているという。インタヴューの一部は今年(2021年)出たばかりの書籍『ヴェーベルン事犯罪の再構築』(ダリオ・オリヴェーリ著、クルチ出版社、2021)にイタリア語で文字化されていたが、彼の発言内容には特に新しい情報はなかった。……そのインタヴュー部分を訳して下の「解説」の中に入れておいた。イタリア語なのでまったく自信はないが、大きな誤訳はしていないと思う。
マーティン・ハイマンにヴィルヘルミーネ・ヴェーベルンの署名が入った原本の所在について尋ねたところ、彼はこう答えた。(23)
原注23:1960年2月6日付書簡。
「フォン・ヴェーベルン夫人の供述の原本は、第42師団の第242歩兵連隊の諸記録と一緒にあるはずです。しかしながら、あなたがお持ちのコピーは、フォン・ヴェーベルン夫人が署名した原本から取ったものです。それは同時にタイプされました」
マーティン・U・ハイマンは、自分の宣誓供述書のカーボン・コピーだけを私に送ってきていたが、それはインクによる彼の署名入りで、正式に公証人が認証したものだった。その二日後、アレン・F・ハールバートは、同じように署名と宣誓がなされた文書の原本を私に渡した。ハールバート氏は、以下のように書かれた自分の手紙を添えていた。(24)
原注24:1960年1月5日付書簡。
親愛なるモルデンハウアー博士
私は、添付されたマーティン・U・ハイマンの宣誓供述書が、アントン・フォン・ヴェーベルンの死の謎を解き明かしてくれると信じています。
ご覧のように、彼にはこの問題について直接の報告をする資格が十分にあります。あなたはこの資料を、どのようにでもお好きなように使用することができます。
もしさらなる情報や支援が必要な場合は、遠慮なく私にご連絡ください。あるいは、マーティン・U・ハイマンに直接手紙をお書きになってもかまいません。
敬具
アレン・F・ハールバート
ハイマンの文書の信頼性についてコメントするのは、いかにも無駄なことのように思われるだろう。この証言は真実味を帯びているし、目撃者の正確さを示している。ハイマンは完全に自発的に宣誓供述をした。彼には、そうすることで自分が知っている範囲の正確な事実が立証されるのを見る以外の動機はなかったのだ。
事実がある場所では、解釈の準備が整っている。アントン・ヴェーベルン自身は、どう見ても、この危機に至った複雑化した出来事には関与していなかった。コックと暗闇で衝突したとき、彼はその長身の男をつかんだかもしれないし、つかまなかったかもしれない。人が突然足を振り払われたら、何かつかめるものにしがみつこうとするように。そのとき、間近で誰かと接触したコックが、自分が攻撃されたと感じたとしたら、それもまた理解できる。彼にしてみれば、過酷で長期間にわたる戦争が終わったばかりで、いまだに敵対的な異国の地にいたのだ。気がつくと、彼は見知らぬ人間の家で、特別な任務に従事していた。彼にとって、それは職務執行を意味し、しかも危険がないとは言えないものだった。彼の神経は高ぶっていた。暗闇の中で自分にしがみついてきそうな男に出くわしたとき、彼は攻撃されるとしか考えられず、それと同じ衝動によって、自己防衛することしか考えられなかった。こうして彼は反応した。
かくてヴェーベルンは、彼自身は無実で何も知らぬまま、他人によって呼び出された運星に捕らえられ、単なる傍観者として殺されたのである。その致命的な状況自体は、従来ほのめかされていた大半の報告が伝えるような、単なる盲目的な事故ではなかった。ハイマンの文書は、外出禁止令違反や流れ弾などのような、反論もなく広まっていた多くの説を消散させる。最終的に、実際に大惨事の可能性を証明した不運な状況の組み合わせは、次のようなものだった。ヴェーベルン夫妻がマッテル家の夕食に招待されたのは、アメリカ兵たちがそこに来ることになっていたまさにその晩だった。本質的に、アントン・ヴェーベルンの死の真の悲劇は、彼の親族の一人の自発性と行動に、彼が知らず知らず関与したことにある。皮肉なことに、彼の運命は、運命の分かれ目となったわずか数分の長さの間に、眠る子供たちに葉巻の煙を吸わせないためにドアの外に出たという、愛情溢れる思いやりの行動によって決定されてしまったのである。
ハイマンの文書は、ヴェーベルンの死に関する以前の物語の誤りを十分に指摘していた。それでもなお、宣誓供述書を最初に読んだときから、その報告が完璧に何もかもを備えたものでないことは明らかだった。表面上、ハイマンの報告では、中隊のコックの名前も先任曹長のそれも明かされていなかった。動機が何であれ、それらの名前が意図的に伏せられた可能性がかなり高いように思われた。しかし、記録を完成させるためには、この二人の身元は不可欠なものであるだろう。実は、私はすでに、アントン・ヴェーベルンを撃った男に会ってみようかと、ぼんやりと考えていたのだった。
早速マーティン・ハイマンに、歴史的正確さが要求されるという口実のもと、その二人の名前がないことについて尋ねてみた。また、ヴィルヘルミーネ・ヴェーベルンの供述のドイツ語テキストも求めてみた。返信された手紙で、ハイマンは私の要求に応じてくれた。(25)
原注25:1960年1月12日付書簡。
「1月8日の懇書に、取り急ぎお返事いたします……。1945年9月17日にフォン・ヴェーベルン夫人により署名された、ドイツ語供述書のコピーが同封されているのにお気づきになるでしょう。私も友人に問い合わせて知ったのですが、コックの名前はベルでした。残念ながら、私は先任曹長の名前を覚えていないのですが、第242歩兵連隊の陸軍記録を見れば分かるはずです。もしかすると彼の写真を見つけられるかもしれませんので、そのときはそれをお送りいたします……」
マーティン・ハイマンは、本当に先任曹長のスナップ写真を捜し出した。そこには、部隊が近くのブルックに駐留していた1945年の同じ秋の、その兵士が写っていた。ハイマンは自分の写真も送ってきた。軍服を着ている彼を撮ったもの、戦後、妻や子供を持つ家庭人としての彼を撮ったもの。知性と優しさが彼を特徴づけていた。
マーティン・U・ハイマン
マーティン・U・ハイマン
そのときには、コックの姓がベルであることは分かっていたが、私はまだ満たされなかった。その男のファースト・ネームと所在地も、同じように必要不可欠なのだ。1月16日、私は再びハイマンに、二人の男の身元確認について助力してくれるよう頼んだ。彼の回答が届くまで、3週間以上が経過することになった。(26)
原注26:1960年2月6日付書簡。
「フォン・ヴェーベルン氏に発砲したコック、ベル氏のファースト・ネームは、フランクだったと思います。ただし、私に確信があるわけではありませんし、私の知り合いのほかの誰もそれを覚えていないでしょう。件の先任曹長は、1945年9月15日の銃撃事件当時、第242歩兵連隊本部中隊の一員でした。ところが、この男は発砲に直接関わってはいなかったのです。彼はただ、闇取引活動について、フォン・ヴェーベルン氏の義理の息子ベンノ・マッテルを罠にかけようとしただけでした……」
二人の名前について、ハイマンが当てになるかどうか分からなかったため、上の手紙が届くまでの間、私はもう一度自力で道を切り開こうとする行動に出ていた。アメリカ陸軍の、忍耐力と、民間人の自発性との協調能力とを再び試したわけだが、これが最後の機会となった。1月21日、私は次のような手紙を投函した。
AGCC-SC-A関係
 (59年11月5日)
陸軍省本部
陸軍総務局長事務所
アメリカ陸軍記録センター
ミズーリ州セントルイス14
ユージン・S・ター大佐
 指揮官 宛
拝啓
11月17日に上記の件についての貴信を受け取っており、あなたの支援が私たちの調査に最も有用であることが証明されました。一方、陸軍総務局長R・V・リー少将が追加の名簿を提供してくれました。
この重要な問題に関する私たちの情報を完全なものとするためには、第42師団第242歩兵連隊本部中隊の先任曹長のフルネームと、ベルという姓を持つその部隊のコックのファースト・ネームをさらに知る必要があります。可能であれば、入隊当時に知られていた彼らの自宅の住所も、どうかお教えください。現住所の記録を取り続けているとは思えませんので。
この件についてご協力いただければ幸いです。
敬具
ハンス・モルデンハウアー
私はこの手紙を、これは記録センターの協力能力にかなりの負担をかけるだろう、というはっきりした感覚を抱きつつ発送した。全将校の名簿が参照しやすいようにファイリングされるのはいかにもありそうだとしても、それは下士官や、ましてや一般の志願兵ではまずありそうにないと即座に思われた。第二次大戦中に軍隊で勤務に就いていた者全員の記録は、どこかにきっとある。しかし、戦時中の軍隊の紙の山の中から、たった一つの中隊のファイルにすぐにアクセスできると期待するのは、おこがましいことではないだろうか問題に真っ正面から取り組むために私が求めていたのは、問題当時から15年、何百万人もの兵士の中のたった二人の名前であった。自認していたのだが、これはアンクル・サム†にそうとう大きな期待を寄せていたということである。
†訳注「アンクル・サム」──合衆国政府の俗称。
アメリカ陸軍記録センターは、この究極の挑戦に対し、完全に対応できることを自ら証明してみせた。あたかも反応が遅く排他的な官僚制度という昔から民間に伝わる概念を打ち砕くかのごとく、迅速かつ冷静にこの問題を解決してのけたのだ。マーティン・ハイマンが、ベルのファースト・ネームはフランクだと思うと伝えてきたのとちょうど同じ日に、私は陸軍省と記されたおなじみの新しい封筒を受け取った。その中に入っていた手紙は簡潔で要領を得たものだった。
1960年2月5日
親愛なるモルデンハウアー博士
1960年1月21日の貴信でご依頼いただきましたとおり、第242歩兵連隊本部中隊の元隊員2名の氏名と最後の住所を以下に記載しました。彼らがあなたがお調べの人物であると思われます。
レイモンド・N・ベル
ノースカロライナ州マウントオリーヴ†
アンドリュー・W・マリー
チャプライン・ストリート1511
ウェストヴァージニア州ホイーリング
敬具
J・ハバード
大佐、AGC
指揮官
†訳注「ノースカロライナ州……」──最後のマリーまでの計26名のリストのうち、このコックの住所だけは通りの名前や番地が書かれていない。これだけで手紙が届くのか、あるいはヴェーベルンを撃った張本人だけに著者が意図的に省略したのかは分からない。
この報告書を読んだとき、人の大海の中から二つの紛れようもない個体が浮かび上がり始めた。彼らはもはや兵士ではなく、軍の階級も整理番号も剥奪されていた。彼らは突然、自宅の住所を持つ民間人になっており、その住所は容易に行ける範囲に彼らを置くものであった。二人の男が、過ぎ去った15年の歳月の靄の中から、またはるか背後に置き去られた場所や出来事の暗がりの中から、進み出てきつつあったのだ。歴史を記録したフレスコ画の中で所定の位置に着くために、前に出つつある二人の人間。
陸軍記録センターからの最後の手紙とほとんど同じ日に届いたのだが、1945年9月15日にミッタージルに駐屯していた陸軍部隊の将校たちに送られた同文の手紙、私の最初の照会への回答の中に、遅刻者がいた。その遅れた返事の送り主は、アメリカ陸軍大佐、そのときは退役生活を送っていたノーマン・C・コームであった。コーム大佐は、ハイマンの文書にも見られるように、重大な時期に第242歩兵連隊の隊長を務めていた。大隊長のカニンガム少佐に、銃撃事件の調査の指揮を執るよう命じたのが彼であった。コーム大佐の手紙の本文は次のように読めた。
カリフォルニア州エンシニータス
1960年2月1日
親愛なるモルデンハウアー博士
オーストリアのミッタージルのアントン・ヴェーベルンに関するお問い合わせの返事が遅れたことを残念に思いますが、私はちょうど旅行から戻ったところなのです。──
すみませんが、私ではヴェーベルン氏の死亡に関するいかなる情報も差し上げることができません──私は、その名前も、ミッタージルでそのような事件が起こったことも覚えていませんし、年月が経過する間に、あなたに手紙を書くことが勧められそうな相手を考えることができなくなっています。申し訳ありません。
敬具
ノーマン・C・コーム
アメリカ陸軍大佐退役
マーティン・U・ハイマンは、始終最高の援助を示してくれていたが、最後まで支援をしてくれた。2月11日、私は彼に、コックと先任曹長の名前が彼の記憶と一致するかどうかを尋ねた。彼の回答は、彼が知るすべてのことを含んでいた。
1960年2月20日
親愛なるモルデンハウアー博士
写真を同封した最後の手紙を出した後で、2月11日付のお手紙を受け取りました。写真同封のものは、その間にあなたに届いたと思います。
ミッタージルでA・フォン・ヴェーベルン氏に対して発砲した、第242歩兵連隊本部中隊のコック、ベル氏のファースト・ネームを、私は思い出せておりません。
しかし、彼のファースト・ネームは覚えていないものの、事件に関与した先任曹長の姓がマリーであったことは、今なら追認することができます。──最後の手紙と一緒に、ツェル・アム・ゼー近くのブルックで、事件の数週間後に撮影した彼の写真をお送りしました。
フォン・ヴェーベルン夫人が署名した供述書の原本は、第242歩兵連隊隊長のコーム大佐のためにカニンガム少佐によって行われた調査の、ほかの文書と一緒にあるはずです。──自分としてはその原本をあなたが入手できるかどうかは疑問なのですが、私があなたにお送りしたコピーは、私が同時にタイプしたものであることを繰り返しておきます。
敬具
マーティン・U・ハイマン
5章 コーダ
「ダヴィデはオリーヴ山の上り坂を登り、登りながら泣き、頭を覆い、裸足で登った。彼と共にいたすべての人々も皆頭を覆い、登り、登りながら泣いた」
(サムエル記下、15-30)
オリーヴ山はエルサレムの東の尾根である。旧約聖書ではダヴィデがその町から逃避するときの場面として、新約聖書ではイエスがよく訪れた場所として、記述されている。西側の斜面にはゲッセマネの園がある。そのオリーヴの木立は、イエス・キリストの苦悶と裏切りの舞台となった。
ノースカロライナ州東部、マウントオリーヴは、人口約3000人、1840年頃に設立されたタウンシップであった。ローリーの南東に位置し、地域社会は、タバコ、綿花、野菜果樹農園地帯の中にある。
レイモンド・N・ベルの名前を知ったとき、私はすぐに、1945年9月15日の夜、銃を撃った男に面会を求めることを決意した。ハイマンの文書で立証された物語に彼が何かを付け加えることは、期待できそうにない。おそらく、彼はこの問題が話題になることさえ許さないだろう。もし許したとしても、彼の話はほぼ確実に「正当防衛を理由に無罪」で終わることだろう。
それでも、私の考えでは、この男に立ち向かうというアイディアは、やむを得ざる必要性に相当したのだ。それは恐ろしくも魅力的な課題であった。アントン・ヴェーベルンが誤射によって死なねばならなかったとすれば、彼はその引き金を引いた人間と永遠に結びついているのである。その男を完全に見知らぬ人間として片づけることはできなかった。
レイモンド・ベルに会いたければ、マウントオリーヴまで赴かなければならないことに気づいた。ワシントン州からノースカロライナ州までの距離は、約3000マイルである。その男がまだそこに住んでいることを保証するものは何かアメリカ陸軍の情報は、ベルの入隊時や除隊時まで遡るかもしれない。当然、まずは手紙で呼びかけてみるべきだ。
しかし、書面ではどんなアプローチを選べばいいのだろうこちらが言えそうなことのほとんどは、その元陸軍のコックに警戒心を抱かせたり、非協力的な気分を抱かせたりする可能性があった。そうなってしまったら、彼は簡単には答えてくれないだろう。
熟慮を要する微妙な状況であった。とうとう私は、さしあたり直接のアプローチを避ける迂回路を思いついた。私はこんな手紙を書いた。
1960年2月22日
市役所
職員様
ウェイン郡マウントオリーヴ
ノースカロライナ州
拝啓
レイモンド・N・ベル氏が貴市の住人であるかどうかをどうかお教えください。彼の郵送先住所と、可能であれば彼の職業を教えていただければ幸いです。
返信用切手を貼った封筒を返信用に同封します。
敬具
ハンス・モルデンハウアー
追伸 本照会につきまして、郡の職員による方がさらに良い回答が得られるようでしたら、どうか郡庁舎の方へご転送ください。
よろしくお願いします。
日々不安を募らせながら郵便配達人を待つ間に、2週間が過ぎた。そのとき、3月8日、ノースカロライナ州マウントオリーヴの切手が貼られた返信用封筒が戻ってきた。アーサー・ゴールドとロバート・フィズデールという素晴らしいピアノ・デュオのチームが、たまたまその時間に我が家を訪れていた。私たちはヴェーベルンの死について話していたのだが、私は早く見たい気持ちを抑え込み、彼らが帰るまで待ってからその手紙を開封した。
字はきれいではっきりしていたが、私の照会に答えたのは市職員ではなかった。その手紙にはこう書かれていた。
ノースカロライナ州マウントオリーヴ
1960年3月5日
拝啓
あなた様の2月22日付のお手紙は、今日私に手渡されました。
私の夫レイモンド・N・ベルについてのお尋ねでした。彼は死亡しております。1955年9月3日にこの世を去りました。私でお役に立てる情報が何かございましたら、喜んで承ります。
敬具
ヘレン・S・ベル(夫人)
その知らせはまったく予想外だった。私としては、ベルが町から出て行ったとか、あるいは住所が完全に分からなくなったとか、そういう可能性を想像して、何らかの否定的な結果をすでに覚悟していたのだ。しかし、彼が死んでいるかもしれないとは思わなかった。先の戦争の間は戦闘部隊の一員だったのだから、今頃はせいぜい中年世代といったところだろう。早死にしたのだとすれば、それは普通でない原因から生じたのではなかろうか。私の空想は、事故や暴力といった荒っぽい憶測の間をさまよった。
ベルの早逝についてのことを知りたいと思わせたのは、好奇心という要因だけではなかった。ベルが、ヴェーベルンの死と自分との関連について妻に何を話していたのかという、獲得されるべきはるかに重要な情報があったのだ。その答えは、今や未亡人だけが持っている。
ベル夫人の手紙に漂う丁寧で安心感を与える調子が、この問題をさらに調べることへの消極性を克服するのに役立った。とはいえ、より重要な疑問を特定した情報提供の希望を彼女に対して提起するとき、私は落ち着かなさを感じた。自分としてはできる限り巧妙にそれをしたのだが、手紙をポストに入れたとき、私は不安を感じずにはいられなかった。
その手紙は3月9日に投函された。その後は、さまざまな疑念や心配に苛まれつつ、そわそわと不安な待ち時間が続いた。私の不安は正しかったのではもしかするとあまりにも多くのことを求めすぎたのではあるまいか家族のプライベートな問題にうかうかと踏み込んで、「物語の裏側」を説明するであろう事実を得るチャンスを決定的に失っているのではなかろうか?
2週間が過ぎ、3週間が過ぎても、返事はまだない。私は毎日、最初の依頼を継続すべきかどうか自問自答していた。私はもう1通手紙を起草した。短い催促状のようなものである。しかしながら、今回は自分の直感に従って、その手紙をくずかごに放り込んだ。
ついに私は、返事を促せるかもしれないと考えた別の方法に頼ることにした。私は特に学問への利益のために情報を求めると表明していたのだから、自分が数年前に書いた音楽関係の本をベル夫人に送るのがふさわしいと判断した。その冊子の紙カバーには、私自身の戦時中の軍務への言及を含む、多少の伝記的注記が書かれていた。私はこの本が、研究員としての私の地位を証明し、催促状としての役割も果たしてくれるだろうと期待した。
その小包は3月29日に郵送され、速やかに反応を誘発した。ベル夫人が回答を提供してくれたときには、私が質問を持ちかけてからまる1か月が経過していた。彼女は航空便で送ってきた。彼女の筆跡の静かな優雅さは、手紙の内容とは完全に対照的であった。
1960年4月7日
親愛なるモルデンハウアー博士
何よりもまずご本のお礼を言わせてください。あなたのご親切には心から感謝しています。
あなたのお手紙にはもっと早くにお返事するべきでしたが、私は病気だったのです。また私は学校教師で、そちらに多くの時間を取られてもいます。
お手紙でお尋ねの情報をお伝えします。夫のミドル・ネームはノーウッドでした。生年月日は1914年8月16日です。私たちには6月に21歳になる息子が一人います。夫の職業はレストランの料理人でした。彼はアルコール依存症で死にました。
事故について、私はほとんど知りません。戦争から帰ってきたとき、彼は軍務中に人を一人殺したと言いました。私は、彼がそのことをかなり気に病んでいたのを知っています。酔うたびに「あの人を殺さなければよかった」と言っていたものです。私は、そのことが彼の病気を引き起こすのに一役買ったと本気で考えています。彼は誰にでも愛される、とても優しい人でした。これもみんな戦争の結果です。とてもたくさんの人が苦しんでいます。私には詳しいことは何も分かりません。
もし私でさらにお役に立てることがありましたら、喜んでお手伝いいたします。
敬具
ヘレン・S・ベル(夫人)
奇妙で不可解な運命は、を別の章に書いていた。この結末を越える突破はなかった。
しばらくして、私はお礼の短信を添えて、ベル夫人のこの情報をさらに利用してもよいかどうかを彼女に問い合わせた。私は珍しい写真を一枚同封した。そこには、巨匠アルベルト・シュヴァイツァーがオルガンの前で静かに音楽に没頭している姿が写っている。隣には、もう一人の同業の巨匠、チェロで有名なパブロ・カザルスが、弟子のように注意深い様子で座っている。
マウントオリーヴの学校教師が私のささやかな感謝のしるしを受け入れてくれたのは、それから間もなくのことだった。彼女は、これまでの手紙を通じて主音のように鳴っていたのと同じ、安らかな優雅さで語っていた。この穏やかなfluidum[雰囲気]の本質は何だったのだろう彼女のそれは、知恵が解き放った魂であり、愛と深い思いやりから生じる共感であった。このような人間の心、殉教者たちや静かな英雄たちの魂には、敬意が払われるべきである。
ヘレン・S・ベルは復活祭の時期に書いていた。気取らない優雅さで、自分が語ったことすべてを公表する許可を与えてくれた。彼女の言葉はこのようであった。
1960年4月20日
親愛なるモルデンハウアー博士
シュヴァイツァー博士とパブロ・カザルスの写真をありがとうございました。私の生徒たちに見せたところ、とても感動しておりました。彼らは、その二人についてさらに知りたがっていました。
夫の軍務時代の写真をご所望でしたね。私はそれと、さらに私が提供したいかなる情報も、あなたの調査プロジェクトに役立つならばどんな方法であっても使用できるという承諾を、ここにお送りいたします。
あなたが幸福な復活祭を過ごせますよう、心からお祈りしています。
敬具
ヘレン・S・ベル(夫人)
レイモンド・N・ベル
レイモンド・N・ベル
ヴェーベルンの死のさらなる背景の歴史を埋めるため、まだもう一つ取るべき連絡があった。話を求められた人間は、第242歩兵連隊本部中隊の元先任曹長であった。彼なら、運命のあの夜、彼と中隊のコックをベンノ・マッテルの家に行かせることになった実際の誘因を提供することができるだろう。
4月13日、私は、ウェストヴァージニア州ホイーリングの住所に宛てて、アンドリュー・W・マリーに手紙を送った。その住所は、セントルイスのアメリカ陸軍記録センターから伝えられていたものである。自分の調査の性質を述べてから、私は次のように要望を表明した。
「……1945年9月15日、あなたが先任曹長としての立場で、チロルのミッタージルにあるベンノ・マッテルの家で認可された調査を行ったことは存じておりますが、ベンノ・マッテルの逮捕に先立つ、またそれに繋がる状況と出来事についてあなたが個人的に説明してくださるならば、ヴェーベルンの死を間接的に引き起こしたその推移の様相をつまびらかにするのに、この上なく役立つことになるでしょう。おそらく、あなたとコックは、ベンノ・マッテルによって闇取引行為が遂行された、または意図されたという事前の情報に基づいてお進めになったのですよね。この問題全体がひどく誤って伝えられている以上、そのような行為や意図を記録に残しておくことは極めて重要なのです……」
その手紙が未配達で戻ってきたときには2週間が過ぎていた。封筒は「見つからない」だの「電話会社に試す」だのといったゴム印や鉛筆書きのメモで覆われていたので、マリー氏の所在を突き止める努力がなされたことは明らかだった。それ以上の試みをすることなく止められてしまうのは嫌だったので、私は、電話帳のイエローページに「所在不明者」を会社の得意分野として広告を打っている、各州連合探偵社を訪れた。支配人のR・O・ウィリアムズは、この問題に耳を傾けた後、合衆国の各州をカバーする提携者の索引に目を通した。しかしながら、ウェストヴァージニア州ホイーリング市の提携先は登録されていなかった。
ウィリアムズ氏は、警察署長か郡保安官に手紙を書いて助力を求めてはどうかと提案した。私はそれに基づいて事を進め、自分の要求を略述し、その具体的な理由を書いた。
1週間後に返信用封筒が戻ってきたが、差出人はホイーリングの警察署長となっていた。ところが、捜している情報の代わりに、手紙にはメリーランド大学の交通事故調査ワークショップへの招待に対する署長の返事しか入っていなかった。挫折感を感じつつ、私はその本来の受取人へと手紙を急送してやり、研究員のこのような小さな試練に思いを巡らした。これが、友人デマー・アーヴィンのような根っからの学者が「追跡の楽しみ」と呼ぶものなのだろうか?
ホイーリングの警察署長に2度目の手紙を書く前だというのに、捜していた当の男が、完全に一人だけで舞台に登場した。1通のビジネス封筒がワシントンから航空便で届いたのだ。それには次のような手書きの短信が入っていた。
60年5/5
拝啓
ホイーリング警察が、4月28日付のあなたの手紙を私に委付してきました。言うまでもなく、私はあなたが私の連絡を希望する理由について知りたいと思っております。
今後の連絡は、私への宛先を下記のようにお書きください。
A・W・マリー様
コンチネンタル・キャン社気付
ヘーゼル=アトラス第1プラント
サウス・メイン・ストリート331
ペンシルベニア州ワシントン
敬具
A・W・マリー
私は遅延なくアンドリュー・マリーに4月13日付の元の手紙を送ったが、それは配達されずに戻ってきたのと同じものである。そのときにはもう5月7日になっていた。最初の要望を補助するために、私は次のような嘆願を加えておいた。
「お手紙を受け取りました。ホイーリングのあなたの元の住所に宛てた私の手紙を郵便局が返送した結果、連絡が取れたことをうれしく思います。
4月13日付のあなた宛の手紙を同封し、この重要な調査にあなたのご協力を賜りたく存じます。ベル夫人はたいへん親切に自分が知るところを提供してくれましたし、当時この事案を担当していた通訳ハイマン氏の長文の報告書もあります。その報告書に含まれていないのは、あなたがマッテル氏の行動に気づき、彼の家を訪れ、その後の逮捕に至った状況です。これらの詳細についてのあなた自身の物語、およびアントン・ヴェーベルンが亡くなった1945年9月15日の夜の物語は、権威ある信頼すべき報告としての重要性を担うことになるでしょう。それゆえに、私はこの問題についてのあなたの全面的なご協力を懇請するものです……」
十日後の5月17日、アンドリュー・マリーからの回答を受け取った。それは2ページの手紙とフォトスタット複写された文書から成っていた。手紙にはこう書かれていた。
親愛なるモルデンハウアー博士
4月13日付と5月7日付のお手紙を興味深く拝読しました。それはベンノ・マッテル(私の説明ではマーテルとなってしまっていますが)の逮捕時に殺害された紳士の身元を初めて指摘してくれるものでした。
この事件に続いて私が作成した報告書のフォトコピーを添付しています。それは私が保管している古い書類の中にありました。この報告書は、第242歩兵連隊のS-2†将校に渡されたものです。
†訳注「S-2」──これも上記「S-3」と同じく参謀システムの記号。Sは「陸軍または海兵隊用」、2は「情報収集とセキュリティ」。
私の報告書には、マッテル逮捕に至る出来事は詳述されていません。1945年9月15日の2、3日前、レイ・ベルが私の所に来て、マッテルが大量の砂糖やコーヒー、そして何よりもアメリカン・マネーを購入したいと交渉してきたことを伝えました。きっとご存じだと思いますが、私たちはアメリカ通貨を所持することは禁じられていました。とはいえ、ほとんど誰もが何らかの古い紙幣を持っていたのです。
ベルから連絡を受けたとき、私たちはS-2将校の所に行きました。彼はCICの人間に会うよう助言しました。私たちはそうしましたが、当時は人手が足りなかったので、担当将校は私たちに、マッテルが欲しがっているものを売ってやり、すかさず彼を逮捕する、という権限を与えました。私たちはそれをしました。
ベルが私たちに先立ってキッチンを離れたとき、その人が玄関で彼を攻撃しました。ベルが言うには、彼はつかまれてもみ合いになったそうです。彼が致命的な発砲をしたのはそのときでした。
殺されたのが音楽界での重要人物であることをお手紙で知り、たいへん驚いております。当時、正しいかどうかはさておき、ヴェーベルン氏はマッテルの妻の父親であるという情報は得ていました。それが事実かどうか、あなたは述べておられません。私はそれを知りたいと思います。
ヴェーベルン氏がマッテルの活動に関与していたことを示すものは、聴聞では何も出てきませんでした。氏の関与はなかったと思います。
何年も経ってからこの事件が表沙汰になり、どんな形であれ我が国の海外での評判を損なうものとして使われることは、私にとって非常に残念なことです。
私がここに書いたことが、このエピソードの誤解を解く上であなたのお役に立てることを願っております。あなたがこの情報をどのように使用し、どのような結果になったのかをお知らせいただければ、この上なくありがたく思います。
敬具
A・W・マリー
コンチネンタル・キャン株式会社気付
ヘーゼル=アトラス第1プラント
ペンシルベニア州ワシントン
添付されたフォトスタット複写された文書の本文も、同様に全文を転載しておく†。
†訳注「添付された……」──上の手紙で自分でも書いていたが、この証言ではマッテル(Mattel)をすべてマーテル(Martel)と誤っている。
技能軍曹アンドリュー・W・マリーの証言書
1945年9月15日夜、ツェル・アム・ゼーのCIC、および第242連隊のS-2に事前に連絡を取った後、レイモンド・N・ベル一等兵と私は、闇商人の疑いのあるマーテル・ベンノという者の家に行った。我々は証拠と情報を手に入れ、その夜マーテルを逮捕して、彼を営舎で待機している連隊S-2代理に引き渡す予定だった。マーテルの家に行く前には、私もベルも何も飲まなかった。請け負った逮捕という仕事に当たって、自分の能力を完全にコントロールしたかったからである。
ミッタージル101番の家で、我々は1時間のうちにマーテルから3杯の酒を受け取った。必要な証拠を得た後で、我々はマーテルを武力拘束下に置いた。ベルと私は、玄関ホールと出入り口が近い部屋でのマーテルの策略を防ぐために、ベルが先にドアから出るという計画を立てていた。その夜の間に、一度ベルが家の前の窓の所に行き、それを閉めておいた。また我々は、外に通じる玄関ホールで足音がしたのを聞いた。
私はマーテルと一緒に部屋の中に立っており、彼の両手は彼の頭の上に高々と上げられ、家の前の、外からはっきり見えるようになっていた†。ベルが玄関ホールに行き、ここで私の視界は遮られた。続く30秒から45秒の間に文字化された(ママ)†すべてのことは、私には、自分が聞いて識別できた音を通じてしか説明できない。台所のドアが回転して半開きになっていたのである。外に通じる玄関のドアが開いたのが聞こえた。回転して完全に開ききったときに壁にぶつかる音。私には驚きと表現するのがいちばん適切と思われる、ベルの鋭い叫び声。燃えかすを足で踏みこする音。それから素早く発射された3発の銃声。その後、女性のヒステリックな叫び声が聞こえたが、それ以外の悲鳴は聞こえなかった。私は、撃たれた人間はベルに違いないと思った。銃声を聞いた驚きが鎮まった後、私はベルを呼んでみたが、返事はなかった。それで私はベルが撃たれたのだと確信した。しかし、後になって彼は助けを求めに行ったのだと分かった。それから私は、マーテルと、キッチンに入ってきていた彼の妻に、ドアを通って自分の前を行くように命じた。彼らを通りに連れ出すと、四人の将校に同行しているベルに会ったので、私は連隊S-2代理シャニフェルト中尉とともに101番の家に戻った。そのとき初めて、とにかく誰かが撃たれていたのだと知った。玄関のドアを入って右手の部屋の中を見ると、シャツの前を血に染めてマットレスに横たわっている男が目に入ったのだ。一人の将校がすぐに衛生兵を呼びに行かせた。
私が知る限り、ベルは、死亡者アウグスト(ママ)・フォン・ヴェーベルンと、それ以前に知り合ってはいなかった。
アンドリュー・W・マリー
第242歩兵隊技能軍曹
本部中隊先任曹長
†訳注「外からはっきり見えるようになっていた」──「彼の両手は」からの原文「his hands raised high over his head clearly visible from the outside, front of the house」。マリーは、ベルが事前に家の前の窓を閉じておいたと自分で言っており、またハイマンの供述書には「遮光カーテンがぴったりと引かれていた」とあった。これでは外から見えないのではなかろうか。
†訳注「文字化された(ママ)」──原文「transcribed (sic)」。どの単語と誤ったのか訳者には分からないが、ドイツ語訳では「geschah(起こった)」と直されている。
マリーの報告書は、ハイマンの文書とはまったく無関係に独立して作られたものであったが、おおむね後者を裏付けていた。それは大惨事をもたらした根本的な原因を立証するものであった。次のたった一つの観察結果に注意を向けたいと思わないのならば、これ以上のコメントは不要である。犠牲者の正体は、アントン・ヴェーベルンの死後15年もの間、この悲劇的な「エピソード」のごく近くにいた人間の一人から、なおも逃れていたのであった。運命の辛辣な皮肉とはこのようなものである。
1960年6月6日、その日は陽光と爽やかな風で満たされた日であった。早朝から、私は本書の最終章に取り組み、最後の数ページの最終草案にするつもりの部分を見直していた。正午の鐘が鳴り響いたちょうどそのとき、郵便配達人がはるかヴィーンから届いた手紙を私に手渡した。差出人はアマーリエ・ヴァラー、ヴェーベルンの三人の娘の長女である。
アマーリエ・ヴェーベルン・ヴァラー
アマーリエ・ヴェーベルン・ヴァラー
ほとんど後から思いついたこととして、私は4月の終わりにヴァラー夫人に語りかけていたのだが、そのときは事実上この仕事は完了したと思っていた。自分の調査とその結果を出版する予定であることを、その段階で家族の代表者に知らせておくのが適切だろうと考えた。ヴァラー夫人はアントン・ヴェーベルン家の存命の近親者中最も年長であることを知っていたので、彼女に手紙を書いたのである。この人は、今や本書の「ヴェーベルン文献」の一部を形成することになっている、彼女の父による3通の手紙のうちの1通の中で実際に触れられていた。遡って1934年、彼女が腎臓の病気を患い、ヴェーベルンが資金援助を嘆願せざるを得なかったという具体的な言及があった。私はヴァラー夫人に、1945年のあの運命の秋の間にミッタージルにいたかどうかを尋ねることもして、一つ一つの詳細がこの記録文書をより信頼できるものにするのに役立つだろうとほのめかした。最後は、赤の他人である自分が、おそらくこれまであまりにも頻繁に、差し迫った問題の原因となった出来事に手を出していたことへの謝罪で締めくくった。
返事が遅れていたため、その家族は沈黙することにより、それを果たすことを選ばないのではないかと疑い始めた。ところが、当時、私が本書のFinis[完]を書いたほとんどそのときに、返信が届いたのである。最後の言葉が、アントン・ヴェーベルンの隣にいて、彼の家族という静かな王国から生き生きとした思い出をまだよみがえらせることができる人のものになるということは、適切で意義深いように思われた。そういうわけで、受け取ったすべての文書中最後のものであるヴァラー夫人の手紙は、この憂鬱な年代記を締めくくるために前もって定められていたかのようであった。
この記述で、悲劇がもう一度手を伸ばし、アントン・ヴェーベルンの最後の日々を呼び起こす。物語は、彼が叫びたくなるような沈黙の中で一人で横たわることになった礼拝堂の床の、粗末な棺で終わる。
次がアマーリエ・ヴァラーが書いた手紙の全文である。(27)
原注27:翻訳はH.M.による。
1960年5月31日、ヴィーン
親愛なるモルデンハウアー様
優しさ溢れるお手紙を心から感謝いたします。私は腎臓の手術を受けなければなりませんでしたので、もっと早くにお返事できなかったことを残念に思います。すべてがうまくいき、現在の私は満足な状態にありますから、私のかわいそうな父が死ななければならなかった状況についてご報告申し上げることができます。そのためには、少し前に遡りたいと思います。
私の二人の妹、マリア・ハルビッヒ夫人とクリスティーネ・マッテル夫人は、1944年の夏、それぞれ子供たちを連れ、ミッタージルにあるハルビッヒ夫人の義理の親の田舎家に避難しました。二人の妹の夫は兵役中でした。私は家族とともに、私の義理の親の別荘があるヴィーン近くのマリア・エンツァースドルフに残っていました。私の実の両親は「イム・アウホルツ6番†」に住んでおり、私は「イム・アウホルツ2番」で生活していたのです。すぐ近くにいたということが、私が両親と多くの時間一緒にいたことの理由ですが、私の夫が一日中ヴィーンで過ごしていただけになおさらそうなりました。1944年の美しい秋の日々が、私たちが日常的に飛行機の攻撃にさらされる原因となりました。その攻撃は私たち全員にとって恐ろしいものでしたが、父がその下でどれほど苦しんだかは筆舌に尽くしがたいほどでした。父のような繊細で感受性が強い人は、必然的に、特に影響を受けたのだと思います。父は甲虫一匹、花一輪傷つけることができない人で、それが今では至る所でこの破壊。当然の結果として、父はもはやただの1楽節も作曲することができなくなりました。
†訳注「イム・アウホルツ6番」──原文「im Auholz Nr. 6」。上のヴェーベルンの手紙では「アウホルツ8」だった。「8」が正しいのだろう。
ヒトラーによるオーストリアの占領は、父にとってひどい打撃となりました。父の音楽が「退廃芸術」の範疇に属することを理由に禁止され、非合法化されただけでなく、指揮者および教師のヴェーベルンにもすべての門戸が閉ざされたのです。個人授業の生徒たちにレッスンをするだけでわずかな収入を得ていましたが、当時はその数も非常に少なかったのです。経済的な不安、二人の娘や、父が何よりも愛していた孫たちとの別れ(私は書籍『ヒルデガルト・ヨーネとヨーゼフ・フンプリックへの手紙』から、1944年5月14日の手紙を参照しています)、積極的に戦争に参加している一人息子への深刻な懸念、そして毎日降ってくる爆弾の雨、こうしたものすべてが父を心の底まで揺さぶりました。
1945年2月、戦闘が終わる少し前に、私の弟は戦死しました。父は息子を失ったことが理解できませんでした。父は神と人間に疑いを抱きました。このこともまた、終戦直前に父がマリア・エンツァースドルフの永住地を離れた理由となったのです。
私は7歳と7か月の二人の子供と一緒に強制的に避難させられました。その移送は女性と子供で構成されていました。母も私と同行することができたのですが、彼女は父と一緒に残って、私が出発したその日の夜遅くに家を出ました。両親は、必要最小限のものだけを用意して、徒歩でヴィーンから30キロ(28)離れたノイレンバッハに向かいました。そこで列車に乗ることができ、多くの障害、恐怖、危険に見舞われた末、どうにかツェル・アム・ゼーまでたどり着きました。私の退避の方も、恐ろしい数日間を経て、ツェル・アム・ゼーで終了したのです。この退避の終点、ミッタージルの共通集合場所まで私を運ぶことになる列車を待っていたとき、私は両親の腕の中へとまっすぐに歩いていきました。父は感激のあまり、涙を流しながら私を抱きしめ、言いました。「マリ†、我が子よ、これは神の摂理の賜だ、これからはすべてがうまくいくだろう」。父は、ミッタージルで、自分の運命があんなにも恐ろしい形でその力を発揮することになるとは思いもしませんでした。
原注28:18マイル。
†訳注「マリ」──アマーリエの愛称。
私たちの避難所†では、可能な限り狭いスペースに17人が詰め込まれていました。飢え、不安、スペースの不足が、緊張した空気を充満させていました。
†訳注「私たちの避難所」──上に写真を載せたブルク31の家であるが、その家はヴェーベルンの次女マリアの夫ハルビッヒの実家であった。ここにヴェーベルン夫妻、アマーリエと二人の子供(遅れて夫も)、マッテル夫妻と三人の子供が転がり込んできたことになる。ぎゅうぎゅう詰めの慣れない共同生活を送るうち、ハルビッヒ家の人々とヴェーベルン家の人々との間には不和が生じたらしいが、それも仕方がないような状況であった。
アメリカ人がザルツブルク州を占領したとき、それは喜ばしいことではありませんでした。それでも父は、晴れやかな青空の下でその小さな家の前に立ち、両手を高く上げて言いました。「ありがたいことだ、これであの恐ろしい殺人行為がついに終わりを告げ、我々の美しい国に再び静けさと秩序が広がるだろう」
5月から6月にかけて、父は病気になりました。重度の赤痢†に襲われたのです。食物は悪く、不十分で、慣れないものでした。薬も医者も適切な食事もないので、私たちは最悪の事態を恐れていました。ところが、まるで奇跡のように父は回復したのです。最悪の事態は乗り越えたように思われました。妹のクリスティーネの夫や私の夫も、私たちの所にたどり着くことができましたし、ユーゴスラヴィアで戦争捕虜になっていたハルビッヒ博士からも連絡が届いていました。私の夫はすぐにヴィーンに行くことを試みましたが、義弟†はミッタージルに残りました。彼はスペース不足を少しでも軽減するため、自分と家族のために農家の一室を手に入れることに成功しました。彼はアメリカ人たちと一緒に働き、彼らはとてもうまくやっていました。あの9月15日は土曜日で、両親はマッテル家の夕食に招待されました。父にとって、それはお祭り行事でした。何日も前から、自分を待ち受ける喜びを楽しみに待っていたのです。父が私に最後に別れを告げたとき、私はちょうど子供をお風呂に入れていました。父はいつものように、父親らしい愛情を込めて私を抱きしめ、キスしました。父は狭い屋根裏部屋階段を下りなければなりませんでしたが、もう一度振り返って私に手を振ってくれました。そのわずかな時間が、私が父とその愛すべき優しい笑顔を見た最後となりました。
†訳注「赤痢」──ヴィルヘルミーネ夫人も赤痢に罹ったようだが、ヴェーベルンの方が重症だった。
†訳注「義弟」──ベンノ・マッテルのこと。
朝4時近く、私は近所の人たちに起こされ、何か恐ろしいことが起こったからマッテルの家に行くようにと告げられました。妹のハルビッヒ夫人は第二子を妊娠して8か月だったので、私はマッテル家まで一人で歩かねばなりません。しかし、私は7時まで待ちました。その頃は、そんなに早い時刻に一人で森や野原を抜けて行くのは危険が多すぎると思われたからです。自分を待ち受けているのものの予感もないまま、ひどく不安な気持ちでその家に着くと、最初の問題は、家の中に入ることが許されないということでした。家は剣付き銃を持ったアメリカ軍に包囲されていました。私の質問と驚愕のため、私は庭の向こう側の通りから母と話をすることが許されました。母はひどい顔をしていました。涙もなく、嘆きもないけれども、恐怖が目立つ表情でこう言いました。「お父様が昨夜撃たれ、すぐにアメリカ兵たちに運び去られてしまったの。お願いだからお父様を捜してちょうだい。私は子供たちと一緒に閉じ込められているし、クリストル†とベンノも連れ去られてしまったわ」。私は父を捜すために病院に駆け込みました。その日は日曜日で、シスターたちはみんな教会に行っていて、情報をくれる人が誰もいませんでした。それから私は、恐怖と不安で死にそうになりながら、病院の前に立っていました。ようやくシスターたちが教会から帰ってきました。私に何を言えばいいのか、誰も分かりませんでした。夜勤の看護婦が思い切って言いました。「そう、昨夜一人の老人が運ばれてきたのですが、ここに着いたときにはもう亡くなられていました。その方は死体安置所で眠っていますから、そこをご覧になってください。たぶんあなたがお捜しの方だと思います」。果たして、それは父でした。礼拝堂の床に毛布を敷いて、父が横たわり──死んでいました。父の両目は開かれ、その中にはひどい恐怖が止まったままになっていました。
†訳注「クリストル」──クリスティーネの愛称。
その後、私は母から次のような話を聞きました†。
マッテル家での夕食は素晴らしく、みんな陽気に、最高の気分になりました。父にとって、この食事の締めくくりとなる最高の物事は、とびきり上等のアメリカ葉巻でした。父は熱烈な葉巻吸いで、かなり久しぶりの葉巻、その初めて味わう種類の葉巻は、特別な喜びを与えるものでした。しかし、すでに三人の小さな孫たちが眠っている小さな部屋に葉巻の煙を充満させないようにと、父は葉巻を持って家の前に行ったのです。父が葉巻の着火に取りかかり、マッチの火が燃え上がった喜びの瞬間、自動拳銃の一斉射撃の音が鳴り響きました。それが聞こえるか聞こえなくなるかのうちに、父がよろめきながら部屋のドアから入ってきてこう言いました。「撃たれた」。それから父は、母の目の前で崩れ落ちました。ところが、母は父にまったく近づくことができませんでした。アメリカ兵がすでにすぐ近くにいて、父を担架に乗せて運び去ってしまったからです。運ばれていったとき、父は最後のお金、時計、結婚指輪を身につけていました。私が死者の礼拝堂で再び父を見つけたときには、それらすべても、父の身分証明書ももうありませんでした。
しかし、兵士たちはなぜ父を撃ったのでしょう両親がマッテル家に滞在している間、その家にいたと思われる人物の捜索が行われたため、家は軍によって包囲されていました。住民が家を出ることは許されませんでした†。両親はそのことを知らず、兵士たちはすでに家の捜索に従事していました。彼らはその部屋の捜索はせず、誰も家を出てはならないことを知らせることもしませんでした。すべては音もなく行われていたため、外で何が起こっているのか、誰にも何も分からなかったのです。マッチの火が何かしら危険なものと解釈されたのかどうかは神のみぞ知るところですが、そのときにはもう準備を整え身構えていた機関銃が連続発射音を立てていました。それが、何も気づかずにいた平和を愛する人、アントン・ヴェーベルンに命中したのです。
†訳注「母から次のような話を聞きました」──母ヴィルヘルミーネからの伝聞情報には、上記アメリカ兵たちの証言内容との齟齬がいくつも見られる(「自動拳銃の一斉射撃」「兵士たち(が)撃った」「人物の捜索」「家は軍によって包囲されて(いた)」「機関銃」等々)。当然、アメリカ兵たちの証言内容の方が正確であると見なすべきなので、この上の二つのパラグラフの内容は鵜呑みにしないこと。この手紙を書いた1960年5月時点でのアマーリエは、義弟ベンノ・マッテルが闇取引に手を出していたことも、彼が原因でアメリカ兵がその家に来たこともまだ知らなかったのである(それを知っているクリスティーネは、母によって口止めされていた)。アマーリエがそれをやっと知ったのは1961年2月になってからで、そのときの彼女の手紙はこの後に引用されている。
†訳注「住民が家を出ることは許されませんでした」──これは本当で、2階に住んでいた家主のフリッツェンヴァンガー夫人は、アメリカ軍からこの命令をひそかに受けており、それを誰にも話さないよう指示されてもいた。
母はその後、軍当局からその銃撃行為を正当とする理由を得ようとし、少なくとも軍側からの金銭的な援助を希望しました。母は本当に無一文だったのです。自分の要求のせいで投獄されるのではないかと恐れた母は、援助の望みをすっかり諦め、存命中はあの死の出来事について誰にも語りませんでした。1949年12月に母が亡くなったとき、私たちの国はまだ占領中でした。同じように、私も何度も問い合わせを受けましたが、今までのところ、父の死についてあまり詳細な報告を書いたことはありません。しかし、完全に無実の人、ナチスの犠牲者だった人が、一部の兵士たちの行きすぎた行為の犠牲になったことを、世界が知るべき時が来ました。正義はどこにあるのでしょう私はそれがあることを祈っています!
私はこの報告により、あなた様、親愛なる博士のお役に立てることを願っております。これはいかようにもご自由にお使いになってかまいません。アントン・ヴェーベルンにとってどんなに狂った死であったのかをついに世界中の人々が知るということは、私としても大いに興味が引かれるところです。父はまだ、人類にどれほど美しいものを与えることができたことでしょう!
心からの敬意を込めて
アマーリエ・ヴァラー
およそ9か月後の1961年2月14日、アマーリエ・ヴァラーは最初の報告に重要な追記を加えた。その後から来た手紙で、彼女は次のように述べている。(29)
原注29:翻訳はH.M.による。
……それから、私の最初の報告に、訂正としてさらに付け加えていただきたいことがあります。
1945年9月15日、妹のハルビッヒ夫人は、父が家を出るときバルコニーに立っていました。彼女が手を振ると、父は彼女を見上げて、不吉な前兆のような言葉を言いました。「今日がどんなに歴史的な日か、もしかして知っているのかい?」(父は初めてのアメリカ葉巻についてこう言ったのでした)。本当に、その日は歴史的な日になってしまいました!
最初の報告で、私はあるパラグラフを次のように始めました。「兵士たちはなぜ父を撃ったのでしょう?」と。これに対して、私は次のように言いたいと思います。これは私自身、昨日になって初めて知ったことです。母がはっきり口にしていた希望により、妹は私にそれを言うことを許されなかったからです。
あの夜、私の義弟は、数人のアメリカ人たちと取引をしたために逮捕されることになっていました。軍政府が、それ以上続けることは絶対に許さなかった取引です。取引中に現行犯で義弟を捕まえたかったために、偽の取引が行われました。その家の全住民が外出禁止令が出ていたことを知っていたのに、マッテル家だけは何も知らず、よりにもよってちょうどその晩に、両親はマッテル家に客として行かなければならなかったのです。こんな悲劇的な状況がすべて連鎖していたなんて、信じがたいことです。これ以上のことはすでにご存じのとおりです。この修正は非常に重要ですので、まだ施すことができるならばうれしく思います。
心からの敬意を込めて
アマーリエ・ヴァラー
アントン・ヴェーベルンの長女から寄せられたこの最後の証言をもって、この記録文書群は終了となる。
●  ●  ●
詩を愛し、シュテファン・ゲオルゲやライナー・マリア・リルケ、李白やゲーテやカール・クラウスの詩に曲を付けてきたアントン・ヴェーベルンは、晩年、ヒルデガルト・ヨーネの詩の思想と想像力に固執した。《三つの歌曲》作品23(1934)、《三つの歌曲》作品25(1935)、《眼の光》作品26(1935)から、《第1カンタータ》作品29(1939)と、最後の作品《第2カンタータ》作品31まで、声楽曲はすべてその偉大な女流詩人の言葉と夢から芽生え生長した。
私のヴェーベルンの世界との初期の接点の一つは、ヘルツカ夫人への3通の手紙を通じてもたらされた。1934年7月に書かれたその中の最後の手紙には、ヒルデガルト・ヨーネの詩による自分の歌曲集がもうすぐ出版されることを、彼が特別に喜んでいることが述べられていた。彼にとって、これらの歌曲はその世界への共感を意味していた。彼は、ヘルツカ夫人にも早くこの詩を知ってもらいたいという希望をはっきりと表明していた。
ヴェーベルンの突然の死の知らせが、かつての彼の隠れ家を遠く離れた場所から突然もたらされたとき、ヒルデガルト・ヨーネは、その衝撃と悲しみを、芸術がそれ自身を解放することを知っている一つの方法で発散させた。経験したことは何であれ、生得的に創造的な心によって統合されることになる。自己表現は芸術家を自由にするのだ。
そのとき、ヒルデガルト・ヨーネは詩を書かなかった。まだその衝撃が、言葉とするには、また彼女のすべての詩のタペストリーを優しく織りなしている思考やリズムや穏やかなハーモニーとするには、あまりにも激しく干渉していたのである。しかし、それでもなお彼女は自らを表現しなければならない。なぜなら、芸術の女教皇はそれ以外のことができないからである。
1945年の秋にヒルデガルト・ヨーネが描いた油絵を見てみよう。そこで彼女は、想像力によってその友人を呼び出している。彼が残酷な最期を迎える前の張り詰めたわずかな時間、「アム・マルクト101」の家のドアの下に立っている彼として。その悲しげな表情を見つめていると、もう一人の求道者(30)の未亡人、フリーダ・カーンの言葉がよみがえってくる。「ヴェーベルンは、年老いた小さな子供のように、その無垢な目で、彼にとっては永遠に異質なままの世界を見ていた」。(31)真の領域が完全にこの世のものではなかった人を表すには、まことに洞察力のある言葉である。
原注30:エーリッヒ・イトル・カーン(1905-1956)。
原注31:フリーダ・カーン『混乱の時代』チャネル・プレス。
ヨーネによるヴェーベルンの肖像
ヒルデガルト・ヨーネによる油絵(1945)
(「暴力的な最期を遂げる少し前、自宅の戸口に立つヴェーベルン」)
詩人によるこの絵を眺めていると、見つめるうちにその様相が変化する。より深い意味が徐々に伝わってくる。厳格さや残酷さが、愛と哀れみに変わっていく。不可解な運命が緩和され、視覚にはより望ましい世界が与えられる。憂鬱は解消し、苦難の結末は転換される。変容がそれらを一掃し、代わりに贈り物を置く。茨の冠は慈悲の冠となる。それは人類の宿命、闘争、苦難の上に輝きを放つ。宝石のように、その冠は永遠の祝福を保つ。信仰、希望、愛。この三つのうち、愛が最高のものであると宣言される。信仰と希望は、それによってのみ生み出されるのだ。それらは人間存在の強固な錨であり、虚弱さに苦しむ者になおも歩くことを許す松葉杖であり、信念を持つ人々を飛翔させる翼なのである。
ヒルデガルト・ヨーネがこの経験にふさわしい言葉をようやく見つけ出したのは、10年を経てからだった。その癒やしの優しさは征服の強さをもたらす。(32)
「慈悲†は、完全な深刻さとはあまり調和しないものであること以上に、無限に大きな意味を持っている。慈悲そのものが、人生の深刻さにおける極めて純粋で深いすべてのものであり得るからで、健全で無欠なものが持つ美の息吹だけでなく、傷を癒やすことや、癒やすことのできない傷を明るく受け入れることでもあるからだ。慈悲とは、愛によって世界を整えようとする勇気なのである
原注32:ヒルデガルト・ヨーネ「カンタータ」、『Die Reihe(音列)』第2号「アントン・ヴェーベルン」より。セオドア・プレッサー社刊。ウニヴェルザール出版社後援。
†訳注「慈悲」──原文「Grace」。訳しにくい言葉だが、この引用部分は、第1カンタータの第3曲に出てくるドイツ語の「Gnade」を詩人自身が説明したものらしいので、参考までに手元にある第1カンタータの日本語訳を見たところ、グラモフォン全集(CD)の対訳では「慈悲」、CBSソニー全集(LP)の対訳とロスタンの翻訳本では「恩寵」と訳されていた。

◎20世紀ヴェーベルン研究の第一人者によって書かれた、ヴェーベルンの死の謎をその15年後に追求したドキュメント。おそらく本邦初訳wと思われる。――本書は十年留保の対象内と見なして翻訳を掲載しますが、過去に翻訳が公表されたことがあったかどうかをご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えいただければ幸いです。
著者について
モルデンハウアー主役の室内オペラ《ヴェーベルンの死》について
ヴェーベルンの死を扱った国内書籍について
ヴィルヘルミーネの死まで
フリッツェンヴァンガー夫人の息子へのインタヴュー
著者について】
著者のハンス・モルデンハウアーは、ドイツ生まれのアメリカの音楽学者、登山家。1906年12月13日マインツ生まれ、1987年10月19日ワシントン州スポーケンで没。文科系ギムナジウム卒業後、地元の音楽院でハンス・ロスバウトらに師事。ピアニスト、合唱指揮者として活躍する。マルゴットという女性と最初の結婚をし、子供を二人もうける。モルデンハウアーの母親はユダヤ人だったため、1938年5月渡米(妻は、数か月遅れて、子供たちと自分の母親を連れてアメリカに来たらしい)。最初はニューヨークに住んだが、自然と登山への情熱から、翌年山岳地帯であるワシントン州スポーケンに落ち着く。1942年に演奏、資料収集、執筆などの活動を開始し、スポーケン音楽院を設立(1946年から院長)。1943年、その登山の技量を見込まれて陸軍第10山岳師団のインストラクターとなり、アメリカ国内で訓練を指導したが、凍傷にやられて8月に除隊。その間に、彼のピアノの生徒で、看護師として合流してきたロザリーン・ジャックマン(1926-82)と再婚(夫37歳、妻17歳いいのこれ?w)。1945年地元のウィットワース大学で音楽学士号を取得。1951年シカゴ音楽大学(後にルーズヴェルト大学の一部)で音楽博士号を取得。1958年アメリカ音楽学会北西部支部支部長。1961年から64年までワシントン大学で教鞭を執り、また欧米各地で講義を行う。本書に語られているような経緯でアントン・ヴェーベルンに強い興味を抱くようになり、一次資料収集や執筆のほか、1962年から1978年までにアメリカとオーストリアで6回の国際ヴェーベルン音楽祭を開催。1970年オーストリア科学芸術勲章。1984年ハーバード大学図書館20世紀音楽名誉学芸員。
1950年頃、網膜色素変性症のため2年以内に失明するだろうと診断される。彼が中年期以降の写真で目をつぶっているように見えるのはこのためである。結果的には、完全に失明するのは晩年、1980年まで持ち越されることになったが、眼科医のこの厳しい見立てから生じた「失明までの残り少ない時間を最大限に生かしたい」との思いが、彼をより精力的に活動させることになった(登山は諦めざるを得なかったが)。彼の興味の中心は音楽史の一次資料を収集することで、その膨大なコレクションはモルデンハウアー・アーカイヴズ(モルデンハウアー文庫)と呼ばれる。その活動の一端は本書にも説明されているとおり。1980年失明。1982年妻ロザリーン没。その年のうちにメアリーという女性と3度目の結婚をしているが、5年後の1987年に本人も没。モルデンハウアー・アーカイヴズは、現在欧米の9の機関で分担保存されている。
著作としては、本書のほか、妻ロザリーンとの共著である浩瀚な『アントン・フォン・ヴェーベルン、その生涯と作品の年代記』(1978)が有名で、これは現在もなおヴェーベルン研究のための基礎文献となっている。このほか、ヴェーベルン関係では、編著者として論文集『アントン・フォン・ヴェーベルン:パースペクティヴズ』(デマー・アーヴィンとの共編、1966)、ヴェーベルンの作曲スケッチを複製した『アントン・ヴェーベルン:スケッチ集(1926-1945)』(1967)もある(『スケッチ集』は2021年秋現在、50ユーロでまだ新品入手可能)。ヴェーベルン関係以外では、ピアニストの妻ロザリーンと12年にわたって出演したラジオ放送の副産物であるピアノ二重奏の研究書で、彼に音楽博士号を取らせることになった『デュオ・ピアニズム』(1950)がある。
モルデンハウアー夫妻(1979)
モルデンハウアー夫妻(1979)
モルデンハウアー主役の室内オペラ《ヴェーベルンの死》について】
近年、本書を原作とするオペラ《ヴェーベルンの死》がアメリカで制作されたので、それについて書いておく。
台本(英語):J・D・マクラッチー、作曲:マイケル・デライラ、委嘱と初演:ポケット・オペラ・プレイヤーズ、初演:2013年10月10日、ニューヨーク、シンフォニースペース。その後、2015年に別の演奏者により録音され、翌年アルバニーから発売された。モルデンハウアーの本書を、1幕13場、1時間ほどの長さの室内オペラにしたもので、主役はヴェーベルンではなくモルデンハウアーである。非常にコンパクトな室内オペラで、器楽奏者6名(+指揮者)、歌手は14名だが、兼役が可能なパートがあるため、もっと少ない歌手でも上演できる。
筋書きは、本書に見られないシーンもあるものの、全体としてはほぼ本書と同じと言ってよい。ヴェーベルンが撃たれたときの正確な状況や理由を誰も知らないことに疑問を抱くモルデンハウアーの独白に始まり、ヴェーベルンを撃った直後のベルが上官に助けを求めるシーン、ヴェーベルンがヘルツカ夫人に経済援助を依頼する手紙を書くシーン、パウル・アマデウス・ピスクがヴェーベルンの講義を回想するシーンなどのフラッシュバックを前半に挟みつつ、国務長官と国防長官への依頼、たまたまコネがあったアーキヴィストへの依頼、レインボー師団将校リストの入手、撃たれたヴェーベルンを見たというジェンキンズからの手紙、事件に通訳として関わったハイマンからの手紙、事件に深く関わったコックと曹長の名前の獲得、ベル夫人からの手紙と彼女との面会、マリー曹長からの手紙、アマーリエとの面会、と続き、最後はモルデンハウアーの独白で幕となる。
リブレットには、原作というか史実との違いがあるので、何点か指摘しておく。
まず、ヴェーベルンが「反ナチス」として描かれていること。冒頭のモルデンハウアーの独白の中に、「祖国とその歴史を守り、ヒトラーと悪の軍団を非難した人が……そんな人が、救世主と見なした人々(=アメリカ軍のこと)に殺される」というセリフがあるのだが、これには違和感を感じた。上記のように、ヴェーベルンは基本的に「親ナチス」であり、子供たちもそうだった。時代の空気もあったし、当時の独墺圏の一般市民が第三帝国を信じていたとしても何ら不思議はないと思うのだが、何の必要があってこのような美化を施すのか、訳者には理解しかねる。こういう脚色は、主役モルデンハウアーの「真実を知りたい」というピュアな動機とも矛盾するように見えてしまうのだが、いかがなものであろうか。
二点目。原作でのモルデンハウアーは、実は情報提供者とほとんど面会をしておらず、やりとりはたいてい書簡で行っていた。ところが、原作では通信のみだったベル夫人とアマーリエの女性二人は、このオペラでは面会での情報収集となっている(一部は書簡、ほかにアメリカ在郷軍人会事務所のロードなる人物と電話で会話するシーンもある)。アマーリエが泣くシーンがあるところから見て、おそらくクライマックスを情緒的に描きたいというねらいからの変更であろうが、これについてはあまり気にならなかった。ただ、ベル夫人との会話の中に出てくるレイモンド・ベルの命日を、ヴェーベルンと同じ9月15日に変更したのは、少しやりすぎな気もする(事実は9月3日)。
三点目。アマーリエとモルデンハウアーとの会話の中に、「家が包囲されていることを誰も知らなかったのですか?」というモルデンハウアーのセリフがあるのだが、そもそもマッテル逮捕のための「包囲」はなかったのではなかろうか。この情報のソースは、アマーリエが母から聞いた情報、
両親がマッテル家に滞在している間、その家にいたと思われる人物の捜索が行われたため、家は軍によって包囲されていました。
であろうが、アメリカ兵たちの証言から見て、訳者は、これは誤りだと考えている。
──マッテル逮捕は、CICの「人手不足」のためマリー曹長とベル一等兵の二人に課せられた任務で、ほかのアメリカ兵たちはマッテル逮捕の時間帯には近くのレストランでダンスに興じていた(包囲ではなく!)。そこにベルが援助を求めに来たため、まず通訳であるハイマンを含む4名が出動し、撃たれた者がいると聞いて衛生兵らもっと多くのアメリカ兵たちが101番の家に集まってきて、そのときにヴェーベルンが運び出された。その後、その事件の捜査が終わるまでアメリカ兵たちが家を包囲して、残った住民たちを閉じ込め、来訪者を入れなかった。──
あの夜のアメリカ軍の動きについての訳者の理解は、このようなものである。つまり、訳者は、「家が包囲されたのは事実だけれど、それは銃撃事件が起こったためであって、マッテル逮捕のために包囲したわけではない。よってこのアマーリエの証言は、彼女がマッテルの闇取引のことを知らず、軍は誰かほかの犯罪者を捜索していたと思っていたことを差し引いても、正しくない」と考えているのである。ところが、これについては、オリヴェーリの『ヴェーベルン事件』の中にも、
ブレスゲンが「アメリカ軍の特殊部隊」と定義した「レインボー」の到着は、領土統制の引き締めと確かに同時に起きたのである。その引き締めは、ベンノ・マッテルが「軍当局がこれ以上は容認したくないある種の取引を一部のアメリカ人と締結していた」ために、アム・マルクト101番の家を包囲して、彼を逮捕する命令が下された事実を、完全に納得させるものである。
【訳注】下線訳者。原文「circondare la casa Am Markt 101」。ヴェーベルンたちが着く前のミッタージルは、難民がたくさん集まってきていたせいでかなり治安が悪くなっていたらしく、それを引き締めるために優秀なレインボー師団が派遣されたようである。
という記述があり、やはりアマーリエの伝聞証言を肯定するような書き方がされている。かように、二人の著者が「マッテル逮捕のために家が包囲されていた」と書いているため、訳者としても少し自信がなくなってきているのだが、今のところはやはり、アマーリエの証言と、それをそのまま信じたマクラッチーとオリヴェーリの理解は、誤りだと思っている。
四点目は、三点目のすぐ近くにあるが、外出禁止令が出ていたことを村人は全員知っていたのに、マッテル一家とヴェーベルン一家だけは知らなかった、と言っていることである。訳注にも書いたが、ヴェーベルンは22:30以降の外出禁止令はちゃんと知っていて、それまでに31番のハルビッヒ家に帰ろうとしていた。マッテル家とヴェーベルン家の人々が知らなかったのは、「101番の住人はその晩外出しないように、このことを口外しないように」という秘密指令の方であった。これはもちろん1階で逮捕劇が予定されているからで、2階の住人がそれに巻き込まれないための配慮であった。このことはモルデンハウアー夫妻の『アントン・フォン・ヴェーベルン』に書いてあるので、リブレット作家のリサーチ不足といったところであろうか。
このオペラは、ネット上で見つかったレヴューを見る限りでは評判はなかなか良いようだが、訳者には、台本はともかく、音楽はそれほど面白いとは思えなかった(《パッサカリア》の引用が出てくる箇所では耳が惹きつけられたが)。これを書いている2021年秋現在、配信でも音盤でも容易に聴くことができるので、気になる方は探して聴いてみることをお勧めする。
オペラ《ヴェーベルンの死》
Albany TROY1613
ヴェーベルンの死を扱った国内書籍について】
ヴェーベルンの伝記的書籍は、2021年秋現在、我が国では次の2冊があるのみである。
①『ヴェーベルン』(クロード・ロスタン:著、店村新次:訳、音楽之友社「不滅の大作曲家」の1冊、1975、原著は1969)
②『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(岡部真一郎:著、春秋社、2004)
このほか、特にヴェーベルンの死について1章を設けたものに、
A『レコードのある部屋』(三浦淳史:著、湯川書房、1979の中の「セプテンバー・ソング」の章) があった。
①は、古い本だがなかなかの好著。290ページほどの分量の中に多くの情報を詰め込んでいて、読み応え十分である。ヴェーベルンの死については、モルデンハウアーの本書を「驚くべき犯罪調査報告」として紹介し、その内容を取り入れて、かなり詳しい解説がなされている。フランス人にはヴェーベルンの芸術に親和性を感じる人が多いようで、メシアンやブーレーズはもとより、ルネ・レボヴィッツも、シェーンベルクの作品31を中心とした例の『12音技法入門』の前に、ヴェーベルンの作品24を対象とした『12音技法とは何か?』を出していた。
──ちょっと余談。レボヴィッツの『12音技法入門』は1949年出版だが、なぜかそれより前に出た彼の著書の中でちらほら言及されている(「筆者の『12音技法入門』を参照せよ」など)。この現象は、『入門』が先に書かれたのに出版は後になったためで、「(実体のない書籍を参照せよなどと書いたのは)確かに不用意だった」と、本人が『入門』の序文で認めている。もし『入門』が出せなくなったらどうするつもりだったのだろう?
②は、400ページを超える分量を持つ非常に詳細で行き届いたもので、ヴェーベルンに関心を持つ人必携の本である。①をカバーするような伝記的記事のほか、譜例や図版をたくさん載せて(これでも「ごくごく限られた量」だそうだが)技術的な問題にも踏み込んでおり、これは①やモルデンハウアー夫妻の大著にはない特徴である。ヴェーベルンの本に手を出すような読者に対しては、これくらい技術的・専門的な内容を書いてくれた方が喜ばれるだろう。ただし、本書ではヴェーベルンの死については意外なほど簡単に済まされており、この問題には著者の関心がほとんど向いていなかったことが見て取れる。
Aは、ヴェーベルンの死にテーマを絞った記事なので①に次いで詳しく、①を補完する情報もある。特にモルデンハウアーの簡単な経歴が紹介されているのは有益。
──ただ、ベルの未亡人の手紙の最後「さらにわたくしでお役に立つことがございましたら、何なりとお申し越し下さい」について、三浦氏は「結びの句は『もう何も訊いてくれるな』を意味する社交辞令である」とお書きになっているが、そういうものであろうかベル夫人には、モルデンハウアーが催促状代わりに自著を贈ったことで態度を軟化させたような素振り、つまり最初は警戒していたような素振りも見受けられるものの、彼女はその後、モルデンハウアーの求めに応じて「ヴェーベルンを撃った男」である亡夫の写真を送ってやり、自分が提供したものを自由に使用することを承諾するという気前のよさを見せている。この協力ぶりから見ても、彼女が「京都のぶぶ漬け」的な慇懃無礼な態度を取ることでモルデンハウアーとの連絡を絶とうとしたようには思えない。ベル夫人の2通目の手紙の末筆は、「社交辞令」などではなく、字面どおりに受け取っておけば十分なのではなかろうか。
以上のような状況であるから、もしヴェーベルンの死をめぐる概要を既存の日本語書籍で読みたいというのであれば、①とAに当たるのがよい。2021年秋現在ではいずれも品切れであるが、これらは公立図書館に入っている可能性が高いので、少し努力すれば閲覧はできるだろう(特にAは、全国の公立図書館に配られでもしたのか、訳者の地元ではあちこちの図書館に所蔵されていた)。
ヴィルヘルミーネの死まで】
ロスタン、岡部両氏の本には、ヴェーベルンが死んだ後の妻ヴィルヘルミーネ(愛称ミンナ)の記事がほとんどないので、ここでは主としてモルデンハウアー夫妻の大著『アントン・フォン・ヴェーベルン』によって、彼女が亡くなるまでの経緯を素描しておきたい。
ヴェーベルンの遺品の中に小さな日記帳があり、そこにヴィルヘルミーネは次のように書き込んでいた。
1945年
9月15日午後10時
トニ✠ミッタージル
2月14日、ペーター✠マールブルク近く
すべて失ったが、生き続けなければならない
ミツィ、クリストル、そしてその子供たちが私を必要としている限り。
「トニ」はアントンの愛称、「ミツィ」は次女マリアの愛称である。この手記のとおり、ヴィルヘルミーネは、身重の次女マリア、夫が逮捕されてしまった三女クリスティーネのためにミッタージルに残ることにした。長女アマーリエの一家だけはヴィーンに戻った。マリアは1945年10月に第二子ヨハンナを出産した。ヴェーベルンの娘たちは皆病気がちで、ヴィルヘルミーネは娘二人と孫五人の世話をしなければならなかった。金銭的にも厳しい状況であったが、同じ月にウニヴェルザール出版社とヴェーベルンの未出版6作品の死後出版を契約して、いくらかのまとまった収入を得ることができた。
マリア・エンツァースドルフ、イム・アウホルツのヴェーベルンの自宅は、留守の間にロシア兵たちに荒らされ、ひどい状態になっていた。この家に置いたままだったヴェーベルンの遺品の確保に活躍したのが、ヴェーベルンの息子ペーターの未亡人ヘルミーネ・ヴェーベルンと、かつての隣人ヴェルナー・リーマーシュミット博士であった。この二人のおかげで、大家には「ゴミ」としか認識されていなかったさまざまな貴重な遺品が救い出されることになった。リーマーシュミット博士がぐちゃぐちゃになっていた書簡、手稿、スケッチなどを根気よく回収分類し、その他の遺品はヘルミーネが自宅に運び込んだ。ヴィルヘルミーネとアマーリエは、1946年1月以降、数回ペルヒトルツドルフのヘルミーネの実家に赴いて、残したいものを選んだ。
1946年初頭、ヴィルヘルミーネは、ヴェーベルンの長年の友人で、ロンドンに移住していたダヴィッド・ヨーゼフ・バッハから、ヴェーベルンの死の状況についての質問を受け、こう書いた。
残念ながら、そのすべてがどのように起こったのかをあなたに報告することはできません……。夫の死はあまりにも恐ろしいことでした。もし彼が病気のせいで安らかに亡くなったのであれば、そのときは悲しみだけで済んだことでしょう。ところが実際は、私は時々気が狂うのではないかと思うほどの恐怖でいっぱいになるのです。なぜ夫があんな目に遭わなければならなかったのかこの8年間は、彼にとってどれほど困難だったことでしょう。夫はあまりにもつらい思いをしていたので、たった一つの望みしかありませんでした。この国から逃げることです。それなのに、自分の意志とは関係なしに捕えられていた……。私たちが被らなければならなかったことは、我慢の限界に近かった。彼にとって良い時期が訪れようとしていたまさにそのときに、あの災難が起こらなければならなかったのです。
このように、ヴィルヘルミーネは夫の死の状況をなぜか語りたがらず、娘たちにも箝口令を敷いていた。親類に逮捕者が出たことで作曲家の名声を損なうことを嫌ったのか、あるいはあまり騒ぐとアメリカ軍に何かされると思ったのか、その理由は不明だが、いずれにせよ、この家族の秘密主義がさまざまな風評を生む一因となったことは否めない。
ヴェーベルンを追悼するイヴェントとしては、1945年12月にBBCが追悼番組を放送し、1946年7月12日にはロンドンで第1カンタータの初演があり、1947年2月にはやはりBBCで、第1カンタータ再演に加えて《リチェルカータ》が演奏された。また、ニューヨークでも追悼コンサートがあったという。ところが、オーストリア国内では、1947年初めに《パッサカリア》の演奏が予定されたのに、実現しなかったようだ。ヴィルヘルミーネは、1947年2月10日のエルンスト・ディーツへの手紙で、ヴェーベルンがロンドンへの移住を本気で考えていたのは、このような祖国の無理解のせいであったと書いている。なお、彼女はロンドンでの第1カンタータ初演演奏会に招待されていたが、「(行こうと思っても)旅行許可証ももらえなかったでしょうし、そのためのお金も衣服もなかったでしょう」という理由のために断念した。
1946年秋、ベンノ・マッテルは1年間の刑期を終え、母親の母国イタリアへと直行したが、クリスティーネと子供たちはまだ101番の家に残っていた。次女マリアは、義理の母親との摩擦のためハルビッヒ家を出て119番の家に移り、ヴィルヘルミーネは1946年12月に彼女と同居した。義理の母親はヴィルヘルミーネとも諍いが絶えなかったようだし、マリアは特に病弱だったので、自然の趨勢だったのだろう。つまり、この時点では、31番の家にはもうヴェーベルン家の者は誰もいなくなり、101番の家にはクリスティーネと三人の子供が住み、119番の家にはヴィルヘルミーネとマリアとその子供二人が住んでいたことになる。
ヴィルヘルミーネは、イム・アウホルツの家具のほとんどを売却するよう手配し、1947年5月5日、ヘルミーネに、ヴェーベルンの遺品の本と楽譜を公共オークションにかけたいと伝えた。このときのわずかな収入が、ヴィルヘルミーネの窮乏を軽減した。また、ヴェーベルンの壊れたチェロは処分してほしいと頼んだが、ヘルミーネはそれを保存して、後にヴェーベルン・アーカイヴに預けられた。旧家に残されたままだったグランド・ピアノは、後にウニヴェルザール出版社のアルフレート・シュレーに引き取られた。
1948年5月4日、ヴィルヘルミーネはヒルデガルト・ヨーネにこう書いた。
残念ながら、現在、アントンの作品の演奏機会はどこにもありません。私は今シーズン、彼の大オーケストラのための作品がヴィーンで演奏されることを大いに期待していました。《パッサカリア》や《大オーケストラのための六つの小品》はすでに古典的な作品です──そのことに異論が生じる余地はないでしょう。それなのに、それらを取り上げようとする指揮者が誰もいないのです。彼らはその仕事を恐れているのか、それともアントンの作品をまるっきり理解していないのか私には分かりません。そのことが私をとても悲しませます。たった一人の指揮者だけ、全然知らないヘフナーという名のピアニストが、宗教歌を演奏しました(12月22日、公共ラジオ放送局で)。いくつかの都市──ミュンヘン、マインツ、ハイデルベルク、プラハ──ではアントンの作品を演奏したかったようですが、これは実現していないようです。というのは、私は出版社からそれらの情報を受け取っていないからです。アントンはすでに忘れられてしまったのでしょうかそれとも、私たちが生きている恐ろしい時代のせいなのでしょうかこういうことの何もかもにとても気が滅入ります。それについて、時には何かしたいと思っても、私には何もできません。でも、それはアントンの希望に沿うことではないでしょう。ですから、私は、おそらくそれがいつの日か違ってくることを待ち、願わなくてはなりません。
この中に出てくる「ヘフナー」とはヘルベルト・ヘフナーのことで、彼はヴィルヘルミーネの死後の1950年6月23日に、ブリュッセルで第2カンタータを初演している。「宗教歌」は作品15のことであろうか興味深いのは、「《パッサカリア》や《大オーケストラのための六つの小品》はすでに古典的な作品です」と書いていることである。後者のオランダ初演が1959年であったことが上記本文に書かれていたが、オーストリアでは1940年代にすでにこういう認識だったのだろうか。
1948年9月、3年間の別居生活を経て、クリスティーネと子供たちはイタリアのベンノ・マッテルの許へ旅立った。マッテル一家はその後アルゼンチンへ移住することになっていたため、おそらく今生の別れである。このことがヴィルヘルミーネをひどく寂しがらせた。マッテルは、ヴェーベルン一家には実はそれほど好かれていなかったことをアマーリエの夫グンター・ヴァラーが証言しているが、その三人の娘たちは別だった。ヴィルヘルミーネは翌年、ヒルデガルト・ヨーネへの手紙で、「私はほかの孫たちもとても愛していますが、あの三人は本当にお気に入りです。夫にとってもそうでした。特にカーリン(訳注:長女)のことを、夫はアイドル視していました」と書いている。アルゼンチンは元ナチス隊員を歓迎したため、マッテルの移住は定番コースと言えるものであった。マッテル一家がアルゼンチンに移住したのはヴィルヘルミーネの死後であったが、彼はそこで持ち前の如才なさを発揮して大きな富を築いた。
ヴィルヘルミーネの生前、祖国はヴェーベルンの作品に対し、手稿の確保と出版には積極的に動いたものの(これもぼやぼやしていたらイギリスに先を越されるところだった)、演奏においてはほとんど無視した。しかし、外国では徐々に関心が高まりつつあり、ヴィルヘルミーネは次のような手紙を書くことができた。
行われていることのほとんどはアメリカ、ロンドン、ブリュッセルで起こっています。ブリュッセル放送が最も活発です。そこにはポール・コラールというたいへん才能ある指揮者がいるようです。彼はベルギーのラジオで「ヴィーン楽派」に属する作曲家の全作品を演奏することを自分の使命にしています。トニの作品では、第1カンタータが1月17日に演奏されたばかりで、トニの最後から2番目のオーケストラの変奏曲が2月14日に演奏されるでしょう。1月17日の演奏は大成功だったとの報告を受けています。この作品がトニの聖人の祝日に演奏されたことは、不思議で、とても悲しいことではないでしょうかそれに、2月14日の演奏はペーターの命日になります。1948年4月14日には、ピアノの変奏曲とヴァイオリンとチェロの小品がブリュッセル音楽祭で演奏されました。(1949年2月11日付エルンスト・ディーツへの手紙)
1949年8月、すでに解放されてユーゴスラヴィアから帰国していたマリアの夫フレッド・ハルビッヒが、勤務先の関係でミッタージルを離れたのを機に、ヴィルヘルミーネは親切なフリッツェンヴァンガー夫人が所有するアム・マルクト101の家の、2階の小さな部屋に移った。夫が息を引き取った同じ屋根の下で、ヴィルヘルミーネは病弱で孤独な人生の残り数か月を過ごすことになる。
1949年9月14日、ヴィルヘルミーネは、ヴェーベルンの初期のピアノ五重奏曲(1907)の出版について、ニューヨークの小さな出版社ボマートとの契約に署名した。ただし、ウニヴェルザールと違って契約時の支払額は1ドルだけで、あとは印税が発生した時点で支払われることになっていた。
その頃、フランスの若い作曲家ジャン・ルイス・マルティネが、1949-50年の間にパリでいくつかの公演を計画するため、ヴィーンを訪れた。上記ボマート社との契約の日、ヴィルヘルミーネはヒルデガルト・ヨーネへの手紙にこう書いた。
彼はここを訪ねたがりました。私は彼ととても知り合いになりたかったのですが、お断りしました。私の現況では難しいのです。足の麻痺のせいで人見知りをしてしまうのです。また、私の住居は本当に原始的で、惨めと言ってもいいくらいです(何しろ部屋が一つしかないのですから)。私個人としてはそれで問題はありません──本、アントンの音楽、愛する人々の写真がありますから。私にとって、それらは豊かな物なのです。でも、見知らぬ人に覗かれたくはありません……マルティネは、アントンの作品と彼の人柄に対し、熱烈な畏敬の念で満ちていると言われています。彼が第1カンタータを演奏したことを、ヒューバーの家で聞いています(彼はそれをすでにパリ放送局で演奏しました)。彼は、この素晴らしい音楽を、誰もが感動するほど繊細に、献身的に演奏したはずです。マルティネはまた、アントンの音楽にはフランスに多くの信奉者がいること、それは例えばベルクやシェーンベルクの音楽よりも、その性質上フランス人の精神にはるかに密接に調和すること、そしてアントンの作品が何度も演奏されていることも説明していました。私はUEに、演奏機会を知らせてほしいと再三再四お願いしていたのに、これについては少しも知らなかったのです。これはどう理解すればいいのでしょうか?
パリでは第2カンタータの初演と放送が予定されていた。9月28日、ヴィルヘルミーネはヘルミーネに、「今、ラジオを買えるようになることに全力を注いでいます。成功させたいと願っています。私はこの作品を聴かなければなりません!」と書いた。しかし、マルティネのプロジェクトは結局実現せず、第2カンタータは上記のように翌年ブリュッセルで初演されることになるため、ヴィルヘルミーネはその作品を聴くことはできなかった。
1949年12月29日午後5時、彼女はアム・マルクト101の家の2階の小さな部屋で、脳卒中に倒れ、永眠した。
これは余談になるが、1963年に亡くなったヒルデガルト・ヨーネも、夫ヨーゼフ・フンプリックに先立たれてからはかなり寂しい晩年を送ったようである。モルデンハウアーがそのことに触れているので、紹介しておく。
ヴィルヘルミーネがヒルデガルト・ヨーネに宛てた手紙が、その女流詩人の遺品から発見された(ヴェーベルン・アーカイヴ)。ヒルデガルト・ヨーネは、パーカースドルフのヴィンターガッセ13にあるだだっ広い家で、自分の絵やヨーゼフ・フンプリックの彫刻に囲まれて生涯を過ごした。1958年4月5日に夫が亡くなり、病弱で貧しい女流詩人は一人でその荒廃した別荘に残された。彼女はそこで、絵を描いたり執筆したりして残りの歳月を過ごした。大きな戸棚は未発表の手稿で溢れそうなほどいっぱいになり、それは彼女が「ノアの箱舟」と呼んだもので、後世に残すための船とした。彼女は1963年8月28日に亡くなり、パーカースドルフの丘陵地帯にあるヴィーンの森の中に位置する墓地に、夫と、彼女が尊敬していた母親のそばに埋葬された。彼女が穏やかな微笑みを浮かべながら自分の最後の安息場所によく言及していたように、その墓は、彼女が「老後の家」のために自らデザインしたピンクの大理石の中に彫られたハートを特徴としている。
ヴェーベルンの娘のうち、長女アマーリエは、ヴィルヘルミーネの死後一家の代表となり、1973年ヴィーンで亡くなった。病弱だった次女マリアは、2000年まで生き延びて、やはりヴィーンで亡くなった。アルゼンチンに行った三女のクリスティーネは、没年が分からない。
フリッツェンヴァンガー夫人の息子へのインタヴュー】
ダリオ・オリヴェーリ著『ヴェーベルン事件』に、ヴェーベルンのドキュメンタリー番組のために1995年に行われた、フリッツェンヴァンガー夫人の息子へのインタヴューの一部が掲載されていたので、その部分を訳出しておく。彼は家の中の撮影を許さず、名前も教えてくれなかったという。件の事件発生時、彼は軍からの指示で2階に閉じこもっていたはずなので、1階の状況は伝え聞いたのだろう。いくつか事実と異なることを言っているが、訳注で指摘しておいた。
9月15日は、特にあの当時「アム・マルクト101」と呼ばれていた家に住んでいた私たちにとって、恐ろしい一日でした。あの頃ミッタージルに駐屯していた占領軍のアメリカ人たちは、フォン・ヴェーベルン博士、つまりマッテル、彼の婿、ヴェーベルンの婿を逮捕しようとしていました……。逮捕しようとして……。その後、口論が起こって†、ヴェーベルンさんと奥さんは、女の子たち、孫娘たちが眠っている部屋へ行きました。ヴェーベルンは葉巻を吸ってしまいたかったんです、だいたいこれくらいの大きさの葉巻で(手の人差し指と親指でジェスチャーをして)、あの頃はそれより大きくはしなかったんですね。奥さんが、葉巻を吸ってしまうなら家の前に行ってほしいと言いました。そのとき、銃声が聞こえました……。私たちはマッテルさんが逃げようとしたのかと思いました。ところが、誤って殺されたのはヴェーベルン博士だったのです。もちろん、それはとんでもない悲劇でした。
ヴェーベルン夫人と娘とマッテルさんは逮捕されました†。フォン・ヴェーベルンさんはアメリカ赤十字へと運び去られました。家じゅうがアメリカ人によってひっくり返され、翌日、事故であったことが分かるまで誰も出入りできませんでした。
どうやらそのアメリカ兵は、何年も経ってからアメリカの精神病院で死んだようです†、少なくともモルデンハウアー博士は私にそう言いました……。一方、ヴェーベルンの奥さんは私たちの所に残り、この101の家で亡くなりました。
(家の前に立って)そう、ここでヴェーベルンは殺されたんです。彼はここに立って葉巻を吸い、彼の体を貫通した3発の弾丸に撃たれたのです†。そして、ここに(玄関ドアの左側の壁を指さして)弾丸の穴が見えます……あの悲惨な出来事の。そして、それが彼の最期となってしまいました、不幸なことに。私たちは(建物の2階を指さして)あの窓から外を眺めて、銃を構えた兵士を見ました。人違いだったんですよ、不幸なことに……。
1945年に(ヴェーベルンは)オーストリアで、ロシアから、ロシアの占領軍から逃れて、ミッタージルにやって来たんです。(原注)
†訳注「口論が起こって」──口論などはなく、ただ偽の取引があっただけである。マッテルは、アメリカ兵たちとは普段はうまくやっていた。
†訳注「ヴェーベルン夫人と娘とマッテルさんは逮捕されました」──逮捕されたのはマッテルだけである。クリスティーネは二日間だけ拘束され、ヴィルヘルミーネはこの家に閉じ込められ、二日後に事情聴取を受けた。
†訳注「アメリカの精神病院で死んだようです」──レイモンド・ベルはアルコール依存症で亡くなったが、精神病院に入っていたかどうかは不明。ただ、十分あり得ることなので、もしモルデンハウアーが本当にそう言ったのならそうだったのだろう。
†訳注「彼の体を貫通した3発の弾丸に撃たれたのです」──発砲された弾丸は3発だが、ヴェーベルンに何発当たったのかはよく分からない。ヴィルヘルミーネの証言では「a wound」となっているので1発のようであるが、正確にはどうだったのだろう?
原注:このインタヴューは、ロベルト・アンドーのドキュメンタリー《ヴェーベルンのために1883-1945生きることは形を守ること》(イタリア1996、モノクロ35分)に全部が取り上げられている。この証言は、旧アム・マルクト101†の家の前で撮影されている。庭は鉄の柵で囲まれ、その向こうに何頭かの羊が見えるが、その男性は冗談に「meine Jugend」(私の少年たち)と呼んでいる。この当時、作曲家の娘の彫刻家アンナ・マーラー(1904-1988)がSATOR / AREPO / TENET / OPERA / ROTASの魔方陣を彫った青銅のプレートは、すでに正面の左隅に再配置されていた。このプレート作品は、ヴェーベルンの没後20周年(1965年1月15日)に捧げられ、1979年にモルデンハウアーによって出版された写真から推定できるように、最初は作曲家が殺された正確な場所である玄関ドアの脇に位置していた。
†訳注「旧アム・マルクト101」──現在は「アントン・ヴェーベルン・ガッセ2」となっている。
★本訳は、2021年7月、東京オリンピックが始まる少し前くらいに思い立って、2021年9月15日、ヴェーベルンの76回目の命日にアップできるよう準備を進めてきました。ところが、何とそのわずか1週間前の9月8日に、上の訳注と解説でも触れたイタリアのダリオ・オリヴェーリによる『ヴェーベルン事犯罪の再構築』なる本が刊行されたため、急遽それを取り寄せて中身を確認する必要が生じてしまいました。すぐにAmazonイタリアに発注し、届いたのが9月23日祝日。ヴェーベルンの死をめぐってどんな新情報が書かれているのか、わくわくしながら開いてみましたが……どうやら、他書にない情報としては、エルジー・フリッツェンヴァンガー夫人の息子へのインタヴューの一部と、ベンノ・マッテルのかなり詳細な経歴が掲載されている程度で、そのほかはすでに知られている情報を再構成した内容のようでした。そのマッテルの経歴も、実はネット上では既出で、「Axis History Forum」サイトで英語で質問された「SS Kreisleiter Benno Mattel(親衛隊管区指導者ベンノ・マッテル)」とほぼ同じ内容をイタリア語で書いたものでした(ただし、その英語の質問の中にある「マッテルとその妻クリスティーネは1年間の獄中生活を送り」というのは誤り)。この質問、というか「ここに書いた以外のマッテルの情報を何でもいいから教えてほしい」という依頼は、2007年5月7日に投稿されたものの、まったく回答が付かなかったようです。イタリアから投稿されているところから見て、もしかするとダリオ・オリヴェーリ自身が投稿したのかもしれません。
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